雑記

 ぼくは経済学部に在籍しているのだが、もし人文学部に進んでいたら死んでいたかもしれない。

 経済学(特にミクロ、ゲーム理論)の冷徹な計算と論理は、ぼくに人格の多次元というものを与えた。これほど大衆に嫌われながら国家の中枢に寄生し生き延びている学問もあるまい。経済学は医学の影だと思う。後者は歓喜の声の元に人生を管理し、前者は罵倒の元に行う。身体と精神の間に経済学は立っている。それは世界とほとんど一致しているかに見える社会の中で身体を動物的に生き延びさせるための精神の学なのだ。精神の、思考の自由な飛翔と急降下を愛する人間にとって、これほどつまらない学問もあるまい。現代フランスの小説家ミシェル・ウエルベックはたしか『地図と領土』の中で経済学を全否定している。それ(経済学)は科学でもなく、美しくもなく、つまるところなんでもない。彼は正しい。まさにそれゆえに経済学は存在し、彼の死んだ後、もしかしたら彼の文学が死んだ後も生き延びるだろう。

 話が若干脱線してしまったが、純粋な人格というもの、0次元的人格というものは冗長性を持たない(もちろん、冗長性は美しくない)。冗長性を持たない精神が現実から遊離した時、あるいは現実を現実性から遊離させる認識を主体に与える器に入れられた時、動物としての、そしていくらか動物とは違うらしい(ぼくは大して違うとは思っていないが)人間としての生が危機に瀕する。文芸は、それ自体が恣意的に構築された別世界を、現世界に架橋している共通言語によって記述しているために、端から分裂の芽をそのうちに宿している。

 ぼくは別世界への視線と、現実の営みについての異質な視線を、即ち認識条件としての人格を多次元に並存させる。ベクトルとは方向とノルムであり、即ち意志と力である。0次元の点は複眼にはなれない。ぼくは精神の純粋性を捨て、雑種性を選んだといえる。人文学部に進んでいたら、そうあれたかどうかはわからない。

 ぼくは薄暗い夕闇、蒼ざめた光を背に受ける5匹の烏の影(影がもし黒でない色だったとしたら、黒人は肌の色で差別されただろうか)が、必然と偶然の交絡を描きながら頭上を過ぎ去っていく、そんな感覚器官への析出を美しいと思うと同時に、鳥の運動を数学的に記述しようとしていた映画『ビューティフル・マインド』の中のジョン・ナッシュを美しいと思う。後者は並走する2つの事象それらの自律的論理のうちに内破するのだが、それはそれとして。

 ぼくにとって、他者が存在している(ように思われる)ということが最大の謎であり続けるだろう。人間はただのホモ・エコノミクスであると同時にそれを超え出る。どのような目でも捉え切ることのできない謎があるということ、そしてどうしようもなくその謎に魅惑されていることがぼくを今日まで生かしているのであり、それを忘れた時、ぼくの軟弱な心は凡庸に毀れるだろう。分裂の影に怯えながら、きょうもぼくは多次元である。

延命に使わせていただきます