青春ファシズムと『よりもい』

 次に書こうと思っている記事の為に先に説明しておかなければならない(記事内で説明するほど大事な部分ではないという意)概念が発生したのですが、その概念に絡めて話ができるアニメがある事に気がついたので報告します。すなわち、よりもい──『宇宙よりも遠い場所』のことです。

……書くのが遅いんだよな、1年遅い。

宇宙よりも遠い場所はすごい

そこは、宇宙よりも遠い場所──。何かを始めたいと思いながら、
中々一歩を踏み出すことのできないまま高校2年生になってしまった少女・玉木マリ(たまき・まり)ことキマリは、とあることをきっかけに南極を目指す少女・小淵沢報瀬(こぶちざわ・しらせ)と出会う。
高校生が南極になんて行けるわけがないと言われても、
絶対にあきらめようとしない報瀬の姿に心を動かされたキマリは、
報瀬と共に南極を目指すことを誓うのだが……。(公式サイトより引用)

 オレはアニメオタクからは程遠い人間ですが、『宇宙よりも遠い場所』がとんでもない傑作である事はわかります。全ての回にドラマがありつつも本筋の推進力を失わない。人間の明るい部分だけを描くのではなく、学生時代の人間の暗部(ここは後でも出ます)もきっちりと見せる。素晴らしい12話の演出とか、本編の良さについてはオタク諸氏が語り尽くしているでしょう。だからそういう話はしません。とにかく1年遅いんだ、遅い。

 このアニメが青春アニメの金字塔、という評価をされるのは正しいと思います。が、このアニメが描いている青春が”一般的な青春”(いわゆる共同幻想の一つです)でないことは、みなさんも気付いていたのではないでしょうか。そこで、青春ファシズムの話になるわけです。オレの記事では珍しく、今回は瑣末な部分を拾うのではなく王道の話をします。

青春ファシズムとは

 青春ファシズムについては昔の記事でもちょっと書いたんですが、

 その時はエッセイの形で曖昧な使用をしていたので、ここで改めて定義しようと思う。

青春ファシズムとは、以下の制度を共同幻想化しようとする国家-資本的体制のことをさす。すなわち、
管理社会。全日制、クラス制、部活動、内申点、などに代表される。副産物としてスクール・カーストが挙げられる。(生徒指導の延長としての)全校集会は、個々の生徒の責任を全生徒の責任と同一化するファシズム的統御の代表的表象であろう。
恋愛至上主義。10代においてロマンティック・ラヴ・イデオロギー(愛-性-結婚を一体化する体制)への補助線を形成する。恋愛に希望を抱く者だけが恋愛至上主義を支えるのではない。「非モテ」という概念は否定の形で恋愛至上主義を補完している。
・ライフサイクルにおける学生期至上主義。学生と社会人(≒労働者)を分別し、アンガージュマンの権利を学生のみに帰属させることで労働者を無力化し、より大きな管理社会=資本-国家体制に組み込む。学生に対する自由の奨励、学生大会のエンターテイメント化、学生運動への過剰な期待。これらは全て、端的に(元)労働者たちの家畜化されたノスタルジーに過ぎない。
以上3つの共同幻想を学校社会を中心に増殖しようとする体制である。

 …………

 アニメの話をするんだよな?

 はい、します。しょうがないんですよ、今回むしろそっちがメインテーマなんでね。

 どうでしょう。列挙した内容、皆さんにも結構覚えがあるんではないですか。なんで国家-資本的体制かといえば、青春ファシズムが国内における経済機械の一端として作動しているからです。
  学生期至上主義によって新しい文化はほとんど若年層から生産される事になっており、SNS、特にInstagramの力(加工されたイメージと注釈。消費の喚起だけを目的とする現代アート……)によって広告が消費者の手で無限に増殖していきます。メディアの、他者の欲望を欲望させようとする力には凄まじいものがあります。
 それだけでなく、資本は各世代の青春期をターゲットにした商品戦略をしばしば打ち出します。人為的なリバイバル・ムーブメントが何度も演出され、各世代が各々の学生期ノスタルジアを満たす事ができます。生殖は生物学的基盤に裏打ちされた強力な共感装置であり、ロマンティック・ラヴ・イデオロギーが復活しつつある昨今、恋愛を含まないフィクションの方が珍しいでしょう。
 甲子園、儲かりますよね。
 
 これらは一端。

 (一応言っておくと、オレ個人としては青春ファシズムを一概に悪いものだとは思ってません。青春は、現状まず間違いなく日本で最後まで生き残る国家的神話です。これすらも失い、建設的な宗教的基盤が存在しない日本が日本という共同体として存立していくという未来図を想像するのは個人的にはあまり気持ちのいいものではないということがあります。これは地方における絆の話にかなり接近すると思われますが、それにしてもオレの右翼が出てしまいましたね。)

