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ぼくの願い 第四夜

「遅くなって申し訳ない」
 鳴沢はオレが指定したバーにやってきた。九時二分。たしかに約束の時間より遅かった。だが、たった二分だ。
「いいえ。こっちこそ突然で申し訳ないです」
 きのうの昼、オレは鳴沢に電話を入れて飲みに誘った。こんなこといままでに一度もなかったから鳴沢は驚いていたが、相談したいことがあるというと快く承知してくれた。
「いいんですよ。気にしないでください」
 鳴沢は笑った。
 オレたちはバーに入って席に着いた。
「なにを飲みますか?」
 オレが聞くのと同時にウエイターが近づいてきて、鳴沢はビールを注文した。
「同じモノを」
 オレもウエイターに頼んだ。ヤバい。ビールが運ばれてくるまでの間が持たない。緊張で手に汗が……ううう。
 鳴沢と酒を飲むのは初めてじゃない。何度かある。でもいつもは五、六人でワイワイやってる片隅に鳴沢がいるって感じで、こうして二人きりで酒を飲むは初めてだ。
 ビールが運ばれてきて鳴沢は喉を潤した。
「ふう。冷えたビールがおいしいですね」
 つきあい程度にしか飲めないはずだが、さすがにこれだけ暑い日が続くと、鳴沢もビールはうまいと感じるようだ。
「ええ、本当に」
 オレも一口飲んで応えた。
「で、星野さん。相談したいことって?」
「ええ」
 うなずきながら、オレは心臓が爆発しそうになっていた。
 オレの名は星野智幸。今年二十六歳。スポーツジムのインストラクターだ。呼び出した鳴沢は三十歳。都立高校で歴史の教師をしている。教師だけあって知的な雰囲気の男だ。細い黒縁フレームの眼鏡がよく似合っている。年齢も職業も違う二人。ふつうなら出会うことが亡かった二人。
 でも、ああ……運命の神はオレと鳴沢を出会わせた。
「その」
 オレはビールのグラスをもてあそびながら言った。
「変なこと聞くようだけど、鳴沢さんは恋愛経験とか豊富なのかな」
「恋愛?」
 鳴沢は首を傾げながら言った。
「ぼくなんかより星野さんの方が、よっぽど経験豊富なんじゃないんですか?」
「そ、そんなことないですよ」
 オレは思わず強く否定した。
「もう、ぜんぜんダメです。本当にまるっきりダメ」
「またまた」
 鳴沢は笑った。
「ジムのみんなが言ってたよ。星野さんは大学時代すごいプレイボーイだって」
「嘘ですよ、そんなの。本当です。オレ、ダメなんです。マジで」
 半分は本当だ。大学時代、たしかに女とつきあったが、それは自分を隠す……いや偽るためだった。元カノには悪いけど恋愛感情はなかったんだ。
 自分で言うのも何だけど、オレはわりとハンサムだ。若いころのトム・クルーズに似てるなんて言うヤツもいる。身長も一八〇センチあるし、運動神経も抜群にいい。唯一欠けているものがあるとしたら、おつむの中身ぐらい。でもこの容姿で東大にでも受かってたらパーフェクトすぎて自分で自分が怖い。それでも二流の大学に入るぐらいの脳味噌はあったから、体育大学に進んで運動生理学を学んだ。卒業後は先輩の立ち上げたスポーツジムに誘われて、インストラクターとして生計を立てている。
 いまから一年前。スポーツジムとホストクラブを間違えてる女の客に愛の告白を受けたりしながら(もちろん断った)、なんとか仕事にも慣れたころ、新しいお客さんが入ってきた。それが鳴沢だった。
 鳴沢博之。体力の「た」の字もないような男。彼と出会いたくなかった。だが時間の歯車は逆には回らない。オレたちは出会ってしまったのだ。
「ということは」
 と鳴沢が言った。
「もしかして恋愛の相談ですか?」
「えっ?」
 オレはドキッと心臓が高鳴った。そしてわれながら恥ずかしい話だが、顔が赤くなってしまった。
「驚いた」
 と鳴沢。
「いえ、気を悪くしないでほしいんだけど、星野さんって以外とシャイなんですね」
「は、ははは」
 オレは照れ笑いを浮かべた。
「そうですよ。本当に恋愛って苦手なんです。この顔でいつも誤解を受けるんだ」
「ぼくは星野さんがうらやましいけどな」
 鳴沢も笑った。
「男のぼくから見ても、本当にハンサムで若さにあふれている」
「鳴沢さんだって若いじゃないですか」
「生徒にはオジサン扱いされてますよ」
「三十で? 高校生って容赦ないですね。彼らから見たらオレもオジサンですよ」
「まあ、そうかも」
 鳴沢はまた笑った。その笑顔から、なんだかんだいって、受け持ちの生徒が好きなんだなと伝わってくる。絶対にいい先生だよ鳴沢は。
 そう。そうなんだよ。こういうところが知的でグッとくるんだ。カッコいい。オレにはマネできない。
「で」
 と鳴沢。
「あまり相談相手としてぼくは適任じゃないと思うけど、どういう相談ですか?」
「あの……その前に、その『ですます』調のしゃべり方やめませんか。鳴沢さんオレより年上だし、なんだか話しにくくって」
「ああ」
 鳴沢は苦笑した。
「ジムでは星野さんがぼくの先生ですから、ついね」
「ここではそんなの関係ないですよ。普通にしゃべってください」
「オーケー。そう言ってもらえるとぼくも気が楽だ」
「オレもです」
「じゃあ、仕切り直し。どんな相談?」
「えっと、またまた変なこと聞きますけど、鳴沢さんはどういう相手が好みですか?」
「ぼく?」
「ええ」
「恋愛の対象という意味で?」
「そうです」
 鳴沢は少し考えてから言った。
「星野さん。もし間違ってたらごめん。これは本当に星野さんの恋愛相談なんだろうか? なんだか違うような気がするんだけど」
 するどい。やっぱ頭いいよな。でもオレは嘘は付いてない。これはオレ自身の恋愛相談だ。そう。だれがなんと言っても。
 でも……
「そ、そんなことないですよ」
 オレはうつむいた。ちくしょう。鳴沢の顔がまともに見れない。
「星野さんらしくないな。ハッキリ言ってよ」
「う、うん。その、もしも、もしもだよ。鳴沢さんのことを好きだって言うヤツがいたら、どうする?」
「やっぱりそういうことか」
 鳴沢は肩をすくめた。
「ぼくのことを好きだなんて言ってくれる奇特な人はだれ?」
「いや仮定の話だよ、仮定」
「仮定ねえ」
「ホント。だから仮定として答えてよ」
「もちろん男として悪い気はしないし、正直言ってうれしいよ」
「そ、そうだよね」
「でも」
「で、でも?」
「さっきは思わずだれって聞いちゃったけど、やっぱり聞かない方がいいな」
「なんで?」
「じつは」
 鳴沢は少し気恥ずかしげに語った。
「二年ほど前、うちの近所に新しい喫茶店ができたんだけど、そのお店のマスター、商社の部長さんだったんだ。ずっと喫茶店をやるのが夢だったらしくて、会社を定年退職してやっと夢を叶えたって」
「は、はあ……」
 オレは曖昧にうなずいた。
「それで」
 鳴沢は続けた。
「そのマスターの娘さんが、ぼくが高校時代に憧れていた同級生だったんだ」
「えっ、む、娘さん?」
 オレは思わず聞き返した。
「そう。まさに運命の再会って気がした。もっとも彼女と高校生のとき付き合ってたとか、そういうことじゃないんだ。彼女にはスポーツマンの、そう、ちょうど星野さんみたいな、カッコいい彼がいたからね。ぼくの一方的な片思い。そしてそのまま卒業して、彼女のお父さんが喫茶店を始めるまで、会ったこともなかった」
「同窓会とかでも?」
「うん。最初の同窓会の連絡が来たときは胸が躍ったよ。彼女に再開できると思って。でも彼女は欠席。つぎの同窓会では、ぼくが忙しくて出れなかった」
「そうだったんだ」
 鳴沢の言いたいことは明白だ。この先を聞きたくない。
「べつに」
 鳴沢は照れくさそうに頭を掻いた。
「ずっと想い続けてたってわけじゃないんだ。ぼくだって大学に入ってガールフレンドができたからね。でもその彼女とはけっきょくうまくいかなくて別れた。もう六年も前の話だから彼女いない歴は長いんだよ。それで思いがけず、彼女に再会したので、本当にビックリした。彼女もぼくのことを覚えていてくれたのが、すごく嬉しかったな」
「つまり、その……鳴沢さんは、その同級生が好きなわけだ」
「そういうこと。彼女もまだ未婚だしね。チャンスはある」
「チャンス? まだ告白してないの?」
「この際だから告白するよ。彼女いまでもスポーツマンタイプが好きらしくて、早い話、ぼくなんかお呼びじゃないわけ。だから星野さんのスポーツジムに通うことにした。動機が不純だろ?」
「は、ははは……」
 オレは乾いた笑いを浮かべた。ジムに通ってその人の好みになりたいと思うほど好きなのかよ。
「あと一月ちょっとで、彼女の誕生日なんだ。そのときデートに誘って、告白しようと思っている」
「そ、そうなんだ……」
「というわけさ。だから星野さんが、だれに頼まれたか知らないけど、聞かない方がいいと思う。申し訳ない」
「と、とんでもない。こっちそこ変な話で……あ、じゃあ、出ましょうか」
 オレは伝票を手に取ってレジに向かった。
「払うよ」
 鳴沢も追い掛けてくる。
「とんでもない。オレが出します。呼び出したんだから」
「悪いね」
「いいんです」
 オレたちは店を出てすぐに別れた。

