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エチオピアコーヒーの徹底解説【保存版】

みなさんこんにちは、宮崎です! 今回はエチオピアとコーヒーについて書きました。大学院でアフリカ地域研究をやっていたので、たぶんめちゃめちゃ詳しいはずです。

本文だけで2万字を超えるので、そのまま読むと1時間くらいかかります。
全部読んでもらえると本音としてはめちゃめちゃ嬉しいです。でも各章ごとにテーマを分けているので、興味のあるところだけツマミ食いしてもらっても大丈夫です!

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※手書きの地図が度々出てきますが、参考程度にご覧ください。あまり絵はうまくないのです。また本記事のカバー写真は宮崎がルワンダで撮影したものです。エチオピアの写真ではないのでご留意ください。

第1章は、コーヒーの起源と19世紀までのエチオピアについて書いています。そもそもコーヒーっていつから飲まれてるの?コーヒーってエチオピアで飲まれはじめたわけじゃないの?
こういうお話が好きな人に読んでほしいなって思います!

第2章は、20世紀のエチオピアをコーヒー生産の観点から振り返ります。
エチオピアのコーヒー産地ってどんなところ?エチオピアで小規模農園が多いのはなぜ?イタリアに占領されたって聞いたけど、コーヒー生産に影響はなかったの?
そんな疑問に答えるべく、コーヒーを軸として20世紀エチオピアを見ていきます。

第3章では、冷戦終結以降のエチオピアをコーヒー輸出の観点から振り返ります。
特に重点的に考察するのが「ECX」。エチオピア独自のコーヒー流通制度ECXとはどんなもので、それらは我々消費者や生産者にどういう影響を与えているのか、政治・社会概況も含めて多面的に分析していきます。

第4章では、今現在のエチオピアにおけるコーヒー生産を説明します。
エチオピアコーヒーの長所や課題、風味や味の特徴、各地域ごとの違いなどなど。今日からすぐに使える知識は、この章に詰め込みました!
発生してしまった国内紛争についても触れながら、ちょっとだけ未来も占います。

コラムも2つ用意しています。さくっと読んでもらえるコラムを1章と2章の終わりにそれぞれ挿入しました。

コラム1は、エチオピアのコーヒー文化について。
エチオピアにおいて昔から行われていたコーヒー豆の使い方から、現代的なコーヒー文化まで書いていきます。コーヒーセレモニー(カリオモン)、もちろん取り扱います。
エチオピアのコーヒーの飲み方は?コーヒー豆って焙煎して飲む以外に方法あるの?と思った方にはぜひ目を通していただきたいです!

コラム2は、エチオピアと日本の関係について。
遠く離れているわりに、エチオピアと日本は意外と関係が深いです。
なんで?どういう関係?
といったことを書いています。

Ethiopia "as a coffee country" at a glance

▶︎1年間に45万トンつくっています(世界第5位、アフリカでは1位)

▶︎貿易額の3割弱がコーヒーによるものです(CIA[2021]によれば27%)(注1)

▶︎生産地はカッファやイルガチェフェなど南西部に集中しています

▶︎南西部はコーヒー原生地で、もちろん生育に最適な環境です(平均気温20度前後、熱帯気候Aw)

▶︎最適すぎるので人間が育てる必要もなく、生えているコーヒーの実を採集することもできます(フォレストコーヒーといいます)

▶︎エチオピアコーヒーはとてもおいしいので、現地でも大量に消費されます(1人あたり年間2kgってすごくないですか?)

それでは「コーヒーの国」エチオピアを、いろんな角度から徹底解剖していきましょう。
温かいコーヒーをお手元にご用意の上、お楽しみください。

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第1章:コーヒーの起源とエチオピア史

コーヒーの起源(正確にはアラビカコーヒーの起源)はエチオピア南西部だと言われています。正確な場所については議論があるのですが、スコットランドの探検家ジェームスブルースが主張して以来、カッファ地方の周辺だという説が有力です(Koehler 2017)。Tadesse[2017]で議論されている遺伝子解析から見ても、エチオピア南西部あたりは有力な候補です。

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(国境線は現在のものです)

そのコーヒーをはじめて見つけたのはヤギ飼いのカルディ(アフリカ理解プロジェクト 2009)と言われていますが、シェーク・オマールという説もあります(旦部 2017)。発見者の氏名はおいておくとしても、遅くとも9世紀までにはコーヒーは利用されていたようです(旦部 2017)。

エチオピアで見つかったコーヒーはその後アラビア半島に渡り、医薬品として飲まれます。小林[2015]によれば、アラビア半島においてコーヒーの飲用がはじまったのは10世紀末ごろで、イブン=シーナー(アヴィケンナ)の功績でした。もっともイブン=シーナーの広めたものは現在のように焙煎されていなかったためレモン色でした。焙煎された黒くて苦いコーヒーが出てくるのは13世紀半ばのことです(ここまで小林[2015])。

医薬品ではなく大衆品としてコーヒーが広まるのはもう少し後です。イブン=シーナーついでに山川の世界史教科書を開くと、一般にコーヒーを飲む習慣がはじまったのは15世紀ごろ、アラビア半島南西部のモカでのことです(木村ほか 2019)。

アラビア半島ではじまったコーヒー文化は世界各国に広がっていきます。1585年にはイタリアに渡り(Tadesse 2017)、イギリスではコーヒーハウスとして花開きます(小林 2015)。日本には18世紀末、長崎・出島に持ち込まれました(小林 2015)。

その伝播先の1つがエチオピアでした。コーヒー飲用がエチオピアに入ってきたのはTadesse[2017]によれば16世紀という説があり、Pankhurst[1997]によれば遅くとも18世紀までには伝来しています。

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この話の肝は、エチオピアにとってコーヒーは「逆輸入」されてきたものだということです。土着の文化とは言い切れない部分があるわけですね。
では、当時のエチオピアにおいてコーヒーはどのような扱いを受けていたのか。エチオピアの歴史をみていきましょう。

紀元前後から12世紀まで、エチオピアにはアクスム王国が繁栄していました。アクスム王国が滅びた後、紆余曲折を経て1270年にソロモン朝が生まれます。いわゆるエチオピア帝国であって、20世紀の後半まで続くことになります。

アクスム王国もエチオピア帝国も、現在で言うところのエリトリアやエチオピア北部を勢力圏としていた国でした。アラビア半島に勢力圏を伸ばしていたという議論もありますが(岡倉 1999)、エチオピア南西部までは勢力圏を伸ばせません。ようやく南西部を支配下においたのは20世紀を過ぎたころです。

