ラジオは憩いだ

目が見えない人にとって、ラジオは憩いだ。音だけの世界、声だけの世界は、視覚障害者の「庭」だ。

ラジョの良いところは、目が見える人も見えない人も同じ立場で楽しめることだ。ラジオを楽しむ場合、視覚による格差は存在しない。目が見えない人が置いてきぼりになることがない。

テレビや映画、観光など、視覚情報が情報の9割を占める場合、どうしても視覚障害者は置いてきぼりになりがちだ。音声ガイドや説明を受けたとしても、認識に時間差が出たり、情報の欠落が起きたりする。それは仕方のないことだが、悲しさや孤独感を感じる瞬間でもある。

自分が置いてきぼりになるからと言って、その度に号泣したり、怒り心頭になったりすることはないが、ちょっとくしゃっとした気持ちが心に残る。

似たような置いてきぼり感を感じる場面を思い出した。外国人が英語で話す講演会や英語の映画やテレビなどで、英語で話されるジョークに周りはどっとうけているのに、自分だけがジョークを理解できないときの置いてきぼり感に似ている。

ラジオを聞くとき、そんなくしゃっとした気持ちが生まれないことがどれだけ幸せなことか、目が見える人にもわかってもらえたらうれしい。

ともあれ、僕はラジオが好きだ。話すのも好きだ。それで、ラジオのパーソナリティーをそのうちやることになると思っている。

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