 鳴沢と別れたあと、やけ酒したのは覚えてる。安い居酒屋で。それで終電を逃してタクシーを拾った。なにやってんだろオレ。
 まあいや。もうどうでもいい。
 オレはアパートのドアを開けてバッグを乱暴にソファに投げると、とにかく水を飲んだ。さすがに飲み過ぎだ。
 一息つく。
 すると涙がじんわりにじんできた。
 なんでオレ男なんか好きになるんだよ。しかもノーマルな男を。
 むかしからそうなんだ。同姓しか好きになれない。女になりたいという願望はまったくなくて、オレは純粋な男。でも好きになるのも男。それをずっと隠してきて、この先も隠し続けて生きていくはずだった。
 なのに……
 ううう。なんでだよ。なんで鳴沢のこと思うとこんなに胸が苦しいんだよ。絶対に、絶対に、叶わない恋なんだから、忘れてしまえばいいのに。
 オレは衝動的に包丁を手にして手首に当てた。
 そのとき。
「ちょ、ちょっとちょっと。物騒なことするんじゃないよ」
 女の声がした。驚いて振り返ると、そこにはもっと驚くべきものがあった。金髪の女が、仙女みたいなスケスケの布きれ一枚で宙に浮かんでいた。
「は、ははは……」
 オレは乾いた笑いを浮かべた。
「すごいや。いよいよ頭がおかしくなったみたい。幻覚が見える。どうせなら鳴沢のヌードがよかったな」
「バカ言ってるよ、この男は」
 その女は、ふうとタメ息を付くと、オレを睨んだ。
「どうでもいいけど、その物騒な物を置きなさいよ。あんたはまだ死ぬべき人間じゃないんだから」
「幻覚に説教されてるよオレ」
「あたしゃ幻覚でも夢でもなんでもないよ、現実さ」
「幻覚ほどそういう。たぶん」
「まったく、どうつもこいつも……まあいさ。あたしゃ疲れてるんだ。さっさと終わらそう。あんたの願いを一個叶えてやるよ」
「は?」
「願い事だよ。ああ言い忘れてた。あたしの名前はアシュレモーナ。モーナでいいよ。さあ願い事を言いな」
 オレはほっぺたをつねった。痛い。
「ゆ、夢じゃない?」
「だから最初からそう言ってるじゃないのさ」
「あ、あなたもしかして女神様?」
 そう言えばそう見えないこともない。
「違うよ。どーせ、あんたたち人間には理解できないだろうから、説明は省略。とにかくあんたの願いを叶えるもの。そう理解すればいい。で、願いは?」
「よ、よくわかんないけど、まあいいや。オレは鳴沢と恋人になりたいんだ。彼がオレを愛するようにしてくれ」
「まあねえ」
 モーナは肩をすくめた。
「そんなのは簡単だけど、お勧めできないね」
「なんで?」
「この国ってまだまだ同性愛に寛容じゃないよ。鳴沢ってノーマルなんだろ。それを無理やり同性愛者にねじ曲げるのがあんたの願いならやってあげてもいいけど」
「うっ……」
 モーナのいうとおりだ。
「それはヤダ。オレのせいで鳴沢が鳴沢じゃなくなるなんて。でもだったら、どうやって鳴沢をふり向かせられるんだ」
「お勧めの方法は、あんたが鳴沢を忘れること」
「イヤだ! やっと会えた人なのに!」
「ワガママだねえ」
 モーナはタメ息をついた。
「だったらプランB。あんたが女になる」
「は?」
 オレはしばらく思考が停止した。
「オレが女に?」
「そう。それで万事解決。あんたが女なら男と付き合っても世間はなにも思わない」
「ま、待てよ。冗談だろ女になるなんて……」
 冗談と自分でいっておいて、ふと女になって鳴沢に抱きしめられてる図を想像してしまった。
「それいいかも」
「マジ? お勧めしないよ。だってあんたが女になっても、鳴沢って男がふり向くとは限らない」
「待てよ。オレを女にして鳴沢の恋人にしてくれるんじゃないのか」
「だから願いは一つだけと言っただろ。二つは叶わない」
「詐欺だ。そんなの詐欺じゃないか」
「わたしゃ悪徳業者か」
 モーナは苦笑した。
「こうして最初に説明してるんだから、詐欺でもなんでもないね。あんたが決めるんだよ。リスクを知った上で」
「そりゃねえよ。女になったあとちゃんとフォローしてくれよ」
「悪いけどできない。それが決まりさ。さあ、どうするんだい? やるの、やらないの?」
「ううう。人の足元見やがって」
「さっさと願い事を言いな。チャンスはこれきりだよ」
「わ、わかったよ! 言うよ、言えばいいんだろ! オレを女にしてくれ!」
「はい、よく言えました」
 モーナはニッコリほほ笑んだ。
 つぎの瞬間。いきなり目の前が明るくなって、真っ白でなにも見えなくなった。しばらくすると光は消えて、あとは真っ暗……

「ううう。頭痛て」
 オレは台所の床で寝ていた。
「まいったな。こんなとこで寝ちゃったよ。飲み過ぎかあ。変な夢まで見ちゃうし」
 見ると包丁が落ちている。オレは衝動的に包丁を手首に当てたのを思い出した。
「ヤバ……なにやってんだよ」
 包丁を拾ってシンクに置いたとき。
 ん?
 なにか違和感。肩が……いや胸が重い。物理的に引っ張られる感じ。
 オレはハッとして自分の胸を触った。
「ふ、ふ、ふ、膨らんでるーっ!」
 見事にバストが膨らんでいた。サーッと血の気が引いてバスルームに駆け込むと、鏡の前でシャツを脱いだ。
「う、うそだ……」
 バストだった。女性の。しかもデカイ。これは重いわけだ。そのつぎの瞬間、ハッと気づいてパンツの中に手を入れる。そこにはあるべき物がなかった。パンツを広げて覗いてみる。
「ない。ないよ」
 オレはほっぺたを思いきりつねった。もちろん痛い。
「夢じゃなーい!」
 オレはパニックに陥りそうになった。どうする、どうしよう。女だ。女になっちまった。どうしたらいいんだよう!
 ふと鏡に映った自分の顔を見た。
「あ……顔も変わってる」
 そう。鏡に映った自分の顔が違う。いや、もともとの造形はオレなんだけど、骨格が柔らかいって言うか、肉の付き方が違うって言うか、そう言えば声も……
「あ、あーうー、あー」
 声を出すと、明らかに男の声じゃなかった。少しハスキーだけど女の声だ。
「なんてこった。これが女になったオレか」
 オレは一人っ子だから想像するしかないけど、妹がいたらこんな顔だろうな。どうやらハンサムと美人ってのは同じ理屈らしく、自分で言うのもなんだがなかなか美人だ。
「モーナ……だっけ」
 あれは幻覚じゃなかった。いやもしかしたら、いまのこれも夢なのかも。夢の中でほっぺたをつねると痛く感じるのかも。
 いやでも夢だとしたらリアルすぎる。もしかして天国か?
 オレはそう思ってアパートの外へ出た。見慣れた光景がそこにはあった。東京郊外の、なんの変哲もない街。
「夢じゃない。夢じゃないなら……」
 オレは自分が女になった目的を思い出した。
「鳴沢に告白できる。女として」
 そう思ったとたん。最初の動揺はどこへやら、すっごく、うれしくなってきた。
「あはは」
 自然と笑いがこぼれる。
「これで、これで、やっと鳴沢に告白できる。うれしい。うれしいよう」
 今度はうれし涙が出てきた。
 グスン。とオレは鼻を鳴らして部屋に戻り、またバスルームに入って自分の顔を鏡に映した。
「鳴沢さん。あなたのことが好きです。わたしと付き合ってください」
 なんて言ったら鳴沢が答えるんだ。
「星野さん。ぼくもあなたのことが好きです」
 なーんちゃって、なーんちゃって! 照れるぜ。うははは。どうしよう。モーナありがとう。オレの未来は明るいぜ。
 と思った瞬間。
「待て。オレがいきなり女になったら、みんな驚くじゃねえか!」
 やばいよそれ。独り芝居なんかしてる場合じゃない。免許証の写真だって男のまま。車にも乗れない……
 ん? 待て待て。女神様がそんな初歩的ミスをするか?
 オレはソファに投げ出してあったバッグから財布を出して、中に入れてある免許証を取りだした。
「やっぱり」
 オレは手が震えた。免許証の写真が女の顔になっているだけじゃなくって、名前も変わっていた。オレの本名は星野智幸なんだけど、免許証は星野智子になってる。智子だってさ。なんか古風な名前。もうちょいいまふうにしてくれてもよかったんじゃないかモーナさん。そっか。オレ今日から星野智子なんだ。うわー。
 また鏡の前に戻った。
「初めまして智子。これからよろしくな。この美貌で鳴沢をゲットしようぜ」
 自分にウィンクしてみる。いい女ジャン。

 翌朝。
 オレは寝ぼけた頭でトイレに入って用を足そうとした。そのときいつもあるべき物がないことに気づいた。
「あ、そうだっけ」
 オレは便座を下げて座った。
「ふう。これはめんどくさいかも」
 なんだか出し終わったあとのキレも悪い。オレはトイレットペーパーで残った滴を拭き取った。女ってめんどうだわ。
 まあ、ここまではいい。っていうか、早く慣れなきゃ。女の身体に。髭を剃らなくていいのは楽だし。
 ところが着替えようと思って、クローゼットを開けた瞬間めまいがした。
「女物なんかねえよ」
 夏でよかったよなあ。Tシャツとジーンズなら男も女も関係ない。オレはそう思って、ジーンズを履いた。その瞬間。自分の考えが間違っていたことに気づく。
「サイズが合わない……」
 男と女じゃ体型が違うんだな。でもまあベルトをキツく締めてなんとか格好を整えた。でもそのあとTシャツを上から被って、さらなる問題にぶち当たった。
「ヤバイってこれ。ノーブラなのバレバレじゃんか」
 乳首がTシャツに浮き出てる。ノーブラだってすぐバレる。ハッキリ言ってかなりエッチだ。
 オレは鏡で自分の姿を見た。
「なんか頭悪そうな女」
 ノーブラがバレバレのTシャツで街に出たら、みんなにそう思われそうだ。
「それにしてもまずいよな。男の視線集めまくりだぜ。鳴沢以外にじろじろ見られたくねえよ」
 まだ出勤までに三時間ぐらいある。近くのデパートで下着を買うか。っていうか、買わなきゃな。サラリーマン……もとい。OLでなくてよかった。オレは夜の部のクラスを受け持ってるから出勤時間が遅いんだよね。昼までに行けばいい。
 でも下着ってどうやって買うんだ? ま、いいか。店員に聞けば。
 オレはこのクソ暑いのに、サマージャケットを羽織って胸を隠した。歩くと先っぽが少し痛い。こすれて。オレは胸がユサユサ揺れないように気をつけながら歩いた。なんかめっちゃ恥ずかしい……
 駅前の東急プラザに入って、いままで足を踏み入れたことのない女の下着売り場に向かった。
 うわあ。いろんな種類があるんだねえ。どれ買ったらいいんだ? いや種類があるのはいいんだけど、サイズがわかんねえよ。
 オレは店員さんに声をかけた。若い店員さんだとなんか恥ずかしかったから、目につく中で一番年長っぽい人に。
「あの、すいません。下着が欲しいんだけど、その……サイズがわかんなくって」
「え、ああ。はい。お測りしますよ」
 ベテランの店員さんはポケットからメジャーを出して、オレの胸回りを測った。アンダーがいくつですね、とか言ってるけど、よくわかんない。
「ええと、お客様ですと、90のEですね。こちらの棚の商品になります」
「え? バカに種類が少ないジャンか」
「ええ。このサイズはそれほど種類がないんですよ」
「はあ……」
 残念。あっちの棚にあるブルーのヤツ、けっこう気に入ってたんだけどな。オレはそう思いながらサイズの合ったブラジャーを手に取った。うーん。どれにしよう。よく見ると形が違うような気がする。わかんねえなあ、もう。
「あのぅ、つかぬ事を聞きますが、オレ……いや、わたし、ふだんあまりブラとかしないんで、よくわかんないんだけど、つけ心地がいいヤツってどれですか?」
「そ、そうですねえ」
 ベテランの店員さんは怪訝な顔でオレを見ながら言った。
「お客様ぐらいですとフルカップがいいと思いますよ。全体で包み込みますからバストラインも奇麗ですし、つけていて楽だと思います」
「フルカップね。えーと、これかな?」
「そうです」
 げっ、八千円もする! 高い……でも背に腹は代えられない。
「じゃあ、これ同じ物二つください」
「試着なさいますか?」
「え? いや、いいです。急ぐから。あ、そうだ。パンツも買わなきゃ」
 オレがそう言うとまたまた店員さんは怪訝な顔でオレを見た。
「ショーツですね。こちらです」
「はあ、すいません」
 案内されて売り場に行くと、ここでも店員さんが言った。
「ヒップも測りますか?」
 げげっ。パンツにもサイズってあるのか。いやあるか、それは。
「お願いします」
 恥を忍んでうなずいた。Lサイズとか言われたらやだなあ。だってLサイズって太ってるみたいじゃん。
「92ですね。Mサイズです」
「ホント? よかたァ」
 オレがホッと息をつくと、店員さんがクスッと笑いやがった。くそう。なんか腹立つな。本当に太ってるわけじゃないんだぜ、オレ。まあいい。ショーツは、そんなに高くないや。助かるな。でもまあ、これも二枚もあればいいか。パンツなんて男物履いてても見られるわけじゃなし……
 いや、見られるって。更衣室で。ヤバイ。パンツは毎日代えたいからなあ。五枚ぐらい買っとくかあ。二千円のヤツ買ってもけっこうな出費だなあ。今月きびしいぜ。
 オレは一番安いのを五枚見繕って、レジに行こうとしたとき、ふと思った。
 ちょっと待て。更衣室で女に見られる分にはかまわないけど、もし鳴沢に、こんな安っぽいヤツ見られたら恥ずかしいな。うわあ、そうだよ。鳴沢に見られるかも知れないんだよな。二枚ぐらいは可愛いの買っとこう。
 オレは安物を二枚戻して、ちょっと高級そうなヤツを新たに二枚選んだ。そうすると、無性にブラジャーとデザインが合わないような気がしてきて、今度はブラとショーツがセットになったヤツを探した。
 あったあった。やったぜ。水色がある。ピンクはちょっとね。女じゃあるまいし。いや、女なんだけど……うっ、ダメだ。サイズが合わん。くっそう。なんでオレの胸、こんなにデカイんだよ。ああもう、やだなあ。だんだん重くなってきたし。
 やば。そろそろ行かないと出社する時間だよ。女の買い物に時間がかかる気持ちがわかってきたなあ。待て。女物のジーンズとシャツも欲しい。急がなきゃ。ああ忙しい。