これが何を意味しているかというと、現コーヒーエリアである南西部は支配領域外だったということです。アクスム王国もエチオピア帝国も、その歴史の大部分においてはコーヒーの一大産地と呼ばれうるような国ではありませんでした。

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一方その頃、南西部のコーヒーエリアはオロモ語を話すオロモの原住地でした(石川 2009)。イスラムが勢力を伸ばした地域でもあり、オスマン=トルコと手を組んでエチオピア帝国を窮地に陥れたこともあります(西 2009)。結局、20世紀に入るまでにはたくさんの王国に分かれ、帝国に対して自治を保っていたようです。

南西部でいつからコーヒーが栽培されたり飲まれたりしていたのかについては、実は記録はあまり残っていません。ただ諸々の証拠から、そこで飲用文化がはじまったわけではなく、アラブ諸国からイスラーム文化として輸入されたものではないかと言われています(Pankhurst 1997)。(注2)

ここで気になるのは、なぜエチオピアでコーヒー文化が生まれなかったかですが。
こればかりは本当に分かりません。いろいろ考えたのですが、逆にアラビア半島の人々が特別すごかったのかもしれません。だって普通、あんなに甘酸っぱくて美味しいものを焼いて粉砕して煮出してみようとか思わないじゃないですか。アラブの方々、よくぞ発明してくれたという感じがします。

さて上で述べた通り、遅くとも18世紀までにはコーヒーの飲用法はエチオピアに伝来(逆輸入)しています(Pankhurst 1997)。
しかしエチオピアにおいてコーヒーが広く飲まれはじめるのはもう少し後です。

というのも、コーヒーの覚醒作用に驚いた多くの人にとって「悪魔の飲み物」と勘違いされ、嫌われてしまったからです。コーヒーはあくまでも「イスラーム文化」であり(石原 2014)、一部のムスリムには「コーヒーセレモニー」の際に飲用されていたものの(Pankhurst 1997)、エチオピアで大勢を占めていたクリスチャンからは忌避されていました(石原 2013)。

ようやく大衆に広まるのは20世紀に入ったころです。日本でも銀座にカフェープランタンやカフェーパウリスタができ(ともに1911年創業)、コーヒー文化が広がりつつあった頃でした。

[コラム1:エチオピアのコーヒー文化]

エチオピアでコーヒー文化が花開いたのは意外と遅かった(20世紀に入る頃)というお話をしました。
でも、それまでにエチオピアにおいてコーヒー豆が全く消費されていなかったのかというと、さすがにそれはありません。摘果して乾燥させて種だけを取り出して焙煎して煮出して飲むというアクロバティックな飲み方が流行しなかっただけです。

大前提として、エチオピア南西部には生食可能な甘酸っぱいコーヒーの実がそこらじゅうに成っているわけです。「はじめは、森林に生えている木からの採集・食用に限られていたことは疑いようがない」(Davis et al. 2018)とあります。
人類がエチオピア南西部の地を踏みしめた直後にはコーヒー豆を食べていたとしても不思議ではないです。

飲むという発想では、乾燥・粉末にしたコーヒーの葉っぱをお湯に溶かして飲むことは昔から行われていたようです。Davis et al. [2018]によれば、これにミルクを入れて飲むこともあり、もはや紅茶と同じような扱いですね。唐辛子やジンジャー、薬草などを加えて飲むこともあるそうです。おいしそうです。

そのほか、バターで炒めて焼いたコーヒー豆を丸めて携行食としたり、葉っぱを頭痛薬として利用したりするほか(Tadesse 2018)、コーヒー豆をバターで炒ったものを儀礼の中で用いることもあったようです(石原 2013)。いわゆるコーヒー文化とは違うかもしれませんが、コーヒー豆が文化的に溶け込んでいたことは確かです。そうした独自のコーヒー豆の楽しみ方は、現在でも一部地域に残っています。

20世紀に入ると、それに加えてぼくたちが想像するいわゆるコーヒー文化も一気に広まります。最初は富裕層が中心でしたが、1930年代には庶民の間にも広まりました(Pankhurst 1997)。あれだけ避けられていたコーヒーも、一度広がりはじめるとその勢いは止まることはありませんでした。
それ以降、エチオピアはコーヒーの一大消費国として君臨することになります。

現在でも、エチオピアで生産されるコーヒー豆の半分くらい(注3)は国内消費に回っています。消費量としてはざっくり20万トン以上、1人あたり年間に2kgくらい消費する計算になります(ICO[2021a],ICO[2021b]から宮崎が計算)。

これはコーヒー生産国にとっては珍しいケースです。多くのコーヒー輸出国(特にアフリカ)においてはコーヒーはもっぱら輸出用のみ作られます。コーヒーは日持ちするし単価も高いので、外貨獲得にはちょうど良いのです。その中にあって、エチオピアは例外的な立ち位置だと考えていいでしょう。

エチオピアにおけるコーヒー文化として有名なのが「コーヒーセレモニー(カリオモン)」です。カリオモン(Kariomon)というのは、コーヒーをみんなで飲む行為を指します。これはジンマ県のコンバ村での話ですが、「コーヒーを沸かすとき、自分たちの世帯だけで飲むことは、まずありえない」(松村 2017)のだと言います。

エチオピア研究者のリタ・パンクハースト氏(注4)によれば、コーヒーセレモニーは以下のように行っているようです。まず、みんなが集まると、生豆を洗って火にかけます。その上で3回抽出して、それをみんなで飲んで、カップをトレイに戻すところまでがカリオモンです。3回目が終わった後には場合によって、コーヒーカップの底に残った粉を使って占いをすることもあります。(ここまでPankhurst [1997])(注5)

焙煎と抽出を同時にやるのは興味深いですよね。コーヒー豆は焙煎直後よりもちょっと寝かせた方が美味しいとよく言われますが、みんなで世間話をしながら豆が焼けていくのを見守るのもそれはそれで楽しそうです。ちなみに焙煎しながら炭で香を焚くので(Pankhurst 1997)、その空間は幸せな香りに包まれているそうです。いいなあ。

もう少しこのコーヒーセレモニーについて深掘りしていくと、セレモニーという言葉と反して、必ずしもハレの日にしか行わないイベントではありません。むしろ毎日、ご近所みんなで集まってコーヒーを飲み交わすことさえあります(Pankhurst 1997)。今日では宗教の垣根を超えて人口に膾炙している点に特徴がありまして(松村 2017)、エチオピア女性にとっての貴重な休憩時間となっています(Pankhurst[1997]、ただし同文献によればコーヒーセレモニーは主に女性が準備するため、ある種の負担でもあることは事実です)。

