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ただの日記(1/20〜1/25)

1/20(月)

こちらの確認不足で見落としていたことに、ある程度作業が進んでから気づいて、やり直し。

残業してからnoteで日報を書く。

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好きな作品についてうまく話せない件を、前にも増して考えるようになってきた。

人前で自分の思いを話して分かちあえることの喜びを先週のプレゼン大会で知って以来、うまく言葉にすることへの渇望がより輪郭を帯びてきたからかもしれない。

昔観た映画か何かで、男が女に向かって「君に愛を囁くために僕は言葉を知った」とうそぶくシーンをふと思い出すが、今考えても歯が浮くようなセリフである。でも今なら少しその言葉の切実さがわかる気がする。

普段、惰性で人と交わることを避けている自分にとって、好きなものを語れずして言葉を紡ぐ意味はあるのだろうか。

隣の、あるいは遠くの誰かに話したいことなんて、自分の好きなことくらいしかない。

1/23(木)

古巣の同日入社かつ元チームメイトで現・同僚をなんとなく誘い、蕎麦を食べに。へぎそばが好みの硬さだった。

お酒抜きで遠慮のないトークが止まらなかったのは、この人なら何を言われても理解することを放棄しないだろうという信頼があるから。新卒のころからの知り合いというのももちろんある。

蕎麦を食べながら話したのは、メンタルが限界で相手から逃げ出したかったあまりに、ケジメがつけられなかったこと。やや懺悔のような愚痴のような、極めて感情的なこと。

要は被害者意識で頭がいっぱいになったがために、わたしは節目でするべき振る舞いを仕損じた、という話だ。

それを聴いた同僚の解釈がひどく腑に落ちた。仕損じたこと自体は褒められたものではないが、メカニズムとしては疲れた時に人と話したくないのと同じ、と言うのだ。

たしかに実家にいたときも、節目節目でわたしは親に不義理なままでやり過ごし、彼らの反感を買っていた。

つまり自分のネガティブパターンのひとつなのだろう。節目なんてそう訪れることではないからこそ、これまで看過してきてしまった。

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ひとしきり近況を話したあと、卑近な出来事の話になった。この日の日報にも書いた、有識者に自分のアウトプットをレビューのことだ。同僚いわく、コーチという存在を検討する価値があると言う。

優れたアスリートですら、コーチをつける。自分の努力が間違っていないかを常に確認するためだ。まさに今日実感したことに近い。

今日会った有識者とは引き続き交流して行きたい、と改めて思う。自分の取り組む領域のコーチがほしい。

1/24(金)

自分の分析結果から分かるものが少なすぎて、他にどう深掘りしようかあれこれ模索している内に、遅くなってしまった。

オフィスに居残っていた作家さんたちに誘ってもらって、餃子屋に向かうも行列で、隣のタイ料理屋のラストオーダーに滑り込んだ。

期待していた生春巻きは、エビと水菜ではなく蒸し鶏だったが、食感と風味が箸休めにちょうどよかった。

マンガを描くのもどんな風に感じてほしいかを考えなくちゃと思って、と言う作家さんの話に、コルクの仕事も同じですと話したところから始まり、最近考えてることを作家さんたちに聴いてもらった。

作品の翻訳ができるようになったら、もっと広く作品を届けることができるようになると思うから、作品についてちゃんと理解して、まずは感想をちゃんと伝えられるようになりたいという話に、作家さんたちはうんうんと頷いてくれた。

こういう話をもっと早くすればよかった。あと、身近な作家さんたちの作品を理解することから少しずつ始めよう。

1/25(土)

今日はこの前のライトニングトーク大会のスピーカーのひとりから誘ってもらってまたプレゼンさせてもらった。

とにかく進行の二人の盛り上げがよかった。聴き手に相づちを促したり、持ち時間が15分もあるところに、プレゼンターへの配慮を感じた。

さらに会の終わりに「褒め褒めタイム」なるプレゼンターへの聴き手からのフィードバックがあるのもよかった。感想を共有することで一体感が生まれていた。

また今日は今さらながら質問されることのありがたさを実感した。その人がわかるように説明するために、言葉にしていなかった範囲を言語化することになるからだ。これはすごくいい自己認識ツールだ。中でも「なんでradiotalkで話すんですか?」というのはすごくいい質問だった。

次またプレゼンする機会があれば、勇気を出して自分が好きなことについて語りたい。

わたしをサポートしたつもりになって、自分を甘やかしてください。