 そんなこんなで、オレは大急ぎで下着を買って(セットになったヤツは、もっと大きいデパートで探すことにした)、女物のジーンズで、またまたデザインに迷いながらなんとか一枚買って、シャツも悩んだけど、いまはシンプルなのにした。鳴沢に見てもらうのは、こんどゆっくり探す。
 さあ帰って支度だ。と思ったとき、ふと化粧品コーナーに目が留まった。そうだ化粧だ。どうしよう。困った。あ、頭が混乱する。
 ダメだ。無理。わかんない。今日は仕事を休みたい。あ、待って。今日は鳴沢が来る日だ。ううう。でもどうしよう。もう仕事に向かわないと……
「ふー」
 オレは深呼吸して気持ちを落ちつかせた。そしてサマージャケットのポケットに突っ込んできたスマートフォンを取りだして、ジムに電話した。
『はい。名波スポーツクラブでございます』
 事務の玲子さんが出た。
「あ、もしもし。星野ですけど」
『あら智ちゃん。どうしたの?』
 智ちゃん? そりゃ確かに玲子さんの方がずっと年上だけど、きのうまでは星野くんって呼ばれていたのに。
『どうしたの?』
 オレが驚いて声を出せないでいると、玲子さんが聞いてきた。
「あ、いや、その……じつは、ちょっと気分が悪いんだ。少し出社が遅れそう」
『えっ、健康優良児の智ちゃんが? 大丈夫?』
「平気平気。たぶん夏バテだよ。二時ぐらいまでには行くから、悪いけど主任に言っといてくれる?」
『いいわよ。でもなんかしゃべり方が変ね』
「そ、そう?」
『だって男みたいよ、そのしゃべり方』
「あ、あははは……」
 オレは冷や汗が流れた。
「きのう見た映画に影響されたかも」
『なに見たのよ』
「ヤクザ映画」
『へえ。そんなの好きなんだ。意外ね』
「あははは……Netflixでつい見ちゃって」
『もしかして夏バテじゃなくて、映画の見過ぎで寝不足なんじゃないの?』
「そ、そうかも。でも社長には内緒ね」
『はいはい。わかったわ。なるべく早く来てね』
「うん。じゃ」
 オレは電話を切った。
 そっかあ。男っぽいしゃべり方だと変に思われるのか。気をつけよう。
 さて。それはそうと化粧品だ。化粧の仕方も教わんなくっちゃ。

 で一時間後。オレはアパートに戻った。
 いやはやまいった。けっきょく衣類に三万円だろ。化粧品に二万五千円も使っちまったよ。再来月のカードの引き落としが怖い。
 なんてことを思いながら、さっそくブラジャーを着けてみた。圧迫感を感じたけど、つけないよりずっといい。動きやすいし。ショーツも履く。なんとなく値段の高い可愛い方を履いてみた。うん。女の身体には、こっちの方が似合うね。ジーンズは裾を直す時間がなかったけど、オレ足が長いからぜんぜん問題なかった。真っ青なブルージーンズ。気持ちいいよね。履き古したジーンズが好きなやつもいるけど、オレは断然、色落ちしてないジーンズが好きだ。白いシャツが映えるじゃん。
 鏡を見る。
「うん。似合う」
 オレは髪をとかした。
 うーん……この髪型似合わないなあ。そりゃそうか。男だったんだもんな。美容院の予約もしなきゃ。
 さ、こっからが本番だぜ。
 オレは買ってきたリップを出して唇に塗った。肌は化粧品売り場で、店員のお姉さんに下地を作ってもらったから、今日はそのまんまでいいかな。乳液とかいろいろ買わされて、夜にアレ塗ってコレ塗ってっていわれたからもう頭がパンクしそう。ホント女って大変。リップすらうまく塗れないよ。もー、ヤだなァ。
 二度失敗してなんとか完成。うん。いい感じ。なんたって元がいいからな。なんちゃって。鳴沢に会うのが楽しみになってきた。
 さあ行こう!
 オレは通勤に使っている黒いスポーツバッグを手に取った。
 ダメじゃん! このバッグ! 可愛くない!
 ちっくしょ。今日はしょうがない。我慢しよう。腕時計はApple Watchだから男も女も関係なくてよかった。
 と、出勤しようとアパートを出て急に不安になった。本当にこの先女としてやっていけるのか。だれかに相談したいけど、こればかりはだれにも相談できない。すべて一人で解決しなきゃいけない。
 不安だ……
 ダメダメ! 弱気になるな。ぜんぶ鳴沢のためだ。あいつが一緒に歩いても恥ずかしくないような女にならなくちゃ。とびきりいい女になってやる。そうだよ。自信を持て。オレ美人なんだし。
 とにかくいまは仕事に行こう。
 オレは可愛くない男物のバッグで電車に乗った。
 ラッキー。席空いてる。電車のベンチシートに腰を下ろす。
 ふう。それにしても暑いよな。額に浮き出た汗をハンカチで拭った。そのとき向かい側に座っている若いサラリーマンの視線に気づく。そいつはオレが目を向けると、さっと横を向いた。
 なんだよ。あ、そうか。いまの仕草って、男の琴線に触れるのかも。うんうん。汗かいてる男ってオレも好きなんだよねえ。抱かれたいって思うよ。うんうん。
 そのとき。オレは股を開いて座っているのに気づいて、あわてて閉じた。ヤバい。サラリーマンが見てたのは、男っぽい座り方をする女がいたからかも。スカートでなくてよかったァ。待てよ。スカートだったら逆に気をつけて座るかも。それにスカートを履く練習もしないと。
 乗換駅で山手線の乗り換えた。こっちは混んでいた。そこでもオレは男の視線に気づいた。やっぱりサラリーマンなんだけど今度は中年のオヤジ。脂ぎった顔で、汗をだらだらかいて、腹もお肉がぷっくり出てる。このオヤジがまた、いやらしい目つきで見るんだよオレを!
 なんか気持ち悪い……車両移ろうかな。でも混んでるしな。あーあイヤだな。こんなオヤジの観賞用に女になったわけじゃない。鳴沢のために女になったんだ。そう。鳴沢にだったら、いくらでも見てもらいたい。
 そんなこんなで、女になって初の電車通勤をなんとか乗り越え、やっとジムのある駅に着いた。