しかも興味深いことに、コーヒーセレモニーは特定地域に限らずエチオピアで広く見られます。これほどまでにコーヒー文化が広まった理由としてPankhurst[1997]では「美味しいから」という理由を第一に挙げています。コーヒーは世界中どこで飲んでも美味しいですが、産地で飲むコーヒーは格別ということなのでしょうか。

一方でそうした日常の光景とは別に、様々な儀式においてもコーヒーは使われています。言葉面だけを捉えるとそちらの方がセレモニーっぽいかもしれないですね。たとえば松波[2017]では、精霊に助言を得るためのハドラ集会においてコーヒーが振る舞われるところ、そのコーヒー豆を煎る香りが精霊に届くと考えられていることを紹介しています。

エチオピアでコーヒー文化が開花したのは意外と遅かったですが、一度広まった文化は猛烈な勢いでエチオピア全土に広まり、いまや間違いなく国民的文化になっています。飲み方としても塩を入れるなど、いろいろな方法で愉しまれています(青山 2020)。

第2章:近代エチオピアとコーヒー生産

エチオピアにおいては長らくの間、コーヒー文化は栄えませんでした。それが突然日の目を見ることになります。転機を迎えるのは、1889年からはじまるメネリク2世政権でのことでした。

メネリク2世(以下メネリクって書きます)はコーヒーを積極的に受容し、エチオピア全体にコーヒー文化を行き渡らせます(石原 2013)。彼はカメラ(写真機)を手にするとひたすら撮影しまくるような好奇心旺盛な人物だったようで(岡倉 1999)、その勢いでコーヒーも積極的に取り入れました。

このようにメネリクはコーヒーを広めた皇帝として有名(?)ですが、一般にはエチオピアの近代化を進めた人物として知られています。

メネリク政権は積極的に西欧諸国と交わり、近代兵器を備えた軍備を拡張します。1896年のアドワの戦いでは、植民を目論むイタリア軍に対して近代兵器で応戦、防衛戦に勝利しました。周りのアフリカ諸国が植民化される中で、ある種の象徴的な出来事として記憶されています。

またメネリク率いるエチオピア帝国は、その軍事力を用いて帝国領を広げていきます。メネリクが戴冠した当時、エチオピア帝国の領域はエチオピア南西部までは征服していませんでした。コーヒー産地である南西部をおさえていなかったという意味では、エチオピア帝国はまだ「コーヒーの国」ではなかったわけです。

その圧倒的な軍事力でもって、帝国軍は猛烈な勢いで諸民族を征服していきます。南西部の中には帝国の手を逃れて被支配を免れた場所もありましたが、王侯貴族の所有地にされた土地、自治は認められたけれども納税や労働力の供給を要求された地方も多くありました(Gemeda 2002)。

その納税の一環としてコーヒー税が課されたこともあったようです(Gemeda 2002)。外形的には所得税なのかもしれませんが、被支配地域からすればたまったものではなかったでしょう。中にはコーヒー生産を放棄し、その他の自給作物生産に切り替えた人もいたようです(Gemeda 2002)。吉田[2014]では、エチオピア帝国軍の侵略に対して耕作意欲を失い、農地は野晒しになって森林に還ったという話を紹介しています。(注6)

ちなみにエチオピアはコーヒーの原産地というだけあって、耕作を放棄してもコーヒーは自生できます。手入れされていない畑は荒れていくものの、コーヒーの植生自体は失われづらいです。これが後に「フォレストコーヒー」としてラベル付けされることになります(Gemeda 2002)。現在のフォレストコーヒーの中には、政治的事情によって100年近く耕作放棄された「元コーヒー畑」から採取されているものもあるということでしょう。

そんなメネリクも1906年には脳溢血で倒れ、そのまま政界を引退します。後継者を巡って混乱が生じる中、出てきたのがラス=タファリという青年でした。
彼はクーデターの末に王位を継承し、ハイレ=セラシエ1世を名乗ります。エチオピア帝国のラストエンペラーであり、エチオピアの「統一」を一気に進めた人物でもあります。

ハイレセラシエの経済政策として、コーヒー産業の振興が挙げられます。1920年にはすでに経済の主軸となっていたコーヒー産業をさらに発達させるために、南西部に支配者を送り込んでコーヒー栽培を拡大させました(西 2009)。少し前に帝国に編入されていたハラーの「ハラーコーヒー」と、南西部産の「アビシニアンコーヒー」との二本柱で、外貨獲得に利用します(Gemeda 2002)。

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(さっきより地図うまくなった気がする)

かたや南西部は、それによって大打撃を受けます。Gemeda[2002]によれば、ハイレセラシエはメネリク政権と南西部との契約を蔑ろにし、強引に中央集権化を進めました。1935年までに地方の自治政府にテコ入れし、思い通りに首長を据えかえます(Gemeda 2002)。これによって南西部の自治は崩れ、エチオピア帝国に事実上吸収されることになりました。

Jalata[1993]はこうしたハイレセラシエによる侵攻を、エチオピア帝国による「植民化」だとしています。西欧諸国からの植民地化に抗ったエチオピア帝国が「植民化」を押し進めたというのは、なんとも皮肉なものです。

ところが、事態はここから混迷を極めることになります。それを引き起こしたのがイタリアでした。ムッソリーニが政権を握ったタイミングで、イタリアはエチオピアに対して再び猛攻を仕掛けます。

コーヒーで稼いだ金で近代兵器を備えたエチオピアは、それに対して激しく抵抗します。しかしエチオピアの抵抗虚しく、1936年にアディスアベバは陥落。ハイレセラシエは亡命して、エチオピアはイタリアの占領下に入れられてしまうことになります。

もっとも植民地化された他のアフリカ諸国と比べると、エチオピアにおけるイタリアの支配はかなり限定的でした。エチオピアでは被占領後もゲリラ戦をはじめとする抵抗が盛んに行われており、イタリアとしても連合国と戦う都合上、そこに勢力をつぎ込むことは困難でした。ご存知の通り、イタリアは第二次大戦で敗戦し、エチオピアはそのまま主権を回復します。

南西部のコーヒー生産地域から見れば、支配階層が一つ増えたことになります。今まではエチオピア帝国との支配・被支配関係にあったものが、そのエチオピア帝国がイタリアに占領されたわけです。イタリアーエチオピアー南西部の3者関係はなかなか複雑なものになりました。

それによる実際の変化も起こりました。エチオピア帝国軍にも余力がなかったようで、イタリア占領の影響から帝国の支配が緩んだ地域もありました(Gemeda 2002)。南西部にあるカファ地方ではエチオピア帝国の影響が弱まり、「一時的にかつてのカファ王国時代の様相を取り戻した」(吉田 2014)のだと言います。

