自殺企図の変異と(ぼくが)生き続けること

 ぼくは一度も本気で自殺しようと思ったことがない。ぼくの自傷といったらかわいいもので、軽く爪を噛むとか、かさぶたになるくらい頭皮を掻くとか(これらも他人から指摘されて初めて自傷だと気付いたくらいで自傷意図はなかった)。そんなぼくが自殺について何を説得的に語ることができるだろうか。まあ端的に言うとできないわけだけど、凡人にだって自殺について考える機会はあるわけだし、ここに最近自殺について考えたことをちょろっと書いてみたい。人生が苦しくて本気で自殺を考えている人は、ここに救いになることは一切書かれないので、こんな(あなたにとっての)駄文を読んでいないでしかるべき機関や友人に相談するなりしてほしい。

 「固有な私の死」を忘れている「ひと(ダス・マン)」は死に向き合うことにより本来的生を取り戻すことができる、といった通俗的考え方があるが、これと自殺企図はどのように関係するだろうか。ぼくはただ一回の自殺企図からの生還と、複数回にわたる自殺企図との間に、大きな差があるような気がしていて、後者はいわゆる通俗的なメメント・モリの考え方からはみ出しているように思える。

 自殺企図は意志による(ここは微妙に怪しいが)死への最接近であり、そこからの生還は死を自覚した「わたし」の生まれなおしになりうる。臨死体験的なビジョン、周囲との関係性の変化……自殺企図という特異な体験は当人及びそれを取り巻く環境に否応なく新しい経験の感触を与える。だが、繰り返し自殺企図をしたとき、その都度新たな経験はありうるだろうか。

 不可能な体験としての死を意識することは、限りなく生を死に漸近させながらそこに明確な線を引くことだ。生と死の間に面積(体積)のない境界線を引くことによって生は初めて死を不可能な体験として極限の彼岸のうちに理解することができる。

 だが、複数回死に接近する生は、もはや文字通り死への存在でしかない。その生には死との境界線が引けなくなってしまっている。そこで死は不可能な体験としての死ではなく、到達可能な目標としての死であり、そのような生は内在的に死と変わらない生だ。死へ極限まで接近することへの快楽というのはもちろんある(F1、ある種のクライミング、志願兵……)が、それは生還への意志を暗黙のうちに前提としたチキンレースに過ぎない。それに対し、繰り返しの自殺企図というのは生還への意志を放棄する行為だ(ぼくはここで死ぬかもしれない自傷の繰り返しと自殺企図を明確に区別しているが、これらが区別できるのかはわからない。精神医学の方が詳しいだろう)。その意味で、生的でありうる自殺企図とはただ一回限りしかありえない。

 苦痛に塗れた現世。「早く死にたい」と願う人間が多いことは理解できる。既に死んでいるような生を生きている人に、どうやって自殺する勇気もないぼくが生への道を照らすことができるだろう。無論アプリオリに人生に意味を与えることはできない(胎児は宗教を知らない)。生の根源的無意味性の中でもっとも危険な手探りに食指を伸ばせる人々、ぼくは彼らにうしろめたい敬意を払うことしかできない。それでもぼくはどんな人にも精一杯生きて欲しいし、ぼくも精一杯生きなければならないと思う。この結尾が凡庸であることが、ぼくが自殺しようのない人間であり、つまらない凡人であることの証明である。

 (諸事情により最近生活が厳しくなっており、よければ小銭を投げて欲しい。以下には完全に無意味な文字列が並んでいるため、課金する意味はないが……)

ここから先は

7字

¥ 300

延命に使わせていただきます