一歩目までの助走(と、脱-完璧主義について)

 最近めちゃくちゃアウトプットをサボっていて久しぶりに楽器を触ったり真っ白なWordに向かうと手が小刻みに震えだすわけだが、これはアル中やパーキンソン病といった類のものではなくただの怯えである。この怯えというのが曲者で、アウトプットに手をつけない期間が長くなればなるほどひどくなっていき、ひどくなった怯えによってアウトプットをやらなくなる。この円環からどうやって抜けだしたらいいだろうか、などと口を半開きにしたまま(危機感ゼロ、本物の馬鹿の表情)ぼんやり考えていたのだが、あることに気付いた。

よく喋る口数の少ない人

 ぱっと見語義矛盾即終了馬鹿野郎解散となるべき文字列だが、この矛盾は主観と客観の評価が入り混じっているために発生する錯覚だ。つまり、本当は喋っている量の何倍も喋ろうとしている話題はあるのに、口に出すものはほんの一部……というタイプだ。結果として客観的にみればよく喋っている方だが、主観的には口数が少ないという類型が発生する。
 
 こうなるまでには様々な経路が考えられるが、僕の場合、比較的有意義だと思われる文章を発言する意志が、発言する前から自分で否定され、結果として有意義な文章は出力されず、否定されない無の文章が口や手から出力されるようになっている。これはツイッターで顕著だったが、最近現実をも浸食し始めている。本当に良くない。一般の方(たまに芸能人が入籍する存在で詳細は謎に包まれている)は無の発言なんかしないぞ。そんなことをしていたら社会からつまはじきにされてしまう。実際僕も社会に出られてない訳ですが……まあそれはいいんだ。

 発言を自分の意志でとりやめること、これはある意味では「思慮深い」と言われるタイプかもしれない。発言をする前にその内容を自省し、有効な反論を思いついたり「まずいな」というところを発見すれば発言を自粛する。個人が発言を簡単に公共的なものに投入でき、またそう意図せずとも公共的な性質をもつものとして受け取られるようになった現代では尊ばれる資質だと思う。発言しなければ炎上するわけがない。だから無のツイートをやめなさい、やめろ、という声が頭の中から聞こえてくるが無視します。

 他人に質問や相談する機会があってもなかなかできない人はこれが原因のことが多いんじゃないだろうか。えっなに、質問や相談するのが恥ずかしい?その羞恥心にときめいているか?そうじゃないなら心のコンマリを動員し、今までの全てに感謝しつつ捨てような。もう令和だぞ。……とにかく全部自己完結してしまう、これが今話題にしたいタイプの人間が抱える問題だ。
 
 アウトプットダメダメ人間は往々にしてこの自己否定システムが趣味の領域でも発生している。アイデアが浮かんでも、実現する前からそのダメな点が目についてしまう。「御託はいいからとにかくやってみろ!」とよく他人からアドバイスされると思う。だがこの手のタイプはありがたいアドバイスを受けても、ダメな点が一度目に入ってしまったら実行することにほとんど倫理的といっていい躊躇いを覚えるものだ。

「なにもつくらない」から「ダメなものを作る」へ

 いろいろ考えてみたのだが、ここはどうしても価値基準の転換が必要だ。しょうがない。これは完璧主義の問題なのだ。それに理屈がくっついているだけだ。
 
 自己完結してアウトプットに辿りつかない人間は、自己完結しない雛型を見出してから初めてその実作にとりかかろうとする。要はダメなものを出力することよりも出力しないことを良しとしているのだ。この価値観の人間にとりあえず作ってみろ!出来る出来る絶対出来る北京だってがんばってるんだから!(古い)と5000兆(古い)回 言われたところで作るわけがない。

 【ダメなものを作る < (ダメなものを)作らない < 良いものを作る】
 
 この序列がある限りコイツは動かない。ではどうするか。まず価値観の方を捻じ曲げるしかない。つまり、こうだ。

【作らない < ダメなものを作る < 良いものを作る】

 完璧主義者からの「それができるなら苦労せんわ!死ね!」という純度の高いヘイトスピーチが聞こえてくる。しかしこれは必要なことなのだ。君は生まれ変わらなければならない。
 
 そもそも完璧主義という時の完璧とは客観的な標識ではなく主観的な標識であり、つまりは「自分が思う」完璧でなければ実行に移せないということだ。これで何も作らないことを繰り返していると何が起きるかというと、自分の中での「完璧」の基準が固定化されてしまう。全てが自分の想像力の範囲内で完結しているのだから、基準の成長のしようが無いのだ。これはアウトプットの機会を潰す以上に厄介で、インプットにおける成長の機会も潰していることになる。なぜならアウトプットすればフィードバックがもらえるはずだが、その機会をフイにしているからだ。フィードバックの意義は完璧主義者が「想像している」よりもはるかに重要だと思う。