一方、エチオピア帝国の息のかかった支配者が狡猾にイタリア軍に接近することで、引き続き抑圧され続けることになってしまった南オモ県のホール民族のようなケースもありました(宮脇 2014)。だから一概に自治権の回復につながったと評価することはできませんが、イタリア占領の恩恵を受けた集団もあったことは確かです。

さて、イタリアは第二次世界大戦で劣勢に立たされ、1941年にイタリア領東アフリカを失います。それにともないハイレセラシエは帰国し、ハイレセラシエ治世は続くことになりました。30年くらい。

1970年代、エチオピアは難局を迎えます。ハイレセラシエ(80歳)のカリスマ性に陰りが見えてきたことに加え、オイルショックや天候不順、政治判断の遅れなどによって(岡倉 1999,ヴィダル 2011)大規模な飢饉が発生します。

耐えかねた国民は行動に出ます。メンギスツという人物らが革命を主導。それにより、ハイレセラシエは失脚しました。その後、革命を主導したメンギスツが実質的にトップに君臨する「デルグ政権」に移行します。これをもってエチオピア帝国は終わりを遂げました。

デルグ政権は社会主義を標榜していたので、冷戦構造化における東側陣営に分類されます。旧東側諸国からの支援に基づく政権運営を行っていきます。

その一例として挙げられるのが、土地の再分配政策です。大地主から土地を剥がして小農に再分配する、社会主義っぽい政策でした。(注7)

これはエチオピア南西部も例外ではありませんでした。それまではエチオピア帝国の貴族によるプランテーション的な大農園も見られたのですが(松村 2008)、その土地は取り上げられ小農に分け与えられました。その名残から、今でもエチオピアのコーヒー農地は小分けになっています。

またデルグ政権下ではコーヒーの価格統制も行われました。社会主義っぽいですね。
エチオピアにおいてはコーヒーの国内消費分・輸出分を含めて官製価格が設定され、流通の80%はECMCという組織の管理下に置かれます(Andersson et al. 2016)。しかも当時、国際取引はICO(International Coffee Organization)の管理下で堅調に推移していたので(Ponte 2002)、生産者価格も比較的安定していたようです。

ところが農業重視の政策を実行したにもかかわらず、エチオピアに悲劇が訪れます。それが1984年から85年にかかる歴史的な大旱魃でした。記録的な大旱魃によりコーヒーをはじめとした農業は壊滅的打撃を受け、大量の餓死者が発生してしまいます(Reid 2018)。また特筆すべきこととして、その際に援助物資や農作物の囲い込みをはじめとした政治的な失策があり、特に北部を中心として壊滅的な飢饉が発生(悪化)したと言われています(De Waal 1991)。政治によって飢饉が完全に防げたはずだとまでは言いませんが、政治によって状況が悪化したことは指摘しておかなければなりません。

1987年にはデルグ政権は形式上終焉を迎えます。メンギスツは立て直しを図りましたが、わずか数年後の1991年、冷戦終結とともにクーデターで失脚することになりました。(注8)

以上ここまで近代エチオピアとコーヒー生産を概観してきました。長くなってしまったのでコーヒー生産の特徴だけ抜き出してまとめます。

エチオピアの特徴的なフォレストコーヒーと小規模栽培は、20世紀における政治的な背景から形作られた側面があるということでした。

フォレストコーヒーとは確かに森から木の実を取ってくるものですが、その森にはかつてエチオピア帝国の侵略に伴って耕作放棄されたものが含まれていることを確認しました。現在のフォレストコーヒーには、実は100年前に放棄された「元コーヒー畑」から採集されたものが含まれているということになります。

また1人あたり耕作面積が小さいのもエチオピアコーヒーの特徴でした。これは時の政権による土地の徴用・再分配によるところが大きいです。実はこれが、その後のコーヒー生産にも生産性や効率性の面で影響することになります。

[コラム2:エチオピアと日本]

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(コーヒーブレイク)

ちょっと身近なこと(たぶん)に話題を移しましょう。エチオピアから遠く離れた、日本という国との関係について。

1986年のアドワの戦いにおいてイタリアからの防衛に成功したエチオピアは、西欧列強を退けた国としてアフリカに燦然と輝きます。そこにシンパシーを覚えたのが、日露戦争で勝利した日本でした(岡倉1999)。

1930年、日本とエチオピアは修好通商条約を締結、1936年にはエチオピアに日本公使館が設立されます(外務省 2021)。当時エチオピアに侵攻を試みていたイタリアに対しても、日本国内にはそれを強く批判する声が溢れていました(岡倉 1999)。

皇帝ハイレセラシエとしても、日本に親近感を抱いていたようです。エチオピア帝国は1931年にエチオピア帝国憲法を制定したのですが、この憲法は大日本帝国憲法を参考にしたと言われています(岡倉 1999)。

ところがご存知の通り、その後日本はイタリアに接近します。1940年には日独伊三国軍事同盟が結ばれ、完全にイタリア側の国となってしまいました。一方のエチオピアは1942年に連合国の一員となり、直接の交戦こそなかったものの日本とは敵対関係になってしまいます。

戦後、日本とエチオピアの間で平和条約が結ばれたのが1952年、外交関係回復は1955年です(外務省 2021)。外務省[2021]によれば1956年にはハイレセラシエによってアディスアベバに日本庭園が作られたそうで、親日的な側面が伺えます。

これは個人的な話ですが、ぼくの知っているエチオピアの人って親日的な人ばかりです。エチオピアの友人に日本の印象を尋ねると、BUSHIDO!!って言っていました。あの勢いはもしかして新渡戸稲造を読んでいたのかもしれません。
多くのアフリカ人が、日本と言えば車とか電子機器とかカンフー(?)とかジャッキーチェーン(??)を挙げる中で、日本への理解度が抜群に深かったのが印象的です。

あ、そうそう。コーヒーに関して言えば、残留農薬問題が取り沙汰され、2008年付近にはエチオピアコーヒーは日本で出回らなくなってしまったことがありましたね。まだまだ記憶に新しい方も多いのではないでしょうか。
使いまわされていた麻袋に付いていた農薬が検出されてしまった、実際には問題にならない量だったという話がネット上では多いです。もしそうだとすれば何というか、非常に申し訳ない話です。現在は輸入も再開され、普通に飲めます。

2018/2019年時点において、エチオピアのコーヒー輸出先のうち、日本は現在第3位、割合にして13.5%です(USDAStaff 2020)。一方、日本のコーヒー輸入元のうち、エチオピアは第4位です(2020年速報値、全日本コーヒー協会[2021]による)。

あと、これは完全に余談ですが、日本からエチオピアへの農林水産物の輸出で一番多いのって何だと思いますか? 輸入はもちろんコーヒーですが。

財務省貿易統計を引用した農水省のページによれば、「うどん・そうめん・そば」だそうです(農林水産省 2020)。輸出額は3000ドル、ざっくり30万円分。
うーん、うどん屋さんにしては少ないし、個人で食べるには多いので……日本食レストランがあるのでしょうか?

