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踏ん張る動機について

2024年9月3日、車いすラグビー日本代表チームは決勝戦でアメリカに勝利し金メダルを獲得した。ルールを知らない門外漢でも夢中で楽しめる、手に汗握る試合だった。

ぼくは基本的にスポーツが好きではないし、オリンピックに至っては嫌悪してさえいる。なので会期中は死んでもオリンピックについて話題にするものかと思っていた。毛嫌いしているといっても、元来ノリのいいぼくだから、何かの試合を見たら手に汗を握って見守ってしまうだろうと思い試合を見るのも避けていた。そんななか、パラリンピックの車いすラグビーの決勝戦を偶然にも見てしまい、心をうごかされてしまった。試合の様子については上の記事に詳しい。

何らかのハンディキャップを持った人たちがスポーツに打ち込み、それが最高にカッコよく撮られているのを目の当たりにするのは何ともうれしいことだ。五体満足の男性でなくても英雄になることができることが可視化されるのは、誰もが英雄になる必要は一切ないことはもちろんだとしても、何かあたたかい希望をもらったようで、さわやかな気分になる。

スポーツでも、踊りでも、歌でも、作品制作でも料理でも、ぼくが一番ピュアで尊い動機だと思っていたのは個人的なよろこびの追求だ。ただ、ボールを追いかけるのが楽しいから蹴るのだし、音楽にのせて身体を動かすのが気持ちいいから踊るのだ。有名になりたいだとか観客を励ましたいだとか勇気を与えたいだとか、そうした動機はあくまでも付随的なものだと考えていて、その行為に耽溺すること以外はかなり軽く見ていた。セックスだって、相手と肌を重ねたいからそうするのだし、愛情を繋ぎ止めるためだとか、確認するためだとかにそれを使うのは不純なことだと思っていた。

だから、たとえばスポーツで試合やパフォーマンスの後で、観客のためだとか、国のためだとか、励ますとか感動を与えるとかそういう言葉が出てくると少し冷めてしまうことが少なからずあった。それは何よりぼくが彼らの行為で励まされることがないからだが、プロの選手たちがプレイするのは自らの喜びのためであってほしいという、上記の価値観から生まれ出た欲望のためでもある。

しかし壮絶な過去を潜り抜け、もしくは現在進行形で厳しい現在と闘いつつパラリンピックの晴れ舞台で活躍する彼らを見ると、似た立場の人に力を与えたい、よき先例となりたい、彼らのスポーツが社会的に認められる一助になりたいという動機を「ピュアでない」「副次的な」ものと断じ軽視することができなくなる。実際、ぼくも「なれるよ!」「できるよ!」というメッセージを身体中で発信する先人たちのおかげでここにいるのだし、次はぼくがそれをする番だ、となる気持ちには身に覚えがあるのだ。何より、フィールドに並ぶ彼らの姿には言葉に先立つ説得力があり、それらの動機は個人的よろこびの追求に劣らず大事なことだと納得せざるを得ない。

とはいえ、ぼくはまず球を追いかける楽しみのほとばしり、勝利のよろこび、金メダルそれ自体の重さに祝福を寄せたい。テレビの画面には、懸命にコートを駆ける人間の美しさが宿っていた。その美しさには、障がい者であるか、健常者であるかなど関係がない。一方で、障がい者スポーツという枠組みはぼくたちにとって大きな意味を持つ。どんな境遇のひともスポーツを楽しむことができるし、活躍もできるという強いメッセージが込められているのだ。彼らの活動の場が広がっていきますように、今後ますますの繁栄が彼らの上に訪れますようにと願ってやまない。


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