 さて、アニメの話。

 学園もののアニメが青春ファシズムの圏域から脱出する事はほとんどないです。部活モノはジャンル上、メタ視点をとれなければ部活という強力な管理体制を暗黙のうちに是認する事になるし、『あそびあそばせ』や『女子高生の無駄づかい』などの非モテを中心にした学園コメディも、隠然と恋愛至上主義への目配せをしているわけです。学校に対するカウンターパンチとしてはヤンキーものが有効だった時代があるのでしょうが、最近はほとんど見ないですね。学園ラブコメという3要素をすべて兼ね備えたまま肯定してくるジャンルもあります。

 そんな中、よりもいは青春ファシズムを(ほとんど)脱出しました。

彼女たちの「青春」

 主人公5人に絞って話を進めようと思う。急激に口調が固くなるが、我慢しろ。そういうテンションなんだ。(というか何でオレは2019年に号泣しながら誰に頼まれたわけでもない『よりもい』の記事を書いてるんだ?意味が分からなくなってきた(号泣しながら))
 容赦なくネタバレするからな~~~~

 ①しらせ(小淵沢 報瀬)

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 南極を意志する最初の者であるしらせは、行方不明となった母親への思いにけりをつけるという動機も相まって、登場時点で既に学校の体制を大きく逸脱している。噂話も強い口調で一蹴し(「正しい青春」の補完にならないような出る杭を陰湿に打つのは、青春ファシズムの基本戦略である)、学校的なものの圧力には負ける事がない(それ以外の相手に対しては不安があるが……)第5話冒頭、全校集会のシーンでの不愛想さはキマリのたどたどしくもかわいらしい挨拶と、はっきりとしたコントラストを描いていたのは象徴的である。とはいえ彼女における物語の運動は、もっぱら彼女の個人的事情に起因しているので、青春ファシズムの観点からはあまり運動していないのが面白い。

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 最高の笑顔。

 ②ひなた(三宅 日向)

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 しらせが現在の運動によって青春ファシズムを乗り越える人物であるならば、ひなたは過去によって青春ファシズムを降りた人間である。まず彼女は高校を退学して高卒認定をうけるアルバイトである。南極4人組のうち最も(精神的にも)自立していると思っており、リーダブルな言行が多いが、この大人びようとする行動が物語を運動させる。

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 第11話にて、ひなたは過去に向き合わなければならなくなる。部活という青春ファシズムの強力な尖兵により高校から追放されたひなた。ひなたの「友達」たちは彼女らの青春世界内でひなたをささやかな青春の思い出として消費しようとひなたの前に戻ってきたのだ。
 ひなたが見ず知らずの人間と南極に来ているのに対し、彼女たちは「陸上部 一同」の名を持っている。個々人としてひなたとの和解を志向しているのではない。陰湿な青春ファシズムが追放者の活躍をみて、寛大な心で和解しようと言っているのだ。そしてそれはまさに青春であり、部活の気まずい歴史を青春のほろ苦い1ページに変える可能性さえ秘めている。これは青春ファシズムの浸透戦術そのものだ。
 気丈なひなたは自分一人で折り合いをつけようとするが、第11話のラストにて彼女の過去にけりをつけたのは、見ず知らずの人間の力だった。これまでトラブルを一人で抱え込んで解決してきたひなたは、はじめて青春ファシズム体制の外で、同志を得ることができた。
 
 ひなたと後述するゆづきは、ティーンズもの(学園もの、青春ものとは敢えて呼称しない)の創作において青春ファシズムを突破する可能性の中心と言っていい。キマリ、しらせ、めぐみが青春ファシズム内の異分子だとすれば、ひなたとゆづきは外部から青春ファシズムに近接し、その諸相をあらわにする旅人だと言えるだろう。

 ③ゆづき(白石 結月)

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 芸能人である彼女は、全日制学校と労働世界との間で漂わなければならない。クラス制に基礎づけられるコミュニケーションの空間は構成員を同質化、非言語的交感を促進し、いわゆる「友達」の形式を暗黙のうちに作り上げる。友達は関係の一形態であるのだから、外在的なものから独立した個人間の言語的/非言語的交感のみによって成り立つのではなく、否応なく社会構造という外部の侵襲を蒙る。
 自分が高校生である自覚を持つ彼女は青春ファシズム体制から疎外されているがゆえにそれを強く意識してしまう。彼女は友達の作り方がわからないのだが、わからないのは青春ファシズム下における友達の作り方なのだ。

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 そんなゆづきが第10話で「友達誓約書」を出すことは自然なことなのだ。それは労働世界における交友関係の基礎であり(彼女の母親が自身のマネージャーであることを思い出す必要がある)、学校世界の掟を知らない彼女は労働世界の掟を援用する。滑稽かつ痛ましいシーンだが、青春ファシズム下における友達の基盤はクラス、学校そのものだということをゆづきは良く理解している事を意味する。彼女にはその基盤がない。だからこそ、不安をおかしな契約で埋めようとするのだ。

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 アニメ内における解決はありふれたものだったが、これは仕方ない。異なる共同体同士の人間が無根拠に互いを信じあうには、長い時間がかかるのだ。第10話のエンディングはその第一歩といえる。