第3章:コーヒー輸出国としての現代エチオピア

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冷戦終結とともにメンギスツ体制は打ち倒されます。打ち倒したのはEPRDF(エチオピア人民革命民主戦線)という勢力でした。

EPRDFとは、もともとは北部地域を活動圏とするTPLF(ティグライ人民解放戦線)が中心となり、エチオピア各地から打倒メンギスツを掲げて集められた軍事力でした。クーデターに成功し、政権与党になります。中心人物であったTPLFのメレスという人物が1991年から実質的トップとして、エチオピア政権を率いることになります。

EPRDFはティグライ、アムハラ、オロモ、それから南部諸民族の4勢力による合議制として政権運営を行いました。それぞれ25%ずつ議決権を有しており、わりと民族の多様性に配慮した制度設計です。ちなみに人口比で言えば、オロモ34.9%、アムハラ27.9%、ティグライ7.3%、の順です(CIA 2021)。

このタイミングでエリトリアも分離独立します。これは民族自決を重んじる政策や憲法(注9)から認められたものでした。エリトリアの独立をもってエチオピアは内陸国となり、海を失います。現在でも、人口規模では世界最大の内陸国だと言われています、だから何というわけではありません。

メレス率いるEPRDFは比較的に多様性を重んじる一方で、強権的な手法も目立ちます。革命的民主主義を大義とし、守旧的な勢力を打ち倒していきました(西 2009, Gettleman 2012)。相当な辣腕の持ち主だったようです。

そんなメレスが注力したのが、農業開発でした。ECXはその代表格でもあり、相当にドラスティックな改革で生み出された制度です。コーヒーについても品質や価格に関して全ての関係者にものすごく大きな影響を与えたので、以下詳述していきますね。

ECX(Ethiopian Commodity Exchange、エチオピア商品取引所)とはその名の通り商品取引所そのものであり、またそれを介した流通システム全体を指すものでもあります。ひとことで言えば売り手と作り手をつなぐプラットフォームで、日本でいう東京商品取引所のようなイメージにちょっと近いです。

簡単に仕組みを説明しましょう。
ECX用の倉庫(warehouse)が準備されていて、生産者がメイズや麦、コーヒーといった農作物を納品します。農作物を業者が品質チェックして、これはG-1、あれはG-3といった要領でランクをつけます。卸売業者はそのランクに従って農作物を買い取ります。
その一連の取引はディスプレイや携帯端末・HPなどで随時公開されるため、市場原理に基づき価格形成が行われるという寸法です。

そもそもなぜECXが作られたのか。これは歴史的な要請でもありました。ハイレセラシエもメンギスツも、飢饉がきっかけで政情不安に陥ったことは前述の通りです。エチオピアにおける飢饉というのは旱魃や虫害などの環境要因のみならず、政治経済的な失敗によって発生(悪化)したものでした。

また国際的な状況もECX成立を後押ししました。
1980年代まではICOによる価格平準化が機能していたことを上述しましたが、それも冷戦終結とともに崩壊します。コーヒー農家さんも市場経済やグローバル化の波に晒されることになり、価格のボラティリティは大きくなりました(Petit 2007)。

コーヒー生産者にとって災いしたのは、そうした市場原理導入のかたわら価格決定の主導権を失ったことです。Ponte[2002]によれば、冷戦終結までのICOのレジームが崩壊したことで、価格形成の主導権は消費国側に渡ったとしています(なおLewin et al.[2004]では、ロースターはブレンド比率をある程度自由に変えられる点で交渉力があることを示唆していて、なるほどなって思いました)。
その結果、欧米や日本などの消費地での流通価格は上がっているのに、生産国側が受け取る金額は減少する「コーヒーパラドックス」が生じたと言われています(Petit 2007,Daviron and Ponte 2005)。

かねてからコーヒーの国際価格はじりじりと下落を続けていたところ(Lewin et al. 2004)、特にコーヒー危機の最中の2002年、生産者の取り分は0.27ドル/lbとなります(ICO 2021c、下図参照)。ICO[2021c]を見ると多い時は1ドル/lbを超えていたわけですから(それでも豊かとは言えない生活水準です)、その危険性は容易に想像がつきます。

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(ICO[2021c]をもとに宮崎作成。平均とは当該資料掲載のコーヒー輸出国全体のものからロブスタ種を除外したものであり、空白セル分は除いて計算した)

先進国による搾取だと言うのは一面的かもしれません。でも農家さんにとって望ましくない状況ではあったはずです。

これに対して世界的に様々な取り組みが行われていました。フェアトレードはその一例です。あるいはスペシャルティコーヒーの機運が高まったこともあり、品質を上げることで対応しようという流れも起こっています。

エチオピアは独自路線を進み、特徴的な施策を打ち出します。それがECXでした。提唱者であるエレニ・ガブレマディン氏らは、低コストで効率的な取引の場が必要だと考えました(Gabre-Madhin 2007,Gabre-Madhin and Goggin 2005)。ECXを規定する文書(Proclamation)によれば、効率的で透明で、秩序だった市場システムの創設により、エチオピアの小農に市場参加を促すことが目的の1つとされています(GOE 2007)。

実際に、ECXは透明な市場を提供することで円滑な取引の実現に寄与したと評価されています。例えばAyalew and Belay [2020]では、ECXで取り扱いのある農作物とECXで取り扱われていない農作物を比較する中で、ECXは地域間価格差を減少させていることから効率的な流通に貢献したと評価しています。

コーヒーに限っても、ECXは概ねポジティブな評価を下されている印象です。例えばAndersson et al. [2017]ではECXの効果として、関係者にとっての情報へのアクセスが容易になり、契約コストや輸送コストなども低減するなど、スムーズな取引に貢献していると評価しています。石原[2013]では、ECX導入前後で単位収量あたりの買取価格が3倍以上(60ブルから200ブル)になった例を挙げています。

一方で、問題点ももちろんあります。とくにスペシャルティコーヒーに関してはECXについてネガティブな捉え方が多くあることも事実で、その意見はもっともだと思います。

代表的な批判としてトレーサビリティの欠如が挙げられます。ECXはコーヒーをコモディティと捉えた大量取引が前提となっているため、地域・グレード・精製方法が同じ豆はひとまとめにされてしまい、それ以上の追跡はできませんでした(Sawyer 2021)。