 ダメなものを作るとき、作品そのものに対する主観的・客観的評価はさして重要ではない。フィードバックは、作品=アウトプットの実質に対する評価になってないこともあるだろう。しかし、いやむしろそのようなフィードバックこそが重要である。大事なのはフィードバックによって、自分自身の「完璧」の基準を揺さぶられることの方なのだ。いや、この表現は適切ではないかもしれない。そのフィードバックは、価値観だけではなく、価値観を価値観たらしめる認識の枠組みを露呈させ、揺さぶるのだ。これは多分、実作を伴わないインプットではなかなか得難い体験だと思う。本を読んだり作品に触れて価値観が変わる体験とは別次元の問題なのだ。フィードバックなしにインプットを続けていると、無意識に作り上げられ固定化した「完璧」という認識の枠に沿ってしかインプット出来なくなる。オブジェクトはあなたの価値観を変えるかもしれないが、あなたそのものを評価することはしない。唯一、生ける他者こそが、作品や価値観だけでなくあなたそのものを評価する。あなたそのもの評価とは、あなたの価値観だけでなく、それを組み立てるあなたの全存在・実存そのものを評価するということだ。完璧主義者は、自分の未来の、そして未完に終わる作品の欠点に怯えるふりをしながら、実際は固着した自分自身を守ろうとしているのだ。運よく作品を生み出せた完璧主義者は、作品の出来に対して卑屈な姿勢を見せつつも、批評されることを極度に嫌うものだ。「完璧主義者の生み出す作品は完璧でなければならない」、この図式もまた逆である。完璧主義者は、生み出した完璧な作品によって自分という存在が完璧であることを保証しようとする。だから完璧主義者には作品への批評が自己否定のように映る。そうでない場合は、一瞬の熱狂の後、世界との触れ合いのないままに、作品そのものを無かったことにする。

 だが、それでは表現者の舞台から降りる他ない。表現者ではなかったとしても、その人生の内で自分を劇的に変化させることは難しくなるだろう。ヤワな「自己分析」や「メタ認知」では絶対に到達しえない、他者による分析に自分の作品ではなく己自身を晒すこと。完璧主義者は文字通り破壊され、実践者に生まれ変わらなければならない。

 アウトプットのフィードバックで得られる経験こそが「完璧」の基準を、そして基準観を成長させる。それだけでなく技術も当然成長する。ダメな作品を作り、フィードバックを求め、得ること。これを繰り返すことでしか、良い作品は完成されない。主観的にダメな作品でも客観的に良い作品というものは数限りなくある。フアン・ルルフォが数多くの原稿を破り捨てたことではなく、それらの原稿を通してルルフォを見出したエフレン・エルナンデス、という構造に注目すべきだ。人間の発する「完璧」とは、結局どこまでいっても最上級の讃辞でしかない。真の完璧を見出せる者を地上に求めるのは愚かである。同様に、天才というのも原理的に存在しない。この地上においては、天才とは弛まぬ実践家の着古された隠れ蓑のことを指している。

 ……なんか後半の方文体がバチギレてしまったが、最初の話に戻ると、いくら自分がこれは違うなと思っても、とりあえず発言してみるべき。どのようなフィードバックが発生したとしても、それは発話者にとってプラスに働く。想定内の返答が返ってきたとしたら、自分の判断能力が一定の水準以上にあることの蓋然性は高まるし、想定外であればなおのことよしだ。質問にしろ相談にしろ、その答えが得られるだけでなく、発想法そのものが拡張される。一度拡張された発想法は基本的に二度と失われる事は無い。あらゆる意味で、他者は自分を超えている。そして、他者によってこそ自分は自分を超えられる。そして、そういう恩恵をもたらしてくれる他者を、大切にすることは大事なことなんじゃないかな。でなきゃ友達がいなくなるぞ。友達がいらない人はべつにいいですが……

なっが、一行でまとめろや

 これだけだらだら書いていてなんだが、要は、【認識の枠組みはアウトプットで変化させやすい】という話の応用をくどくどと喋っていただけでした。タイトルとずれとるやんけ。人生とは脱線なので許してくれ。書いているうちにカントとかフーコーとか積んだままにしているのを思い出しました。頭が痛くなってきたので、ここで終わりにしたいと思います。無のツイートは止められないと思います。かなしいね。

延命に使わせていただきます