 二時半ごろ、ジムに到着。
 さっき玲子さんと電話で話して、オレが女なのが当たり前の世界なんだとわかっていても、事務所に入るときは緊張した。
 もちろん女のオレが入っても、だれも驚かなかった。驚いたのはオレの方だ。うちはインストラクターがオレを含め四人と、事務員さんにアルバイトの子が二人。それに元はインストラクターだった社長(オレの先輩)に、その奥さんが専務。この九人が同じフロアに机を並べている。
 ジムとしては大きい方だけど、会社としては小さな組織だ。それでも人間関係がけっこう複雑なんだよ。小さい組織だからこそ複雑なのかも知れないけど。
 で、その人間関係が、オレが女になっただけで(だけって言うのも変だけど)、けっこう変わっていた。
 まず同じインストラクターの遠山香苗の態度の違いに気づいた。彼女、まあ、そこそこの美人で、いつもオレにモーションかけてきてたんだよ。頼みもしないのに、お茶を淹れてくれたりとか。その彼女が、オレに対して、すごく冷たい。挨拶すらしてくれないんだぜ。きのうまでは、とびきりの笑顔でオレに挨拶してたくせに。本性を見たって感じだよな。
 つぎにやはり同じインストラクターの近藤裕一だ。こいつオレより二つ上なんだけど、自分じゃハンサムだと思ってるらしく、オレにすごい対抗意識を燃やしてたんだよ。ハッキリ言って仲が悪かった。それがどうよ。オレが女になったら、まあ態度の違うこと。気分が悪くて遅刻してきたのを、さも善人ぶって心配なんかしちゃってさ。そのときオレの胸をチラチラ見るんだぜ。ぐえっ。気持ち悪いヤツ。男だったときも嫌いだったけど、女になったらもっと嫌いになった。
 最後に小泉優香。彼女とは同期で入った同い年。入った当時は、わりと仲がよかったんだけど、ここ一年くらいあまり話をしていない。向こうが避けてるって感じなんだよな。嫌われる理由に心当たりはなんだけどなあ。それがどうよ。オレが席に着いた途端、すごい勢いで話しかけてきて、面食らった。
「なになに、智ちゃん、どうしたのよ。調子悪かったんだって?」
「ああ。大丈夫だよ」
 オレは答えた。
 こいつにも智ちゃんって呼ばれてるよ。変な感じ。
「そう? だったらいいけど、あんまり無理しない方がいいよ」
「ありがと。でもホント大丈夫だから」
 オレはバッグから生徒さんの管理表が入ったファイルケースを取り出した。
「あれ? 智ちゃんって、そんなバッグだっけ?」
 ギクッ。
「な、なんか変?」
「変じゃないけど……うーん。ふだんは赤いバッグを持ってたような……あれ。違うか。どうしてだろう。よく思い出せないや」
 魔法で変わっちゃった世界だからな。あんまり突っ込まれたくない。
「バッグなんてどうだっていいじゃないか。気にするなよ、そんなこと」
「ど、どうしたの智ちゃん」
 優香が驚く。
「なんか、しゃべり方が男みたい」
 ギク、ギク。
「あはは……宝塚に入ろうかな。なーんて思ったりして」
 オレは自分でも不気味だと思いながら、なるべく可愛い声を出してみた。
「あ、それいいねえ!」
 優香の瞳が輝いた(ような気がした)。
「智ちゃんなら、ぜったい男役似合うよ。王子様の役とか」
「バカ言わないで。ちょっと冗談を言っただけ」
 相変わらず女っぽくしゃべるのは難しい。だいたい王子様なんかだれがなるか。せっかく女になれたのに。そう。オレはお姫様になりたいの。鳴沢が王子様だ。
「え~、似合うのになあ」
「さてと」
 オレは優香を無視して立ち上がった。
「そろそろ着替えてこなきゃ」
「あたしも」
 優香も立ち上がった。
 えっ、こいつと更衣室に入るの? イヤだなあ……
 でも入った。しょうがないだろ。更衣室はここしかないんだから。
 オレは女子更衣室に入って、ハタと立ちすくんだ。生徒さんと共用の更衣室だから、けっこう広い。ここのどこがオレのロッカーなんだ? 優香が一緒だから、うろうろ探し回ったら怪しまれる。
「どしたの?」
 優香が首を傾げた。
「い、いやなんでもない」
「変な智ちゃん。早く来なよ」
 オレは優香に言われて、彼女のあとを追った。よかった。オレのロッカーは彼女の隣だったのだ。
 オレは鍵を出してロッカーを開けた。中身は男性ロッカールームにあったときと変わっていなかった。よかった。空っぽだったら、どうしようかと思ったよ。
 隣の優香が、いそいそとズボンを脱ぎ始めたので、オレもジーンズを脱いで、ジャージに履き替える。
「あれ?」
 まだパンティ姿の優香が首を傾げた。むむっ。こいつ可愛いショーツだな。どこで買ったんだろう。欲しい……
「智ちゃん、今日はスパッツじゃないの?」
「スパッツ?」
 いや、スパッツがどんなものかぐらい知っている。
「あ、いや、その……」
 オレが口ごもると、優香が言った。
「いつもスパッツよね? あれ? 違ったかな。なんだろう。変だなあ、記憶が錯乱してる感じ」
「そうそう!」
 オレはあわてて言った。
「ぜんぶ洗濯しちゃったんだ、スパッツ。あはは。わたしってドジだよね」
 おまけでペロッと舌まで出してみた。いかがなものだろうか。少しは女らしく見えるだろうか。
「ぷっ」
 と優香が吹き出した。
「智ちゃんって、可愛いとこあるんだよね。美人なのに」
「べつに顔は関係ないでしょ」
 オレはそう言いながらシャツを脱いで、ジムのロゴが印刷されたTシャツに着替えた。
「ちょっと、智ちゃん」
 スパッツを掃き終えた優香が言った。
「まさか、スポーツブラまでぜんぶ洗濯しちゃったの?」
 あ、そうか。ブラジャーもあるのか……
「う、うん。ホントにドジだよね」
「しょうがないなあ。あたしの貸してあげたいけど、サイズが合わないもんね」
「いいよ気にしないで。一日ぐらいなんとかなるって」
 くそう。また出費だ。明日買ってこよう。
「でもさあ、智ちゃんぐらい胸が大きいと大変だよね。あんまり種類がないでしょ?」
「う、うん。まあね」
「でもいいなあ。あたしも、もうちょっと胸が欲しかったよ」
「重いよ。肩が凝る」
 これは本音。重いんだよマジで。だんだん慣れるのかも知れないけど、きのうまでなかったものだから、マジ重いんだよね。
「言ってみたいよ、そんなセリフ」
 優香は苦笑いを浮かべた。確かにシャツを脱いだ優香の胸は平べったかった。楽でいいと思うけどなあ。
「やだあ。比べないでよ」
 オレの視線に気づいた優香が、さっと腕で胸を隠す。
「ご、ごめん。べつに比べてなんかないよ」
 ヤバいヤバい。女の胸を見つめるなんて、電車の中年オヤジをとやかく言えないよ。動機は違うけど。オレはバッグをロッカーに押し込んで鍵をかけた。
「じゃ、お先」
「ちょっと待ってよ~。冷たいなあ、智ちゃん」
「はいはい」
 オレは仕方なく更衣室のベンチに腰を下ろした。優香は小さいながらもちゃんとスポーツブラに着替えていた。いいなあ小振りな胸で……オレのサイズだとスポーツブラも種類がなさそうだ。明日も仕事だし、探しに行く時間がないなあ。近場に売ってるとこないかなあ。あとでネットで調べてみよう。
「あ、そうだ!」
 優香が思いだしたように言った。
「そういえばさ。原宿に新しいスポーツ用品店ができたんだよ、知ってる?」
「知らない」
「そこって輸入物も揃ってるんだって。智ちゃんのサイズでも、いろいろ種類があるかも」
「ホント?」
 オレはがぜん興味を持った。
「そっか。サンキュ。行ってみるよ。場所教えて」
「一緒にこうよ。明日の午前中」
 え~っ、こいつと? うーん……まあいいか。
「いいよ」
「やった!」
 優香はニッコリ笑った。
「智ちゃんとデートだ。うれしいなっと」
 こいつ女子校のノリか? 疲れるよなあ。

 なんだかんだと時間は過ぎて、鳴沢たちのクラスの時間になった。
「どうしたの智ちゃん?」
 席から立たないオレに優香が言った。
「また調子悪いの?」
「違う」
 オレは意を決して立ち上がった。
「なんでもないよ。じゃ行って来るから」
 トレーニングルームに向かう。
 あああ。ドキドキする。鳴沢オレを見てどう思うだろう。
 すでに生徒さんが集まって談笑していた。トレーニングルームの廊下側の壁はガラスだから、その談笑の中に鳴沢がいるのも見える。
「こんばんは」
 オレはガラスのドアを開けて中に入った。
「こんばんは」
 生徒さんたちが挨拶をした。あからさまに見ちゃいけないと思っても、鳴沢の顔が気になってしょうがない。ちらっと彼を見ると、べつにオレに対してなんにも思ってない様子。ガッカリ。
「えーと、それではストレッチから始めてください」
 オレは生徒さんたちに言った。このクラスは、みんな一年近く通っている連中ばかりだから、細かい指示を出さなくても、しっかりストレッチをやってくれる。オレはその間に小脇に抱えたファイルケースから、生徒さんたちの管理表を出して、それぞれのトレーニングメニューを確認した。
 充分ストレッチをやったところで、生徒さんたちに指示を出す。みんな、それぞれのトレーニングマシーンに向かう。鳴沢は腹筋台だ。
 オレはわざと、鳴沢から一番遠い生徒さんからチェック初めて、はやる心を抑えながら鳴沢の方へ近づいていった。
「な、鳴沢さん」
「はい」
 鳴沢は腹筋運動をやめて返事をした。
「ええと、そろそろ負荷を上げたいんですが、きつくないですか?」
「いえ。大丈夫だと思います」
 鳴沢は笑顔で答えた。
 うわあ。
 オレは思わず鳴沢を見つめてしまった。すてき。首筋に汗が流れてるとこなんか、むちゃくちゃセクシー。ああ、このまま、抱きつきたい!
「星野先生?」
 鳴沢が首を傾げる。
「あ、ご、ごめんなさい」
 オレはあわてて鳴沢の管理表に目を落とした。
「大丈夫ですか? ちょっと顔が赤いみたいだけど、まさか風邪?」
「ち、違います。夏バテかな。あはは。インストラクター失格ですね」
「暑いですからねえ。スポーツ選手だってバテますよ」
「そうですね。ビールでも飲みに行きたいなァ」
 とオレが誘うように言うと、鳴沢の隣の生徒さんが反応した。
「おっ、いいですね。星野先生、うちのクラスで仕事上がりでしょ? 一杯飲みに行きますか?」
「またお腹にお肉がつきますよ、鈴木さん」
「だからここで燃焼させてるんですよ」
 その生徒さんは、がははと笑った。
「そうですねえ」
 オレは鳴沢をチラッと見た。
「みなさんがいらっしゃるなら、わたしもお付き合いしようかな」
「ぼくはパス」
 と鳴沢。
「テストの採点があるんですよ」
「あ、そうですか……大変ですね。高校の先生も」
 うー、残念。
「じゃあ鳴沢さん抜きで、ほかの連中誘っていきましょうか」
 とほかの生徒さん。
「ごめんなさい。わたしもパスです。鳴沢さんのテストで思い出しました。わたしもみなさんの管理表をまとめなきゃ」
 オレは笑顔で答えると、鳴沢に向き直った。
「では負荷を二キロ増やしましょう」
「はい。お願いします」
「辛かったら言ってくださいね」
 べつに鳴沢だから優しくしてるわけじゃないぞ。このクラスの生徒さんは、三十代から四十代の人たちで、スポーツ選手になるのが目的じゃない。体力維持と、緩やかな向上が目的なんだ。だから無理なトレーニングで筋を痛めては元も子もない。とはいえ、同じ負荷でトレーニングを続けても筋力は向上しないから、少しずつ負荷を増やして、体を作っていくんだ。もちろんトレーニングの進行具合は個人差があるから、そういことをキッチリ管理するのがオレの仕事。うちは二四時間無人の格安ジムとは違う。ってジムの宣伝はともかく、鳴沢は筋肉が付くのが遅い。食事が悪いんだろう。
「鳴沢さん」
 オレは重りを二キロ増やしながら言った。
「ちゃんと食事を取っていらっしゃいますか?」
「いや、すいません」
 鳴沢は恥じるような顔で言った。
「独身ですと、食事のメニューにまでなかなか気が回らなくて」
「ダメですよ。トレーニングと食事はセットだといったじゃないですか。食事の管理をしっかりしないと、トレーニングでむしろ体を壊すこともあります」
「すいません、つい時間がなくて」
 わたしが作ってあげましょうか……って言いそうになるのをグッとがまんした。ヤバいわ。そんなこと言ったら痛い女どころかストーカーだと思われる。
「わかりますよ。わたしも独りですから」
 オレはほほ笑んだ。さりげない独身アピール。
「大変だと思いますけど、以前にお渡ししたメニュー表になるべく沿った食事を心がけてくださね」
 うん。鳴沢と話していたら、女っぽいしゃべり方に慣れてきた。彼にはいい女だと思われたいからかな。
「星野先生。すいません、やっぱり少し重いかな」
「あ、ごめんなさい。サポートしますから、もう一度やってみてください」
 オレは鳴沢の動きに合わせて背中を押した。Tシャツにしみこんだ鳴沢の汗が手につく。
「どうですか?」
「そりゃ楽ですよ」
「うん。いまぐらいのサポートで楽と感じるなら、この負荷で大丈夫です。最初は重いと感じるでしょうけど、がんばってください」
「はい」
 鳴沢は運動を続けた。
 オレはまだ彼の汗で湿った手をそっと握った。中年オヤジの汗なんか、見るのもイヤなのに鳴沢のだと逆に気持ちいい。手を洗いたくないって感じだ。なんか変態ぽいなオレ。やっぱり中年オヤジのことどうこういえないかも。