さらなる問題は、ECXを通さない取引を「事実上禁止」(PDG 2020)していたところにあります。日本の商社が現地の農園主と直接取引することも難しかったようで、農協を通したやりとりも可能だったのですが、それも細い販路だったようですね。三神[2020]では、日本から見たその混乱模様を鮮明に記しています。

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(ICO[2021c]をもとに宮崎作成。注意点は同上)

と、ここまでECXについて詳述してきましたが、こうした改革を行ったのがメレス政権だったわけです。いい意味でも悪い意味でも辣腕の持ち主だったのだろうと思います。開発に資すると判断すればECXのような施策を断行してしまえるような強さは、メレス政権の一つの特徴でした。

流れが変わるのが2012年です。メレスは2012年に病に倒れ、そのまま息を引き取ります。EPRDFの幹部は慌てて検討したことでしょう。メレスの出身であるティグライから後任を抜擢するのか、それとも数の上で多いオロモかアムハラから選ぶのか。

実際にメレスの跡を継いだのは、ウォライタ(南部諸民族州の最大集団)出身のハイレマリアムでした。彼は多元的共存(pluralism)を掲げ、それまでの開発独裁と言われてきたメレス政権とは一線を画した印象です。しかし政敵を抑え込めず、デモは頻発し、その責任を取る形で退任しました。

そこで出てきたのが、現在も首相を務めるアビーです。アビーは軍人歴の長い人物で、デルグ政権打倒を掲げていた当時のEPRDFにわずか14歳で参加した経歴の持ち主です。オロモに起源を持つにもかかわらず、入隊後にティグライ語を短期間でマスターし、ティグライ中心だったEPRDFの重要人物に成り上がったという逸話もあります(Manek 2018)。その後国連軍として紛争後のルワンダに派遣されるなど軍人として活躍したのち、2010年から政治家を務めています。

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メレス亡き後、コーヒー業界に大きな方針転換がありました。それがECXの任意化です。
今まではECXを通さない取引は強く制限されており、実質的に外国の商社と生産者との直接取引は困難でした。それが2017年から解禁されます。

これについては現時点で、多くの喜びの声が聞こえてきています。大手商社のノルディックアプローチは、ECXを通さない取引によってトレーサビリティの確保された高品質な豆を提供できるようになったとしています(Wennersgaard 2018)。業者のみならず生産者にもメリットがあり、シダマ(シダモ)のコーヒー価格は倍増したとDRWakefield[2020]では述べています。

もっとも下図からは、2017年のECXの任意化以降、生産者価格は減少傾向にあるようにも読めます。この原因が何なのかは分からないですが、いずれにせよECXの任意化が生産者と商社の双方にとって長期的に望ましい改善なのか、さらなるデータと検討が必要だとぼくは思います。

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(ICO[2021c]をもとに宮崎作成。注意点は同上)

壮大な社会実験は成功するのか、それともECX前の構造に回帰してしまうのか。どうなのでしょうか。

第4章:エチオピアコーヒーの今とこれから

ここまで見てきた政治社会的な背景をふまえて、現在のエチオピアコーヒーはどのように生産されているのか、農業技術や地域差などを踏まえて考察します。現時点のエチオピアコーヒーの特徴や長短所を捉えます。
その上で、今のエチオピアの社会情勢を考察して、コーヒー生産の未来を占って終わりにしましょう。

まずはエチオピアのコーヒー生産を俯瞰してみます。

エチオピア

エチオピアにおいては歴史的な事情もあり、大規模農園はかなり少ないです。収量ベースで考えてもエチオピアコーヒー全体の5-10%に過ぎません(Davis et al. 2018)。特に有名産地のシダマ、イルガチェフェ、ハラーにおいては、プランテーションはほとんど見られません(Koehler 2017)。

一方、小規模農家によるコーヒー畑も、主な生産方法ではありません。人の手によって作り上げられたガーデンコーヒー(居住地の近くの小さな畑で育てられるコーヒー)は20%程度に過ぎません(Davis et al. 2018)。少なくはないですが、これもメインの生産方法ではないです。

エチオピアにおいてもっとも多いのは、森林と一体になって育てるやり方です。手を加えていない森林からコーヒー豆を採集するフォレストコーヒー。ここに少し手を加えたのがセミフォレストコーヒー。もっと手を加えるとフォレストガーデンコーヒーと呼び方が変わっていくのですが、これらが過半を占めています(Davis et al. 2018)。
ただしそのうち、フォレストコーヒーの割合は10%に満たないとされており(Davis et al. 2018)、完全な放置ではなく人の手を一定程度加えるセミフォレスト、フォレストガーデンがメインだということが伺えます。

それらは前述のプランテーション、ガーデンコーヒーに比べ、管理は徹底されていないと言われます(Davis et al. 2018)。その意味で、エチオピアコーヒーは自然と人間の合作だと言えます。

自然の力を存分に発揮している一方で、人間の手をもっと入れるべきだという声も多いのも事実です。水へのアクセスが課題になっていることから、灌漑設備を拡充すべきという意見はそのひとつです(USDAStaff 2020)。大量の水を必要とするウォッシュドはほとんど行われておらず、Davis et al. [2018]によれば75-80%程度はナチュラル精製です。精製方法に優劣はありませんが、技術的な問題によって選択肢が狭まるのは痛手でしょう。

種苗の管理が行き届いていないことも指摘されています。たとえばカッファやイルバボールではフォレストコーヒーか、あるいは森林から自分で採ってきた種苗から育てていることが多いです(Tadesse 2017)。しかし種苗研究をする機関は主にJRC(Jimma Research Center)だけという状況のようです(Kufa et al. 2011)。
その結果現状では、開発された種子は十分に行き渡っておらず、農家さんの中には闇市場から粗悪な種子を購入するケースもあるそうです(アイ・シー・ネット株式会社 2015)。

とはいえ種苗管理が行き届いていないことは、野性味あふれるコーヒーにつながるとしてポジティブに捉えることもできます。
統制されておらず多様であるからこそ、病害によって一網打尽にされる可能性が低いという意見(Koehler 2017)はエチオピアならではです。
消費者の一人としても、自然の苗木をそのまま利用していることで各地域の特徴が如実に現れるところは、エチオピアコーヒーの推しポイントの1つです。

続きまして、エチオピアコーヒーの各地域での生産状況について見ていきましょう。
エチオピアコーヒーはとにかくそれぞれ多様で、各地域によって特徴が全然違います。カッファ(Kaffa)やイルバボール(Illbabor)、ベンチマジ(Bench Maji)などを含んだリフトバレー(大地溝帯)西部、シダマ、イルガチェフェといったリフトバレー東側(この区分はDavis. et al.[2018]を参考にしています)と、特徴的なハラーの3つに分けて概観してみましょう。

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(地図うまくないですか?)

