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2024.6.22 墓
今日から接心、坐禅期間がはじまった。
朝が弱いが4:50から坐りはじめた。
今日は次男のミニバスがあり、朝から出かけていたので日中は坐れず、夜は実家に寄ったため奥の部屋で老師の話の間だけ坐らせてもらった。
老師の声と言葉がふわふわと目の前を漂っているような気がした。ぼんやりと世界を眺めながら話を聞くともなく聞いていると「阿頼耶識の底には墓がある」という言葉が飛び込んできた。
老師の言葉ではない。老師は別のことをお話しされている。
わたしの思考は阿頼耶識に向かう。未熟なわたしのイメージでは阿頼耶識は意識の底、ユングの集合的無意識に近い気がする。集合的無意識はなんとなく広い海のような感じがするのだが、阿頼耶識は大きな壺の底のようなイメージだ。どれだけ手を伸ばしても潜っても底に辿り着けない、どこまでも深さのある井戸のような壺。阿頼耶識という井戸の底には墓があり、我々の祖先はみなそこにいて、わたしたちは井戸の底から生まれてくる。墓の中で全ては繋がりひとつなのだ。
墓といえばナウシカを思い出す。ナウシカに出てくる墓の中にはヒドラがいた。世界を支配し動かす墓所というシステム。違う、ナウシカの墓は阿頼耶識の底にある墓ではない。
禅の言葉に円相というのがある。わたしたちはまだ生まれておらず、死ぬこともない。それが墓ということのように思えた。大円境地=墓と考えるのは短絡すぎる。
気がつくと老師のお話は終わろうとしていた。
リビングから子どもたちの楽しそうな声が聞こえる。
わたしは日常に戻り、明日は朝からまた坐る。
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