 アパートに帰り着いたのは夜の十時を少し回ったころだった。
「あ~あ」
 オレはバッグを投げ出すと、キッチンテーブルの椅子にどっと座り込んだ。
「なんだか疲れただけの一日だったなあ」
 そう。鳴沢とは、あれっきりほとんど会話もしないままお別れた。一日目から期待したって無駄なのはわかってるけどさあ。
 オレは鳴沢にちゃんと食事を取るようになんて言っておきながら、冷蔵庫から冷凍食品を出すと、電子レンジに突っ込んだ。考えてみればオレも独身男性なんだよな。それなりに食事のメニューには気を使っているつもりだけど、やっぱ、めんどくさくて、簡単なもので済ませてしまうことも多い。こう暑いと食欲も出ないしさ。
 なんだか今日は一人の食事が侘びしく感じる。明日、料理の本でも買ってこようかな。いつか鳴沢のために、おいしい料理が作れるように。
 チンした冷凍食品を半分ほど食べたとき、下腹部に軽い痛みを感じた。鈍痛だ。どこが痛いのかよくわからない、どんよりとした痛み。
「なんだろ」
 オレは眉をひそめ、トイレに入ってショーツを降ろしたとたん心臓が止まりそうになった。
「ち、血だ……」
 な、なんだよ、なんでこんなところに血が。あっ……生理かこれ。
「お赤飯炊かなくちゃ」
 オレは苦笑した。
 それにしてもまいった。これ可愛い方のショーツだったのに。グスン。
 いや泣いてる場合じゃない。
 オレはとりあえずトイレットペーパーで血を拭く。ギャーッって感じ。女が血に強い理由がわかる。イヤだ。こんなのが毎月来るのかよ。気分は最悪。
 だけど……
 女になったんだなあ。本物の。鳴沢の子供が産めるんだな。オレと鳴沢の子供かあ。頭がよくって、スポーツも得意な子になるだろうな。
 なんて言ってる場合じゃない! ナプキンだ。ナプキン買ってこなきゃ。オレはまだ血が止まらないので、トイレットペーパーをショーツに当てて履くと、トイレを出て、財布だけ持って部屋を出た。コンビニがあってよかった。とにかく夜用のハネつきってヤツを買ってみた。昼用も買った。なにが違うのか、そもそも、どれがいいのか悪いのか、サッパリわかんないけど。

 翌朝。
 気分最悪。お腹痛い~。きのうより血が多い~。このまま死んじゃう~。
 と思いつつも、死ぬわけはなく買ってきたナプキンをぜんぶバッグに詰め込んで(いくらあっても足らないんじゃないかという不安が……)、優香との約束に遅れないようにアパートを出た。本当は寝ていたかったんだけど、スポーツ用品店で買い物をしたかったんだ。
「おっはよ!」
 すでにカンカンと太陽が照りつけるなか、待ち合わせの場所で、優香がいやに元気な声でオレを迎えた。
「ああ、おはよう……」
「なによォ。そのドロンとした顔。美人が台無しよ」
「生理なんだよ。いえ、なのよ」
「あら……きのうから?」
「うん」
「それで調子悪かったのか」
 いや、きのうの夜からなんだけど。まあいっか。説明もめんどくさい。
「でも智ちゃんって、生理ひどかったっけ? そういう話聞いた記憶がないなあ」
「精神力で隠してたの。この暑さでそんな気力もない」
「薬飲んだ?」
「飲んでない」
「飲んだ方がいいよ。あんまりひどいときは」
「うん。あとで買う」
「平気? どっかで休む?」
「大丈夫。こんなことでくじけてたら、女なんかやってられない」
「ワォ。さすが智ちゃん。勇ましいね」
「ははは……とにかく買い物を済ませようぜ。じゃなくって済ませましょう」
「暑さで頭が錯乱してるね」
 優香がクスクス笑いやがった。
 まあ確かに錯乱してはいるよな。頭だけじゃなく身体も。

 優香との会話は疲れるが、来てよかったと思った。必要な物がぜんぶ揃ったのだ。オレがあんまり買い込むから優香は驚いていたが。
「ねえ智ちゃん。まだ時間あるからお茶してこうよ」
「うん」
 優香がオレの荷物を半分持ってくれていた。ありがたい。体力と腕力で優香に負けるとは思わないけど、今日はね、ホントに辛いのよオレ。
 オレたちはお洒落な茶店に入った。大学生ぐらいの男どもの視線を感じるが、まあ、それにもだんだん慣れてきた。
 アイスティーが運ばれてきて、それに口を付けると、優香が言う。
「少し顔色よくなってきたね」
「うん。だいぶよくなってきた。心配かけてごめんね」
 事実だった。生まれて初めての経験で、身体がビックリしたんだろう。慣れて(?)くると、痛みも耐えられないってことはなく、薬を飲まなくてもなんとかなりそうだった。できれば鎮痛剤のお世話にはなりたくない。
「よかった」
 優香も自分のアイスティーに口を付ける。
「ねえ、智ちゃん」
「なに?」
「前から聞きたかったんだけど……智ちゃんって彼氏いるの?」
「いないよ」
「うそ。こんな美人なのに?」
「関係ないよ、そんなこと。こっちが好きにならなきゃ意味ないし」
「そうだよねえ」
「優香こそ、どうなの。いるの彼氏?」
「いないよォ。いるわけないじゃん」
「ふうん」
「ふうんって、それだけ?」
「恋愛は人それぞれだからね。べつに詮索するつもりはない」
「智ちゃんってクールだよね。そういうとこ男っぽいよ」
「そうかもねえ」
 だって男だもん。
「でもさあ、智ちゃん。好きな人とかいるでしょ?」
「いるよ」
「だれだれ?」
「秘密」
「ぶーっ」
 優香は頬を膨らませた。
「イジワル。教えてくれてもいいジャン。友達でしょ」
 いつ友達になったんだか……
「そんなイジワル言うなら、あたしも教えてあげない」
「なにを?」
「あたしの好きな人」
 知りたくもねえよ。
「そっか。優香も好きなヤツいるんだ。じゃ、お互いがんばろう」
「だれだか聞かないの?」
「いま教えないって自分で言ったじゃない」
「ホントにクールなんだからァ」
「はいはい。しゃべりたいのね。だれよ?」
「秘密」
 優香はクスッと笑う。
「こいつ……」
 オレは引きつった笑いを浮かべた。たいがいにせえよ。
「なかなかいい性格してらっしゃるじゃない、優香さんったら」
「オホホ。智子さんには負けますわ」
 優香は高飛車女のマネをしながら言うと、だれが聞いてるわけでもないのに声を潜めた。
「じゃあさ。ヒントを差し上げます」
「どうぞ」
「わたしの好きな人は、けっこう身近にいる人です」
「ほう。ということは仕事仲間ですか? まさか近藤?」
「冗談でしょ。あいつハンサムだけど鼻持ちならないと思わない?」
「思う思う」
 オレはコクコクとうなずいた。
「で身近な人のだれなのよ」
「絶対にだれにも言わない?」
「言わないよ」
「約束する?」
「約束します」
「えっとね……じつはあたしのクラスの藤村さん」
 藤村?
「えーっ!」
 オレは思わず声を上げた。
「ふ、藤村って……オジサンじゃんか」
「オジサンていうな」
 優香は、ぷっと頬を膨らませた。
「ご、ごめん。でもさ、あの人……五十近かったんじゃない?」
「失礼ね。まだ四十六よ」
「あ、そう……驚いた。優香ってそういう趣味なんだ」
「そういう趣味ってなによ、そういう趣味って」
「オジン趣味」
「こいつう」
 優香はぐっと体を乗り出して、オレのこめかみを両手のグーでグルグリと押した。
「あ、痛たたた。でもそこ、ツボかも。いいわ。もうちょっと」
「あたしはマッサージ師か」
 優香は苦笑いを浮かべながら手を離した。
「絶対に秘密だよ」
「言うわけないよ、そんなこと」
 オレはそう答えながら、いきなり優香に親近感を持った。オレと似てるかも。鳴沢を好きになっちゃった男のオレ、すごい歳上を好きになった優香。まあ優香の方がノーマルだけど、悩みの大きさは簡単に割り切れるものじゃないよね。
 そう思ったらオレも無性に自分のことが話したくなってきた。
「あ、あのさあ」
 オレはだれが聞いているわけでもないのに声を落とした。優香と一緒のことやってるよ。
「わたし優香の気持ちわかるよ」
「でしょう。藤村さんいい男だもん。渋いよねえ。ダンディ」
「ホントにオジン趣味なんだなあ。その気持ちはいまいちわからない」
「いいのよ。藤村さんの魅力は、あたしにだけわかれば。それより智ちゃんも白状しちゃいなよ。好きな人」
「ではヒントです」
「おお。やっとその気に。はいどうぞ」
「その人はわたしの身近にいます」
「鳴沢さんでしょ」
「え?」
「やっぱりね」
 優香は勝ち誇ったように言った。
「そーじゃないかと思ったのよ」
「な、なんで知ってるの?」
 オレは動揺を隠しきれない顔で聞く。
「智ちゃんの鳴沢さんを見る目でわかるって。完ぺき恋をしてる目だね」
「い、いつから気づいてたの?」
「もうだいぶ前。鳴沢さんが入ってきて、ちょっとしてかな。智ちゃんも片思いの時間長いよねえ」
 そうか。それでか。オレはやっと優香が、ここ一年近くオレを避けるようになった理由がわかった。同性愛者と思われてたわけだ。まあ、そのとおりなんだけど。で、オレが女になって、つまり肉体的にも精神的にも社会的にも、鳴沢に恋をしても許される状況になったので、優香はまた、もとのように仲良しに戻ったのだろう。それも今度は女同士だから、オレが男だったころより、ずっと仲良し度が高い。
「そっかあ。バレてたのかあ」
 オレは思わず苦笑した。
「さすが優香。スルドイよね。負けました」
「智ちゃんが鈍感なんだってば」
「言ってくれますね、この子は。どーせわたしは鈍感ですよ。優香の好きな相手もぜんぜん気づかなかったし」
「あたしはほら、隠すのうまいから」
「うわ。やな女だねえ」
「思慮深いと言ってよね」
「どこが」
 オレたちは笑った。
 それからジムに出社するまでの一時間。オレたちはお互いの片思いの相手のことを、あーでもない、こーでもないと語り合った。いやあ、楽しい。ずっと秘密にしてたことを、ぶちまけるって。心地いいものだったんだね。