カッファやイルバボールが含まれるリフトバレー西部は、年間を通して降雨量が多く(エチオピアの中では)、鬱蒼としています。フォレストコーヒーというイメージがまさに当てはまり、森林の中にコーヒーが自生している地域です。イルバボールにあるヤユ(Yayu)、カッファはそれぞれコーヒーの多様性などが認められ、ユネスコ世界遺産に登録されています(UNESCO 2021)。またゲイシャ種もこの地域内のベンチマジにおいて発見されたものです(Davis et al. 2018)。

それらの地域では、フォレストコーヒーあるいはセミフォレストコーヒーといった、自然をふんだんに利用した栽培方法も選択されています(Davis et al. 2018)。それぞれの規模感は小さいですが、一部には大規模な農園も見受けられます(Davis et al. 2018)。

香りや味の特徴はもはや表現できる幅を超えて多様です。イルバボールでは7割超、カッファでは8割超が森林から自分で採ってきた苗木で栽培しているという話もあるくらいなので(Tadesse 2017)、当然といえば当然なのでしょう。ベリー系、シトラス系、キャラメル・ミルク・ワインなどなど、まとめるには振れ幅がありすぎます。さすがアラビカコーヒー発祥の地。

一方、リフトバレー東部にあたるシダマ、イルガチェフェでは、管理された小規模な畑で栽培されるガーデンコーヒーが一般的です(Koehler 2017)。コーヒー以外の作物も混ぜて植えることで自家消費用の自給作物も生産できますし、よく管理しているので単位あたりのコーヒー収量はかなり多いです(Koehler 2017,Davis et al. 2018)。

この地域では従前よりウォッシュド、ナチュラルのどちらでも精製されていたのですが、近年はウォッシュドの割合が増えているようです(Davis et al. 2018)。総じてフルーティ、フローラル、シトラス等の特徴的なアロマを感じ取ることができるほか、ことイルガチェフェについては「香水のような」(Davis et al. 2018)、あるいは「コーヒーというよりも、アールグレイの紅茶に近いと感じる人もいる」(ホフマン 2018)ということです。

ぼくもイルガチェフェは好きなのですが、残念ながらアールグレイっぽい(=ベルガモットっぽい?)と感じたことはありませんでした(紅茶っぽいとは思います)。レモンのような酸も感じられるので、浅煎りで飲むと特徴が際立って好きです。ぜひお試しいただきたいのですが、ECX体制下での呼称地域は必ずしも一般に認識されているシダマやイルガチェフェと合致しているわけではない(Davis et al. 2018)ことは留意しておいてください。

お次はハラー(ハラール)です。ハラーはエチオピアのコーヒー生産において独特な立ち位置を持ちます。そもそもハラーは乾燥帯が大半のエチオピア東部に位置しながらも、南西部から線状に伸びた多雨地域上に位置しており(Davis et al. 2018)、古来より交通の要所として栄えた街です。現在でもやはり便利な場所に位置しており、ジブチへの輸送の要所であるディレダワ(Dire Dawa)までは数時間で行けます。

ハラーはエチオピア東部では例外的な降雨量を誇りますが、さすがに南西部に比べると降雨量は少ないです。
ハラーのコーヒー生産は灌漑設備の整った管理された小規模な畑で行われており(Koehler 2017)、その大半はあまり水を使わないナチュラル精製です(Davis et al. 2018)。

ブルーベリーのような香りが強く(ホフマン 2018)、Davis et al.[2018]ではそれをジャムのようだと喩えています。ナチュラルの良さを存分に生かしているのが、ハラーのコーヒーの長所でしょう。ロングベリーとアンバーコーヒーに大別されるのですが(Davis et al. 2018)、まずその二択が成立するほどに品種管理が行われている点でもエチオピアの中で特徴的な位置にあると言えます。

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それでは最後に、エチオピアコーヒーを育むエチオピア現代社会に起こる現在進行形の問題を検討しておきましょう。

エチオピアは内陸国なので、エリトリアやジブチなどを経由しなければ外海に出られません。ところがエリトリアとエチオピアは1998年には武力衝突があり、2000年に休戦したものの国交は途切れたままでした。

それを修復したのが、2018年から首相を務めるアビーです。アビーは着任早々エリトリアとの国境問題に取り組み、数ヶ月後には国交正常化に持ってきます。その功績を讃えられ、2019年にはノーベル平和賞を受賞しました。(なんでエリトリアの大統領はもらえなかったんだろう?)

またジブチ港(Port of Djibouti)への出資も行った模様です(Maasho 2018)。アディスアベバからジブチをつなぐ鉄道も開通しており(吉田 2017)、ジプチ港は兼ねてからエチオピアが外海にアクセスするために重用されてきましたが、今まで以上に強固な関係が期待されます。

アビーは国際問題に関して改革を進めただけではありませんでした。むしろアビー改革の最大のものとしては、政権与党であるEPRDFを繁栄党(Prosperity Party)に発展解消したことが挙げられます。ところが、これが波乱を呼ぶことになります。

1991年から与党だったEPRDFは、アムハラ・オロモ・ティグレ・南部諸民族のそれぞれで25%ずつの議決権を分け合う、民族自治を重視した連立政権の側面を持っていました。それを繁栄党にまとめることで団結力を高め、MEGA(Making Ethiopia Great Again)政策を進めようとしたのがアビー政権です。

これに対して、TPLF(ティグライ人民解放戦線)が強く反発します。そもそもEPRDFはティグライを中心に結成されたものであって、創設以来中心的なポジションを占めていました(児玉 2020)。TPLFはアビーの決定に納得せず、繁栄党への参加見送りを表明、ティグライ州を拠点として独自の政策を推進することに決めます(TIME 2020)。対するアビー政権も強硬な姿勢を崩さず、対立は深まっていきます(Aljazeera 2020)。

決定的だったのは、新型コロナウイルスの流行による2020年総選挙の延期でした。これに怒ったのがTPLFです。TPLFは総選挙を待つことなく、ティグライ州において独自の選挙を行いました。アビー政権はその選挙の無効を主張し、TPLFがティグライ州を占領することを許しません。

ついにアビー政権は武力行使に出て、両者は交戦状態に入りました。現在、アビー政権率いるエチオピア軍がTPLFの勢力の排除に成功したという話もありますが、そのまますんなりと収まるかは分かりません。

