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NMTって結局、何も変わらないのでは?

Neural MT が登場して以来、今こそ機械翻訳を導入すべきという勢いでツールベンダーがセールス活動を強化しているようだし、あちこちで機械翻訳をテーマとしたセミナーやパネルディスカッションが開催されていて、翻訳に詳しくない一般の人々が洗脳されている感じがしている。

最近、複数社のNMTを試用する機会を得て、出力される訳文を眺めている。決して、どのNMTが優秀かといった優劣をつける目的で見ているわけではなく、単純に商売に利用できるのかという視点でしか見ていない。加えて、現在、一般の人々へ与えている機械翻訳の印象を正しい方向へ誘導するために、どのような情報出しが有効かを理解するためでもある。

訳文を眺めつつ分かったこと。それは、翻訳物として販売するには、以前のRBMTやSMTと同様に、出力された訳文に人間が手を加えてやらないとならないということ。つまり、ポストエディット(PE)必須なのは以前と変わらない。NMTを開発する側の人たちからは「PEに掛かる工数が低減する」というのが常套句のようだが、テスト評価している限りでは、人間が手を付けなくて良い訳文を出力する”打率”が、それほど高くなった印象は持ってない。マニュアルにある手順の記述文くらいが関の山の印象。

NMTだから修正度合いが少ないかというと、そんなことはまったくなく、そもそも、修正が入るということは訳文の構文から再考する手間が発生するので、手直しに必要な時間は以前と変わらない。「小手先の修正で使えるもの」に結果的になるものも確かに存在するが、小手先修正で良いとする判断に至るまでのプロセスは、翻訳のそれとまったく変わらないので、それ相応の工数が必要になる。違いはタイピングの工数程度だと思う。また、PE前提で訳文を見ていると、「余計なことをしやがって」と感じる出力も有り、実はマイナス面もあるのではと感じる。(PE前提なら、きっちりと管理された良質な翻訳メモリーを持つ翻訳支援ツールの方が、作業は楽だと思う。)

必要となる修正のレベルに対する認識は、人によって分かれるところだと思う。理由は簡単で、販売可能な翻訳の品質レベルをどこに置いているかで差が生まれる。(単に意味が通ずるようにするだけの)小手先修正という認識は、文章の前後関係や読みやすさ、流暢さという翻訳の質を、潔く妥協していることから生まれていると想像している。

私の中では、NMTに対する認識が徐々に固まりつつあるのだが、結局、MTに新モデルが登場しただけであって、出力から翻訳を販売できるようにするための手間は以前と変わらず、もしくは若干軽減した程度のものでしかないと考えれば良いのではないかと思い始めている。一般の人々は、深層学習やAIの言葉から、機械が人間とまったく同じように翻訳ができるように(いずれ)なるだろうと想像しているようで、NMTによる機械翻訳ブームに踊らされている印象が拭えない。でも、どうも、そんなレベルになるには、技術的にもう数歩、前に進まないとダメなのではないかというのが、いま私が持っている感想。

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