 ま、そんなこんなで、オレと優香はマジですっごい仲良しになってしまった。
 つぎの休みの日も二人で買い物に出かけた。優香のよく行くランジェリーショップに連れて行ってもらったんだ。
「これなんかどう?」
 オレは優香に黒い下着を見せた。
「やだ、智ちゃん。あたしそんなセクシーなの履けないよ。智ちゃんなら似合うかもね」
「そうかなあ」
「うふふ。鳴沢さん、意外と好きかもよ、そういうの」
 なにをしてるのかって? 二人して勝負下着を選んでいるのだ。うはは。もう頭がおかしくなりそう。っていうか、おかしくなってる。確実に。だから結果的に正常になってるんだよオレ。だって女だもん。この頃になると完ぺき女のしゃべり方に慣れきって、男っぽい言葉づかいとか、ほとんど使わなくなっていた。
「うーん。でもわたし水色がいいな」
「智ちゃん青い色好きだよね」
「優香はピンクが好きだよね」
「だって可愛いじゃん」
「可愛いのは認めるけど青い方が奇麗だよ。それに藤村さんだったら、可愛く迫るより、ぜったいセクシーに迫った方がいいって」
「うっ。言われてみれば」
「でしょ。だから優香は黒ね」
「ダメだってばあ。それなら清純な白だよ」
「うーん。鳴沢さんこそ白かなあ」
「あ、それはそうかも。真面目そうだもんね」
「よし。わたしも白にしよう。種類もあるし」
「胸大きいと、こういうとき大変だねえ」
「うん。マジで肩も凝るしさあ。アセモとかできちゃうんだよね」
「アセモ? どこに?」
「オッパイの下に決まってるでしょ。いいわね。胸小さいと、そういう悩みがなくて」
「うわ嫌み。今日の晩ご飯は智ちゃんのおごりね」
「なんでそうなるのよぅ。今月きびしいんだから割り勘です」
「はいはい。金欠はお互い様。あ、そうだ。安くてけっこう美味しいお店見つけたんだ。メキシコ料理なんだけど、行ってみない?」
「うん。行く行く。パエリア食べたぁい」
「それはスペイン料理だよ智ちゃん」
「あっ、そっか」
 オレは、ペロッと舌を出した。
「ホント、顔に似合わずお笑い系だよね、智ちゃんって」
 優香は笑った。こんな調子で買い物なんか、なかなか終わりゃしないんだけど、楽しいんだよねえ、これが。

 と、ほんわかした日々を過ごしているわけには行かないのだ、勝負下着も買ったことだし、いよいよ本格的に鳴沢のハートをゲットしなければ。

 作戦その一。料理の勉強をする。

 いまどき古風だろ? だって料理が得意じゃんかったんだもん。科学的にどんな食材を食べるのが体にいいかは知ってるけど、それをおいしく調理する腕はない。
 いまどき男子厨房に入るべからずなんて家はないだろうけど、料理にそれほど興味がなかったんだ。でもいまは違う。さすがに、みそ汁の一つもまともに作れないんじゃマズイでしょ。女としてじゃなく人として。だからお勉強。ジムが休みの日に料理教室に通ってる。

 作戦その二。鳴沢の家の近くに引っ越す。

 だいたーん、ストーカーっぽい! とお思いのあなた。それは違います。女になって、三日目には、引っ越しのことをまじめに考えてたんだ。オレの住んでたアパートって、木造の古い建物だったのよ。寝に帰るだけだからと思って、安いとこ探したわけ。いや、さすがに学生が住むような風呂もないアパートじゃなかったけど。
 でさ家具とか完ぺき男の物じゃんか。それを買い換えるのとかも面倒だから、いっそ引っ越しちゃえと思ったわけ。だったら鳴沢の家の近くがよくない? 街でバッタリ出会うなんてシチュエーションを夢見て。だから彼の家の近くで探したんだ。オレが住んでたところより家賃の高いエリアだったから無理かなと思ったけど、なんと予算内で空き物件が見つかった。それも彼が住んでるマンションの、三つ隣のアパートに。
 もー、それ見た瞬間、即決したね。家具とか買い揃えたら貯金がだいぶ目減りしちゃったけど、新しい人生を新鮮な気持ちではじめたいからよしとする。うん。
 そんなこんなで、引っ越しも終わって一ヶ月が経った。

「鳴沢さーん!」
 オレはトレーニングが終わってジムを出ていこうとする鳴沢を追い掛けた。
「どうしたんですか星野先生」
「いまお帰りですよね?」
「ええ」
「じゃあ一緒に帰りましょう」
「は?」
「いえ、わたし、おととい引っ越ししたんですけど、なんと鳴沢さんと同じ街だったんですよ」
「へえ、そうなんですか。奇遇ですねえ」
「ホントにねえ。わたしも昼間、生徒さんの資料を整理してて気づいたんですが、ビックリしました」
 嘘ばっか。狙ってやったのに。
「ははは」
 鳴沢は笑った。
「考えてみれば、このジムに通ってる人たくさんいますからね。そう言うこともあるでしょう」
「そうですね」
 オレたちはそんな会話をしながらジムを出て駅に向かった。
 夜の九時。さあ計画通り行くぞ。
「ねえ鳴沢さん。よかったら食事をしていきませんか?」
「ごめんなさい。今日はジムに行く前に時間があったので食べてきてしまったんです」
 ガーン! い、いきなり計画が頓挫……
「星野さん、どうぞぼくにかまわず食事なさっていってください」
「いえ、いいんです。鳴沢さんがご一緒だから、どうかなと思っただけで、いつも家で作りますから」
 はうう。残念。グスン。
「大変ですね」
 と鳴沢。
「この時間から作ると、けっこう遅くなるんじゃないですか?」
「ええまあ。でも簡単ですよ。下ごしらえとか出社する前にやってきますから」
 これホント。お料理学校行ってるのはダテじゃないんだよ。
「へえ。料理お好きなんですか?」
「ええ、好きですね」
 嘘じゃないよ。嘘じゃないってば。ホント楽しい。料理って。
「それに外食だと栄養が偏りますから」
「さすがインストラクターだ」
「医者の不養生なんて言われたくないですからね」
 オレは笑った。
「まったくですね」
 鳴沢も笑う。
 いいなあ、いんなあ、こういうの。楽しいなあ、彼との会話。
 そのあと電車の中でも雑談して二十分ほどで降りる駅に着いてしまった。あと二時間ぐらい乗ってたかったと本気で思っちゃった。
「じゃあ、ぼくは買い物をしてていきますんで、ここで」
 鳴沢は駅の改札を出ると、コンビニのある通りに歩いていった。
「あ……」
 オレも買い物を。と彼を追い掛けようと思ったけどやめた。なんだか本当にストーカーになりそうだから。
「ふう」
 オレは彼の背中を見ながら息をついた。まあいいさ。チャンスはまだある。彼がジムに来るのは週二回。喫茶店の彼女とかに告白するまでに、まだ三回会える。
 オレはそう思って自分のアパートに足を向けた。二、三歩歩く。あ、そうだ。ミネラルウォーターが切れてたんだ。急にそれを思い出して、オレはくるりと向きを変えると、コンビニのある通りに駆けだした。
 いたいた。鳴沢。
 オレは前を歩く鳴沢に声を掛けようとした。だがその前に彼は、クイッと曲がって、喫茶店に入ってしまった。
 あ、ここか。問題の喫茶店って。へえ夜の十一時までやってるんだ。さすが個人営業。
 どうしよう。入ってみようかな。
 迷ったけど、けっきょくやめた。それこそストーカーだよ。
 オレはとぼとぼとコンビニまで行って、ミネラルウォーターを買うと、またとぼとぼと来た道を引き返してアパートに戻った。

 翌日。
 オレは例の喫茶店に行ってみることにした。どんな女か気になってしょうがないんだ。まだ見ぬライバルよ、待ってなさい。
 いつもより気合いを入れて化粧をして出かける。オレ様より美人であるはずがないけど、念には念を入れてだ。負けてたまるか。
 九時半に行ったら、いきなり肩すかし。朝の十時が開店時間だったのだ。
 オレはいったんアパートに戻って、少し萎えた闘争心をふたたびかき立てて、こんどこそ開店したばかりの喫茶店に入った。
 けどまた肩すかし。オヤジさんしかいない。
 グスン。
 まあいいや。
「アイスコーヒーをください」
 オレはカウンタの席に座って注文した。
 娘さんいつ来るのかなあ。十一時半には出ないと仕事に遅れちゃう。早く来ないかなあ。
 オレはアイスコーヒーをゆっくり飲みながら、買ってきたファッション雑誌をペラペラめくった。御馴染みさんらしいお客が何人か入ってくる。カウンタでマスターのオヤジさんと談笑している。その話が自然と耳に入る。それによると二丁目の角に、来月新しい総菜屋がオープンするらしい。
 十一時になった。空になったアイスコーヒーで粘るのも気が引けるし、ファッション雑誌もだいたい読んじゃったし、もういいや。きっと娘さんは午後から出てくるんだろう。オレはそう思って席を立った。
 そのとき。
「お父さん、遅くなってごめん」
 一人の女性が入ってきた。
 な、な、なにい! この女が鳴沢の意中の人だと!
 オレは最初驚いて、そのあと勝ち誇った気分になった。オレの方が美人じゃんか。こういっちゃ悪いけど、ポワンとした垂れ目でお世辞にも美人とは……
 待て!
 鳴沢ってこういう人が好みなの? だとしたらオレとは違いすぎる。彼女よりオレが美人? いやいや見る人によっては、オレの顔立ちは派手すぎる。しかも体のでかい女だ。
 ヤバい……オレ鳴沢の好みとぜんぜん違うんだ。
 勝ったと思ったのはほんの一瞬で、そのあとすぐ敗北感に襲われたオレは、娘さんの顔を見ないようにお金を払って外に出た。
 相変わらずうだるような暑さ。このまま倒れてしまいそう……

