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#11 「幸福」のパラドクス

「幸福度調査」というものがある。
一定の尺度を設定して、地域や、収入、コミュニティ等によってそこに住む人がどのくらい幸福かを評価しようというものだ。
県や国ごとに幸福度が測定されて公表され、しばしば話題になる。

幸福に関する調査の方法を調べてみると、そこには大きく2つの考え方がある。一つは生活環境などに関する客観的な基準を設定して、幸福度を定義しようとするものだ。より多くの人が好む条件を備えた環境で生活しているならば、きっとその人は幸福だろうという発想だ。

けれどもこの考え方には限界がある。人には嗜好というものがある。同じような環境であっても、それを幸せと感じる人もいれば、そうでない人もいるからだ。じっさい、過去50年ほどの間に生活も格段に便利になり、医療も進歩したが、ここ幸福度はそれほど変わっていないという調査もある。

もう一つは、その人がどのくらい幸福と感じているか、という「主観」によって幸福度を測ろうとするものだ。これはよりストレートな聞き方で、私たちの感覚に近いもののように感じるかも知れない。

しかし、この考え方にも問題はある。その人がどのくらいの視野を持っているかがということが問題となるからだ。例えば、自分はそれなりに幸せだと思って生きてきた人も、外国に旅行に出て遙かに自由で裕福で満たされた生活を送ってきた人々を目にしたら、途端に自分の人生の評価を変えるかも知れない。
この考え方を突き詰めていくと、人を幸福にするためには寄り幸福な人をみせないようにすればいい・・・さらには皆をドラッグ漬けにして日夜エクスタシーに満たされつづけるようにしてしまえば幸福な世界が実現できるということになりかねない。

議論は続けたらいい・・・が、そう易々とは答えは出ないだろう。

とすれば、「幸福」は定義できないことを前提に、上で述べたような二つの判断軸両方を自分の中で活かして行くことこそ、最も実践的なのではないだろうか。
考え方と生活環境、その両方を自分なりに調和させ、改善してていけば、きっとより多くの人が幸せになれると考えるのは、それほど無理なことではないだろう。

「幸福度調査」は雑談ネタ程度にしておけば、ちょうどいいのではないか。