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気仙沼にも塩田。だから旧向洋高校付近は‥

気仙沼・階上(はしかみ)地区。旧向洋高校近くの小さな漁港に立ち寄った時、内湾とは違う風景に出会った。海面と陸地の差が1mくらい。そして、縦長の水路のような港に、船外機付きの小さな漁船ばかりが並ぶ。周りを見渡すと、この辺りだけ土地は低い。

香川県・坂出市(さかいでし)で生まれた私には、懐かしい光景だった。これは、元塩田だ!坂出市やお隣の宇多津町(うたづちょう)の塩田を見て育った私には、当たり前の風景だった。

そもそも塩田は、遠浅の砂浜や砂州がある所で作られる。江戸時代、讃岐髙松藩も財政難の連続で、その打開策の一つとして、播州赤穂(兵庫県赤穂市)から職人を招いて、今の坂出市から塩田開発を始めたのだった。

動力の無い時代だから、干満の差を利用した「入浜式」と呼ばれる塩田では、満潮の時に海水を入れやすいよう、石垣で区画を作り、その中に砂を広げ、太陽光と風による乾燥で濃い塩水を作る。そして、その一角に、火で濃い塩水を塩の結晶に変えていく小屋が建てられていた。

しかし、私が生まれた昭和30年代半ばになると「流下式」という、手間の少ない製塩法が生み出され「入浜式」は姿を消していく。専売制だったとはいえ、コストが格段に低く抑えられる「流下式」は、その後「入浜式」を一掃することになる。

坂出でも、広大な塩田が縮小され始め、塩田跡地には土が入れられ、住宅地や工場用地に変わっていった。

ちょうどその頃(1961年〜1965年)の、気仙沼階上地区の航空写真を、国土地理院の地図アプリの中で見つけた。その当時の航空写真に、高低差を陰で表す画像を重ねたのがこれだ。

伝承館の付近を拡大してみる。

どうやら、伝承館の辺りは、塩田の使命を終えて、埋め立てが始まっているようだ。このすぐ後に「イオン交換膜法」が生まれ、製塩は、工場ひとつで全部終わってしまうようになり、塩田自体が消滅する。

震災前の航空写真。旧向洋高校が、ちゃんと写ってる。周りに水路があるのは、排水のため。低い土地を埋め立てたら、間違いなく周りに排水用の溝が作られる。見慣れた光景だった。そして住宅が建っていく。

震災直後には、学校を残して、何も無くなっている。

これが、数年前の様子。新しく作られた、伝承館の建物が見える。

GoogleMapでは、元の運動場の場所にパークゴルフ場が写っていて、まさに今の景色だ。ここまで復興したことに、胸が熱くなる。

自分の発見に喜んでいたら、実は、ちゃんとサイトがあった。「気仙沼階上」で検索すると、こんな記述がある。

https://hashikami-kanko.jp/about/

播州流波路上塩田の跡地

1680年、製鉄技術調査で中国地方を訪ねた本吉郡馬籠村の佐藤三右エ門が帰路たまたま赤穂に立ち寄り、塩づくりの様子を目にした。3年後、藩の許可を得て人手も燃料も効率が良い藩州流製塩法(入浜式)を導入しようと赤穂で塩煮法を学び、帰りには浜子2人を2年間の約束で連れ帰った。波路上塩田は、当初は民営だったが、その後伊達藩直轄の御塩場として、隆盛を極め、赤穂の製塩技法は東北各地に伝播していった。

でも、元塩田があったことは、私には嬉しかった。東北地方に製塩業を広める拠点だったんだ。何だか、生まれ故郷と繋がっているんだ、と思う気持ちは、きっと消えないと思う。やっぱり気仙沼が大好きだ。

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