 女心と秋の空。男心と秋の空だっけ? どっちでもいいや。どっちも当てはまるから。とにかくオレの心は、秋の空のようにコロコロ変わりやがる。喜んだり悲しんだり、浮かれたりガッカリしたり。
 ジムの女子更衣室で自分の顔を鏡に映す。キリッとした目。鼻筋も通ってる。見ようによってはキツイ顔だよな。少なくともポワ~ンとはしてない。あの女とまるで違う。
 はあ……。
 オレは鏡に向かって大きなタメ息を付いた。
「なに黄昏てんの?」
 優香が背中から声を掛けた。
「見ればわかるでしょ。落ち込んでんの」
「だから、なんでよ? あっ、まさか告白してフラれた?」
「ちがーう!」
 オレは振り返って思いっきり否定した。
「わっ。ビックリした! な、なによいったい?」
「う、ううう。聞いてよ優香~」
 オレは優香に泣きついた。
「はいはい。いい子ね。いったいなにがあったの」
 オレは優香に事情を説明した。
「ふうん……鳴沢さんが、その喫茶店の人が好きだって、よくわかったわね」
「だって前に聞いたんだもん。彼女スポーツマンが好きだから、ジムに通うことにしたんだって」
「あ。そうだったんだ。へえ、あの鳴沢さんがねえ。そこまで好きな人なんだ」
「ああ、わたしはもうダメだあ! あとのことはよろしく。お線香上げに来てね」
「こらこら、早まるな智ちゃん。べつに面食いじゃないってだけの話じゃないの。考えてみれば、いいことかもよ」
「なんで?」
「だってさ、智ちゃんぐらい美人だと男って顔で寄ってきそうじゃない。スタイルもいいしさ。その点、鳴沢さんは、智ちゃんの外見じゃない部分を見てくれるんじゃない?」
「見てくれないよ」
 グスン。
「彼あの女が好きなんだもん」
「もう~、智ちゃんらしくないなあ。いつものファイトはどこ行ったのよ」
「そんなこと言ったって……せめて背があと十センチ低かったらなあ」
「智ちゃんでも、そんなふうに思うんだね」
「思うよ。こんなうすらデカイ女、だれが好きになるって言うの」
「落ち着きなさいよォ。まだチャンスはあるんだから」
「チャンスって?」
「だって告白したわけじゃないんでしょ。落ち込むのもいいけど、ちゃんと告白して、ハッキリ振られてからにしないさいよ」
「こ、怖いよ、告白なんて」
「あたしだて、怖いよ。でも……」
「でもなに?」
「うん。あとで話そうと思ったんだけど、ちょうどいいから話しちゃうね。今日彼のクラスがあるからトレーニングが終わったら、お酒を飲みに誘おうと思ってるの。そのとき告白するわ」
「マジ? ホントに?」
「うん。あたしこそ振られたら慰めてよね」
「わ、わかった。あの下着持ってきた?」
「うん。一応ね」
 優香は苦笑いを浮かべた。
「ま、どうせ無駄だろうけど、気合いよ、気合い」
「いまのわたしが言うのもなんだけど、がんばってね」
「ありがと。智ちゃんも諦めちゃダメだよ」
「わかった」
 で優香は、藤村さんとお酒を飲みに行くところまではうまくこぎ着けた。仕事が終わってジムを出ていくときの、優香の気合いの入った顔というか、緊張してる顔というか、見てるこっちがハラハラしてくる。思わず、ついていってあげようか。なーんて言ってしまいそうだったが、まさかね。そんなわけにはいかない。
「よし。がんばるぞ!」
 優香は気合いを入れてジムを出ていった。
 マジでがんばれよ優香。とオレは心の中で応援して見送った。
 はあ……それに比べて、こっちは今日は鳴沢のクラスがないから、彼に会うことさえできず。
 もう帰ろ。
 ところが。神様はオレを見捨てていなかった。駅を降りたらバッタリ鳴沢に出会ったのだ。どうやら同じ電車に乗ってたみたい。オレはいつも前の方の階段に違い車両に乗るんだけど、鳴沢は後ろの階段に近い車両に乗ってた。まあ、どっちの階段を上っても、改札は一つだから、そこへ出るんだけどね。
「鳴沢さん、いまお帰りですか?」
「やあ、星野さんこそ」
「すいぶん遅くまでお仕事ですね」
「ええ。いろいろ雑用が多くて。星野さんこそ遅いクラスがあるから大変ですね」
「その代わり、わたしは出社が遅いですから」
 オレたちは自然にコンビニのある通りに向かって歩き始めた。
「星野さんも買い物ですか?」
「ええ。アイスクリームが食べてくって」
 オレはペロッと舌を出してみた。鳴沢には美人系よりキュート系で勝負だ。
「太っちゃうかしら」
「ははは。星野さんは運動なさってるから大丈夫でしょう」
「油断大敵です。ただでさえ背が高いから太ったら大変」
「そのスタイルは努力の賜ですね」
「これでもけっこう悩んでるんです。もっと可愛く生まれたかったですよ」
 どうだ。同情を引く作戦だ!
「星野さんがそんな悩みを持ってるなんて思いませんでした。だれにでも悩みはあるもんなんですね」
 そのとき例の喫茶店の前に到着した。
「あ、ぼくはコーヒーを飲んでから帰りますんで」
「あら。わたしもここでアイスを食べていこうかな。コーヒーフロート食べたくなっちゃった。ご一緒してかまいませんか?」
「もちろんです」
 鳴沢はドアを開けてくれた。
「ありがとうございます」
 オレは中に入った。
 娘さんがカウンターの中でコーヒーを淹れていた。
「いらっしゃいませ」
 と、オレに言ったあと、娘さんは鳴沢を見てほほ笑んだ。
「あら、こんばんは。鳴沢くん」
「こんばんは」
 鳴沢はオレには見せたことのない笑顔で答えてカウンタに座った。
 く、くやしい……なんだよいまの顔。
「こちら星野さん。ぼくの通っているジムのインストラクターの先生なんだ」
「そうなんですか。あら午前中、いらっしゃいませんでした?」
「ええ」
 オレは心とは裏腹に笑顔を浮かべる。
「ジムに行く前に、アイスコーヒーを飲みに」
「そうですよね。近くにお住まいなんですか?」
「最近引っ越してこられたんだよ」
 鳴沢が答える。
「本当に奇遇ですよね。驚きました。いまも偶然駅前でお会いしたんだ」
 うーむ。鳴沢め。オレとは個人的な関係はないって臭わせたいんだな。
「ええ。本当に奇遇でしたね」
 とオレ。
「ここに越してよかった。美味しいコーヒーの喫茶店もあるし」
「あら、ありがとうございます。鳴沢くんはいつものコーヒー?」
「うん」
 うなずく鳴沢を見ながら、オレも注文をした。
「わたしはコーヒーフロートをください」
「はい。少々お待ちください」
 娘さんはコーヒーの準備をしながら言った。
「鳴沢くんがスポーツジムに通い始めたときは少し驚いたけど、こんな素敵な先生がいらっしゃたからなのね」
「違うよ。そんな不純な動機じゃないって。それに星野先生に失礼だよ」
「あ、ごめんなさい」
「いいんですよ」
 オレは笑顔。なんだよ。鳴沢こそ、彼女に気に入られたくて通い始めたんだろ。どっちが不純だよ。と思ったが、もちろん顔には出さない。
「わたしを目当てに来てくださるなんて光栄ですね」
「ち、違いますってば」
 鳴沢は苦笑しながら言った。
「本当にそんな理由からじゃありませんよ。モヤシみたいに、ひょろひょろだったからです」
「ホントにね」
 娘さんはクスクス笑った。
「鳴沢くん、痩せてたものねえ。わりと背があるから、よけい痩せて見えたわ。学生時代から」
「だいぶたくましくなられましたね」
 オレはにこやかに言った。
「ジムに来られたころは、たしかに痩せてらしたから」
 ふん。オレだってむかしの鳴沢を知ってるんだぞ。
「星野先生の御指導のおかげですよ」
「そんなことないです。要は本人のやる気ですから。鳴沢さんは、とってもがんばってこられました」
「むかしから真面目だから」
 娘さんはそう言いながら、鳴沢の前にコーヒーを、オレの前にはコーヒーフロートを置いた。
「いただきます」
 オレは上に乗ったアイスを一口食べる。あら。本当に美味しい。ちょっとシャクに障るな。
「わあ、美味しい。幸せ〜」
 オレは素直に喜んで見せた。どうだ鳴沢。オレだってカワイイ顔できるんだぞ。
「うふふ。インストラクターの先生も、こう言うところは女の子なんですね」
「そうですよォ。なんでかキツい性格に見られるんですよねえ、わたし」
「さっきも言ったけど、どんな人にも悩みはあるもんですね」
 と鳴沢。
「ホントにねえ」
 と娘さん。
「わたしと足して二で割ったらちょうどいいかも」
「そうかも」
 オレはうなずいた。わりと本気で。なんでも過ぎたるは及ばざるがごとし。ふつうが一番だ。
「星野さんなら、いい人見つかりますよ」
 鳴沢の野郎。そういうこと言うか。オレはあんたのために女になったんだぞ。
「どんな人がお好きなの?」
 娘さんが聞いた。
「まじめな人ですね。あと優しい人。顔とかぜんぜん気にしません」
 はい。オレの隣にいる人です。ズバリ。べつに鳴沢がブ男だって意味じゃないよ。わりとカッコいい。ちょっと大げさに言うと、若いころのアルパチーノに似てなくもない……は、さすがに言いすぎか。
「あら鳴沢くんとピッタリじゃない」
 と娘さん。
「鳴沢くん、アタックしてみたら?」
「おいおい」
 鳴沢は苦笑した。
 あらら。もしかして、この娘さん、鳴沢のこと眼中にない?
「あの、あなたはどんな人が好みなんですか?」
 オレは娘さんに聞いてみた。
「わたしですか? うーん。恥ずかしいんですけど、けっこう筋肉質な人が好きなの。スポーツやってる人。あとわたし自分のこと棚に上げて、けっこう面食いなんですよ。星野さんと好みが逆だったら、お互い出会いも多かったかもねえ」
「そうですね」
 にゃはは。鳴沢くん。彼女のことは諦めたまえ。隣にこーんないい女が待ってるんだから。オレにしなさいよ。本当に尽くしてあげるから。
 ま、こんな感じで、娘さんが鳴沢に興味を持ってないことがわかって、オレはとっても気分が良くなった。鳴沢は少し落ち込んでるみたい。うーん。慰めてあげたい。でもまだ早いかなあ。タイミングがよくわかんないよ。

 そんなこんなで、アパートに帰り着いたのは、夜の十一時を十五分ほど過ぎた時間だった。けっきょく閉店まで話し込んじゃった。あの娘さん、わりといい人よ。なんか本当にオレの心は秋の空だなあ。
 そのとき。スマホが鳴った。優香からだ。
 あらら。当たって砕けちゃったか。
「もしもし?」
『あ、智ちゃん。あたし』
 優香は少し声を潜めているようだった。
「どしたの? うまくいかなかった?」
『ブーッ。その逆です。藤村さんもあたしのこと好きだったのよ。超うれしい。でねでね、いま彼の部屋に来てるの。彼いまどこにいると思う?』
「わ、わかんない」
『シャワーを浴びてます。わたしもさっき浴びさせてもらったとこ』
「マジ? 速攻じゃん。あの下着着てって大正解だったね」
『キャーッ! そうなのよう。もうドキドキ。心臓爆発しそう』
「ま、がんばってね。胸が小さくて嫌われませんように」
『ムカつく~ まあいいわ。明日報告するね』
「うん。変な言い方だけど、楽しんでね」
『ありがと。じゃ』
 優香は電話を切った。
 そっか。あっちもうまくいったか。しかもいきなりうちとかさあ。大人だなあ。オレもなんか希望がでてきたし、がんばるぞお!

 翌日。優香から電話が掛かってきたのが朝の九時。十時に渋谷に呼び出された。渋谷って嫌いだ。だってナンパされるんだもん。髪の毛を金色に染めた男がオレに群がってくる。うっとうしい。
 ま、それはともかく。
 優香とマックに入って、平日半額のチーズバーガーとコーラを飲みながら、おのろけを聞かされること一時間半。そのままジムに行ったんだけど、まあ、一日中雲の上にでもいるような顔しちゃってさあ、よくもあんなになっちゃうもんだと呆れたよ。オレも鳴沢とうまくいったら、ああなるのかなあ。なりたいなあ……
 ところが。鳴沢が彼女に告白すると決めた日は、どんどん近づくのに、こっちは進展なし。しかも、あと二回はジムで会えるはずだったのに、仕事が忙しいとか言う理由で休んだんだよ、あいつ。
 キーッ。なにが仕事だ! 会えるのを楽しみにしてるオレが待ってるのに!
 だからさ。駅で待ってたんだ。毎日。十時から十一時の一時間。偶然って顔して会えばいいかなと思って。オレもけなげだよなあ。
 それも空振り。タイミング合わず。
 そんなこんなで、とうとう鳴沢が彼女に告白する日が来てしまった。ちょうど日曜日だった。オレ仕事があったんだけど(基本的に水曜日休みなのよ)、優香に事情を話してクラスの面倒を見てもらうことにした。あいつも、もちろん自分のクラスがあるから、すごくしんどい一日になるだろうけど、なにせ頭がラブラブ状態だから、快く引き受けてくれました。晩飯をおごる約束をさせられたけど。