しかも悪いことに、アビー政権とTPLFとの紛争はエリトリアにも波及し、穏やかではない状況です。これはもう、どうなるか本当に分かりません。今後を見守るしかないでしょう。

コーヒーの話に引きつけて話すならば、現在はもっぱらジブチルートで運搬されています。このルートの強化は明るい話題だなと思ってみていました。それに加えてエリトリアのアッサブ港を通るルートも本格的に再開されるのかなと期待していましたのですが。ただ現状だけを見ると、すぐには難しいかもしれません。

もう1つ、個人的に楽しみにしているのがアフリカ大陸自由貿易圏(FTA)の存在です。やはりコロナの影響で遅れていたのですが、2021年の1月1日をもって、ついに始動しました(Aljazeera 2021)。

とはいえまだ詳細は決まっておらず、とりあえずスタートした感も否めないところ、今後の動向に注目です。また唯一の不参加国エリトリアと隣国していることからも、バイラテラルな関係の重要性は変わりません。でもアフリカ全体が1つの経済圏となれば、そのパワーは底知れません。これは結構期待しています。

もちろんエチオピアにおいてもコロナ禍の影響は甚大であり、それが政治情勢にもコーヒー生産にも大きな悪影響を及ぼしています。これはデータが出揃ってきたら改めて考えなければなりません。

その一方で流通の面からは明るいニュースも多々あり、必ずしも悲観すべき状況ではないと宮崎は考えています。生産・流通・それから消費も含めて、エチオピアの未来が明るいことを願っています。

おわり。

脚注

① エチオピアの輸出額中に占めるコーヒーの割合は高いですが、すなわちコーヒーだけが外貨獲得の手段であるという見方はあまり説得的ではありません。CIAはエチオピアの外貨獲得手段として航空などのサービスセクターを挙げたうえで、コーヒーはそれに続くものとしています(CIA 2021)。
たとえば2019年度のエチオピアの総輸出額は31億ドル、うちコーヒーは8.4億ドル(OEC 2021)です。一方で2017/2018年度、エチオピア航空は単体で32億ドルちょっとの収入ですし(Ethiopian Airlines[2018]による。なお実際の記載は約894億ETBであり、1ETB=0.036USDで計算しています)、観光収入も結構なものです(CNN 2015)。

② コーヒー産地である南西部では実は昔から飲まれていたのではないかという疑問に対しては、Pankhurst[1997]は、ありえないことではないとしています。もっとも、たとえばコーヒーに用いられる道具がアラブ由来の名前であることなどから、コーヒー文化をアラブ由来の文化だと考える方が妥当ということみたいですね。
なんだろう、たとえば5世紀にコーヒーを点てていた茶器が発掘されたり、何らかの文献が見つかったりすれば歴史は塗り替えられていくんでしょう。でもそういった証拠は見つかっていないから、より説得的な別の説が通説とされている、みたいなのってロマンがあって、個人的にはすごく面白いです。

③ ICOのデータから宮崎が計算すると48.0%(2018年の生産量は約45万トン(ICO 2021a)、輸出量は約24万トン(ICO 2021b))でした。Davis et al.[2018]では国内消費量は50%程度と記述されています。
もっとも、自家消費用のものやご近所さんへのお裾分け用などについては全部が公の販路に乗るわけではないでしょうから、正確な捕捉は難しそうだなって思っています。

④ ちなみにパンクハーストさんはご夫婦でエチオピア研究をされていた方です。夫のリチャードさんはエチオピアの歴史家で、リチャードさんのお母さんはエチオピアの研究者であり活動家でもあった人です。パンクハーストご夫婦のお子さんもエチオピアに関する研究や活動を行っています。エチオピア研究は家業というかお家芸というか、エチオピア色の濃いご家族ですね。この家族なくしてエチオピア研究なし、くらいの影響力があります。

⑤ youtubeでコーヒーセレモニーの動画がたくさん上げられているので、お時間のある時にイメージを掴んでみてください。たとえばアフリカ理解プロジェクト[2014]は分かりやすかったです。

⑥ 公平のために言えば、コーヒー運搬のためのインフラ整備を帝国が行った例もあり、そこから地元商人が利益を得ていたケースもありました(Gemeda 2002)。またフォレストコーヒーはある種のラベルとして、現代においてはそれ自体に価値があるような売り方もされています。

⑦ ちなみにエチオピアでは土地は公有なので、占有や貸し借りはできても売却はできないことになっています(松村 2008)。でも松村[2008]によれば実際には普通に売買されているケースもあるみたいです。
ちなみにこの制度はデルグ政権時代に大枠が決まったのですが、実はエチオピア帝国時代も形式的には土地は皇帝のものであったため、エチオピアの人は一貫して法的には土地を所有してこなかったことになります(石原 2017)。

⑧ ハイレセラシエは失脚直後に殺されたそうですが(岡倉 1999)、メンギスツはクーデター成立の直前にジンバブエに亡命しました。いまは80歳も超えましたがジンバブエでは楽しく暮らしているようで、2018年にはフェイスブックに楽しそうな写真を投稿して思いっきり炎上しています(BBC 2018)。

⑨  なおエチオピア憲法には自治や自決権が強く規定されているものの、民族という言葉は用いられていません。またティグライ州やアムハラ州などは確かに民族名がついているものの、その実は多民族が共存するものですから、単一民族共同体的な理解は違います。
そもそも民族はある種、ダイナミックで多面的なものです。たとえばエチオピアでは民族間での結婚も普通に見受けられるところ(松村 2008)、あの人は○○族の人だよって素朴に言えないところもあります。外部から名指される民族と自意識が必ずしも一致するわけではなく、そもそも民族ごとに意見が一枚岩なわけでもないです。「民族政府が、じつのところ誰の(どの組織や集団の)利益を代表しているのか」(西 2009)は結構難しい問題です。
とはいえ民族という概念が無意味というわけでもないです。民族という概念を持ち出した政治は随所で行われていますし、社会生活の中でも相当意識されていることも伺えます(松村 2008)。画一的な語りが通用するものではないけれども、無視することも到底できない難しい概念なのですよ。大学院生のときはよく先生に怒られました。こわかったです。

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宮脇幸生,2014,「精霊憑依と新たな世界構築の技法——農牧民ホールにおけるアヤナ・カルトの意味世界」石原美奈子編『せめぎあう宗教と国家――エチオピア 神々の相克と共生』風響社.

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————,2017,「『生活の向上』を目指す——ムスリム聖者村における女性組合の試み」石原美奈子編『現代エチオピアの女たち――社会変化とジェンダーをめぐる民族誌』明石書店.

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