 第13話で、キマリの「ねえ、ここで別れよ」に対し、「もう……一緒にいられないってことですか?」と答えるゆづき。彼女は芸能活動を続ける。それは以前と同じ、学校世界と労働世界の間をたゆたい続ける事だ。唯一出来かかっていた南極探検隊という根も、これで消えてしまう。その不安をしかし乗り越えていかなければならない。ひなたは青春ファシズムの外部で友達を成立させたが、ゆづきにとってはこれからなのだ。ゆづきを母親が抱きしめて迎えたことは、きっと契約ではないところに根ざしたものがそうさせたのだろう。ゆづきは気付いているだろうか。

 ④めぐみ(高橋 めぐみ)

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 このアニメを際だった傑作にしたのは、めぐみの存在だったと思う。私的関係において、めぐみとキマリは姉妹のようであり、キマリがめぐみに依存する関係(実は共依存であったわけだが)は青春ファシズムの圏内においても保存されている。
 第1話、青春したいとするキマリが学校をさぼって東京へ行こうと言いだす。これはキマリにとっては勇気ある行為だったが、めぐみはあっさりとそのスリルを葬り去る。姉として、めぐみは青春ファシズム内での立ち位置も上でなければならない(青春ファシズムは、管理社会への志向性を持つ一方で、ある程度の逸脱を許容する。というよりも青春幻想を強化しようとして、青春ファシズムそのものが多少の逸脱を要求する)。めぐみは学校をサボる事程度は普通、と言ってみせなければならない。キマリの認識にある青春性のハードルを上げ、同時にめぐみが自分よりも青春において先行していると印象付けるために。

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 だが、陰謀実らず立ち位置はいつの間にか逆転してしまっていた。姉は妹がいなければ姉ではいられない。彼女は青春ファシズムの尖兵として悪い噂を流し、キマリの達成を妨害し、自分が上位である階級性を担保してくれる青春ファシズムの枠内に、ふたたびキマリを押し込めようとする。もっともキマリの「独り立ち欲求」を聞くまで、めぐみがこの構造に自覚的であった様子はない。

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 キマリの言葉で自分がキマリに依存していたことを知っためぐみは、青春ファシズム体制の陰謀を暴露し、体制と絆、二つの裏切り者として友達をやめることを申し出る。たった一人でキマリに向き合うこと。ひなたの「友達」には決してできなかったことをめぐみはやってのけた。この瞬間、キマリたちだけでなく、めぐみ自身も青春ファシズムの同質的コンテクストに安住するのではない、自分のあり方を模索しなければならないことが決まった。

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 「独りで、北極へ行く」。これ以上明確な証明があるだろうか。完璧な脚本でびっくりしてしまいましたね……

 ⑤キマリ(玉木 マリ)

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 そして主人公である。彼女がもっとも透明な存在であることは言うまでもない。第1話。頭上に恋愛漫画という、あからさまな青春ファシズムの表現ではじまる。
 青春したい。それはまごうことなき青春ファシズムのスローガンである。キマリの行動は基本的にその域をでない。南極行きはかなり大きな逸脱ではあるが。正直言ってキマリの行動は青春ファシズムを突破する力を最後まで持たなかった。このアニメを普通の青春ものとしても見せるための結節点であり、

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第13話の中盤ではあれだけ帰りたくなかった、仲間と別れたくなかったキマリ。終わりゆく夏休みに駄々をこねるようだった彼女が、最後の最後、自分から別れを切り出す。「一緒にいられなくても、一緒にいられる。だって、もうわたしたちはわたしたちだもん。」キマリ、しらせ、めぐみはこれから普通の、青春ファシズムの日常に戻って行くだろう。しかし彼女らは外部を得た。そこには彼女たちの、彼女たちだけの「青春」があったのだ。

青春ファシズムからのエクソダス

 民間南極観測船をだす社会的意義には説得力が無い。あれは二重の意味で夢の船といっていい。そこには労働者の肩書をいったん外した大人と、高校生の肩書を(いったん)外した子供たちが一緒になって極地へ煌めきを追うわけですね。学生の修学旅行に大人が引率でついてくるのとはわけが違う。学生期至上主義を超えていく力がある。いい歳した人間たちが南極という特別な場所で野球をやるということ。運動部の同窓会でもないわけで、「状況に自らかかわることにより、歴史を意味づける自由な主体として生きる(コトバンクより抜粋)」精神が、年齢関係なく生きている。学生と労働者のエネルギー的差異は否定され、生の目的が過去から救出される……

 もちろん『よりもい』は青春ファシズムそのものをテーマにしたアニメではないので、全ての要素が青春ファシズムからの脱出に向いているわけではない。でもここには可能性がある。思春期の、もっと豊かな表現への可能性が。生の意味と若さを新しい関係性で結ぶ可能性が。

 ……長くなりました。次回はそういう話を、恋と性を中心にしつつする予定です。今期放送中のあのアニメの話です。

延命に使わせていただきます