 と、いうわけでオレも休みを取った。ちょっとね自己嫌悪入ってるのよ、今日は。だって完ぺきストーカーだもん。朝の八時から、鳴沢のアパートの前で張り込み。鳴沢がでてきたのが九時。しんどかった。暑かった。とにかく出てきた鳴沢を尾行して、彼女と駅前で合流するのを発見。
 大ショック……
 鳴沢のヤツ、娘さんをデートに誘うの成功してやがったんだ。それでも二人のあとを尾行。この辺から、すでに自分が相当バカをやってることに嫌悪感を感じ始めていたんだけど、それでもどうしても二人のことが気になって尾行を続けてしまった。
 二人は銀座まで出かけていって、少し早めにお昼を食べたあと映画館に入った。もちろんオレもチケット買って入った。だんだん探偵になれる気がしてきた。
 映画を観たあとは例によってお茶して、そのあとウィンドウショッピングとかして、やっぱり少し早めに人気のイタリアレストランに入っていった。
 はぁ〜。
 もういいや。やめた。
 よかったね鳴沢。やっと恋が実って。長かったね。高校時代憧れてた女の子。それだけでも長い年月なのに、一年もジムに通ったんだもんね。
 そうだよ。これでよかったんだ。鳴沢が幸せになったんだから。
 オレはレストランに入っていく二人の背中を見送ってから家路についた。どこかでお酒を浴びるほど飲んでやろうと思ったけど、思っただけで飲まなかった。そのままアパートに帰った。部屋に入ってクーラーをつけてベッドに腰掛けるとどっと疲れが出た。そのままバタンと倒れる。
 うっ……ううう。
 涙が……なんでだよう。
 鳴沢が幸せになって、よかったと思ったのに……
 オレはタオルケットを引き寄せて、その中に顔を押しつけた。涙が、涙が止まらない。止まらないよう……
 どのくらい時間がたったろう。
 オレは空腹感を覚えてベッドから起きあがった。こんなときにもお腹が空くなんて、人間の身体は正直だ。
 時計を見ると夜の十時近かった。あのまま寝ちゃってたみたい。
 そのとき。
「やれやれ。ひどい顔だね」
 声がした。
 オレはハッとして声の方を見る。モーナだった。今日もスケスケの衣を羽織っただけの姿で浮かんでいた。
「やあ、モーナ。久しぶり」
 オレは感情のこもらない声で言った。
「ふうん。その分じゃうまくいかなかったみたいだね」
「うん……しょうがないよ。もう、いいんだ。鳴沢幸せそうだったから」
「その男のために女にまでなったのに、残念だったね」
「ははは。思い出した」
「なにをさ?」
「人魚姫」
「童話の?」
「うん。人魚姫は王子様のために人間になった。でもけっきょく結ばれずに、海に戻って泡になったんだよね。わたしも同じだね」
「それが心配だったのさ。また死のうとするんじゃないかと思ってね」
「優しいんだねモーナ」
「バカ言っちゃいけない。あたしが願いを叶えたヤツが寿命を全うしないで死ぬと、すごく手続きが面倒なんだよ。べつにあんたの心配をしたわけじゃない」
「ふうん……もういいや、なんでも。なんにもしたくない……」
「勘違いしてもらっちゃ困るけど、あたしはアフターケアはしないよ。魔法は使わない。いや使えない。規則違反だから。でも一つだけ教えてあげよう」
「なにを?」
「あんたが好きで好きでしょうがない男が、いまどこにいるかだよ」
「知りたくないよ! なんでそんなこと教えようとするのさ!」
「そういいなさんな。駅を出て商店街の反対側に歩いていくと、小さな公園があるだろ。そこにいるよ、一人で。ブランコに乗ってる」
「え? な、なんで一人なの?」
「知らないよ。行って聞いてみたら?」
 オレは、一瞬、モーナを見つめてからあわててアパートを出た。
 走る。
 なんで?
 なんでいま鳴沢が一人でいるんだ?
 彼女と一緒じゃないのか?
 公園に着いた。オレは汗だくだった。息も上がってる。でも、そんなことぜんぜん気にならなかった。モーナが言ったとおり鳴沢がブランコに乗っていた。たった一個だけついている街灯で、鳴沢の影が長く伸びていた。
「な、鳴沢さん」
 オレははずむ息のまま彼の名を呼んだ。
 鳴沢は驚いたように顔を上げた。
「星野さん。どうしてここに?」
「あ……その、なんとなく……」
 オレは彼の隣のブランコに腰を下ろした。
「鳴沢さんこそ、こんなところで、なにをしているんですか?」
「ぼくもなんとなく」
 そのまま鳴沢は黙った。
 オレも自分の息が整うまで黙っていた。
「悲しいことがあったんですか?」
「どうして、そう思います?」
「そういう顔をしているから」
「ははは」
 鳴沢は乾いた笑いを浮かべた。
「まあ、そうかも知れない。少なくとも楽しくはないですね」
「よかったら話してくれません? 少しは気が楽になるかも」
 オレがそう言うと、鳴沢は苦笑を浮かべながら首を振った。
「べつに、大した事じゃないです。よくあることですよ」
「そうは見えません」
「いえ、本当にありがちな話なんです。女性に振られたんですよ。あの喫茶店の女性に」
 う、うそ……なんで?
「どうして?」
 オレはそう聞いていた。
「今日デートに誘ったんです。一週間前に約束しました。彼女もぼくとのこと迷っていたらしくて、デートだけはしてみようと思ったらしい。それで、まあ、ごく一般的なデートコースを回って、最後に告白をしました。そこで答えは、ごめんなさいでしたよ」
 あらら……
 オレはポカンと口を開けた。
「ね。よくある話でしょ」
「あ、いえ」
 オレはあわてて口を閉じた。
「ただね」
 と鳴沢。
「ちょっと片思いの時間が長かったというか、彼女のためにがんばりすぎたというか、まあ俗にいうこじらせたってヤツですよ。少しショックが大きくて」
「わかります」
 とオレ。
「鳴沢さん。一月ぐらい前にお酒を飲みに誘ったことを覚えてますか?」
「一月前?」
 鳴沢は首を傾げた。
「そう言えば、そんなこともあったかなあ……」
 オレが男から女に変わったまさに、その日だから、モーナの魔法で記憶が曖昧になっているようだった。
「あったんです」
 オレは言った。
「そのとき。あなたのことが好きな女性がいるって話をしました」
「うーん……どうもよく思い出せないんですけど。そんな話をしたような気もします。ああ、そうだ。なんで忘れていたんだろう。そのとき星野さんに、喫茶店の彼女の話もしたんでしたっけね」
「ええ。聞きました。だから鳴沢さんを好きな女性のことは、聞きたくないっておっしゃいましたよね」
「そうでしたね」
「いまでも同じ気持ちですか?」
「気持ちは違いますけど、答えは一緒ですよ。こんな気持ちでその女性に会っても、彼女に失礼でしょ」
「本当に真面目なのね」
 オレはほほ笑んだ。
「そういうところが好きなんです」
「え?」
「鳴沢さん、もうその女性に会ってます。いま目の前にいます」
「ほ、星野さん……まさか、嘘でしょ?」
「本当です。ずっとずっとあなたのことが好きでした。鳴沢さんが、彼女のために一年間がんばったのと同じくらい、わたしもいろんな経験をしました。あなたに相応しい人間になるために」
「な、なんのことです?」
「そのくらい好きだったってこと。鳴沢さん。こんなときに言うのは卑怯かも知れないけど。わたしをあなたの恋人にしてください」
「待って。なんだか頭が混乱して……こんな気持ちであなたとつき合えない」
「じゃあ、待ちます。気持ちの整理がつくまで。何ヶ月でも。ううん、何年だって待ちます。あなたのために女になったんだもの」
「言ってる意味がよくわからないけど……本気なの?」
「こんなこといい加減な気持ちで言いません」
 鳴沢はしばらくオレの顔を見ていたが、ふっと笑顔を浮かべた。
「来週、映画でも見に行きますか?」
「はい!」
 オレは思わず立ち上がった。
「よろこんで!」
 ヤバ。張り切りすぎだろオレ。居酒屋の店員さんみたい。

 一年後。

 純白のウエディングドレス。
 長いバージンロード。
 清楚な表情の花嫁が父親とともに歩いてきた。
 わたしは拍手をした。
 花嫁は優香だ。花婿は二十歳年上の藤村さん。優香の父親は複雑な顔だ。でも優香はものすごく幸せそうだった。
 ちょっと涙が出ちゃった。
 式が終わって優香が投げたブーケ。わたしに向かって投げてくれたんだけど(約束してあった)、あいつノーコンだから、ぜんぜんべつの所に飛んでって、なんと親戚のオジサンが拾ってしまった。もう全員大爆笑。笑ったあとにオジサンがまだ独身だと知らされて今度は拍手の渦。オジサンいい相手が見つかるといいね。
 披露宴もつつがなく進んだ。学生時代の友達がスピーチしたあと、仕事場の同僚としてわたしがスピーチをした。思いっきり藤村さんと初デートときのこと暴露してやった。なんだか高砂の席から優香の鋭い視線を感じたけど、会場の笑いが取れたからいいや。あとで仕返しされそうだけどさ。はは。
 二次会も終わって、わたしは家に戻った。
「ただいま~」
 わたしはまだ整理してない段ボールが、あっちこっちに散乱してる部屋に入った。
「おかえり」
 博之さんがキッチンテーブルの上で整理していた段ボールから顔を上げた。
 そう。じつはわたしと博之さんは(博之さんって鳴沢の名前だよ)、二週間前にここに引っ越した。将来のこと考えて少し広めの部屋に。自分たちの式が近いのに、優香と藤村さんも手伝いに来てくれたんだ。悪いことしちゃった。
 でもまだまだ段ボールの整理が終わってない。
「どうだった優香さんの式?」
 と博之さん。
「うん。すっごくよかった。式のとき、ちょっと泣いちゃった」
 わたしは冷蔵庫からアイスティーを取り出しながら言った。
「博之さんも飲む?」
「ああ」
 わたしは二つのグラスに氷を入れてアイスティーを注ぐと、一つを博之さんの前に置いた。
「はい」
「サンキュ」
 博之さんはアイスティーを受け取りながら言った。
「友だちの式で泣いちゃったら、自分のときは大変だね」
「あはは。そうかも」
 わたしは笑った。じつは来月、わたしと博之さんも結婚式を挙げる。籍はもう入れちゃったから、わたし妻なんだよね。彼の。えへへ。新婚だぜ。
 あ、もちろん式には優香も呼ぶよ。スピーチを頼んである。ヤバいよね。手加減してくれるといいけど。
「ねえ。それよりなに整理してるの?」
「むかし買った本。子供のころのだよ。こんなの残ってたんだなあ」
「ふうん」
 わたしは博之さんに密着するぐらい近づいて、段ボールの中を覗き込んだ。
「あ、人魚姫だ」
 わたしはその童話を拾い上げた。
「もう古いね。これは捨てようか」
「ダメ。ねえこのお話のラストどうなったか知ってる?」
「知ってるよ。王子様に気づいてもらえなくて泡になっちゃうんだろ?」
「ううん」
 わたしは首をふった。
「人魚姫は王子様に想いが通じて幸せに暮らすんだよ」
「えーっ。違うよ。ぼくが正しい。見せて」
「だーめ」
 わたしは人魚姫の本を背中の方へ隠すと、不満そうな顔を浮かべている彼にキスをした。
「ほら。幸せでしょ?」
 彼が首をかしげたので、わたしは思わずクスッと笑った。

 終わり。

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