ただの日記(2/23〜3/1)
2/23(日)
眠くてしょうがない。しかし今日は起きねばならない。中高の同級生が東北で博士課程を終えて、わざわざ大きい絵を携えてこちらで展示をしているのだ。それに行きたい。
…と思ったが、シャワーが億劫で中途半端な時間になってしまった。午前中に行きたかったのだ。約束はしていなかったが、とりいそぎ友人に明日行く旨だけ伝える。
お昼どき、友人と代官山で落ち合う。初対面で一緒にラクーア三昧をした、コルクラボのメンバーだ。給料日前で手持ちがないのに代官山に来てしまったことに戦慄したが、腹が減ってしまったので店を探す。案の定、蔦屋書店まわりはどこも混んでいる。皆どこから来ているのだろう。
ではヒルサイドパントリーはどうだろう、と提案される。入口の吹き抜けから地下を見下ろしてみると、地元の人と思しき人しかいないようだ。皆出かける前に立ち寄りさっと小腹を満たして出て行く、という回転のよさが見受けられた。
デリとパンのコーナーで各々食べたいものをピックアップする。悩んだ結果、キュウリのサンドイッチとミルクフランス、クランベリージュースを選ぶ。
こういう小洒落た場所にあるキュウリのサンドイッチというのは、ある種の本気を感じるので気になってしまう。なんせサンドイッチは水分が大敵だ。水気でパンをベチョベチョにしないようにしながらも、成分の95%以上が水分というキュウリのシャキシャキ感を出そうとするのだから、よほどの技術がないと成立し得ない代物なのだ。
バターだけだと途中で飽きるので、ピリッとした辛さもほしいのだけれど、ここの店のはそうではなかった。チーズが意外とさっぱりしていてこれはこれでよかった。
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新型肺炎でのピリピリにも関わらず、蔦屋書店はいつものように混雑していた。もちろんかく言う自分も、咳エチケットができていれば普段通りに過ごしてよいと思う派だ。しかしこの混雑は本屋が、というより店内に配置されたスターバックス用の席がどこも埋まっている、というだけなのかもしれない。
友人とゆっくり話したかったので、確実に席がありそうな2階のANJINへ。ここですら10分ほど待つ混雑だった。焙じ茶を頼むと、小さなザラリとした質感の黒い陶器の急須と小さな湯呑みに、黒糖がけのくるみが添えられていた。
日本茶なんて家で飲めると思うだろう。しかし日本茶こそ、こういうきちんとした設えで提供してくれる場所で楽しんだ方が美味しいと思う。我が家にあんな必要十分で雰囲気まで醸してくれる茶器はない。いっそ自分の家にもとは思うが、探すにもまたリテラシーが必要なはずだ。誰かが言っていた、飲食店やホテルはライフスタイルの試着ができる場所というのは本当である。細かな演出が食体験を豊かにしてくれる。
ANJINのほの暗い空間でいろいろ話しているうちに、18時を過ぎていた。コルクラボやマーケティングについて話し込んでしまった。当初相談したかったGoogle Tag Managerのことも捗った(このために集まったようなものだ)。
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その後、夕食につきあってもらう。お肉とニョッキがおいしかった。モチモチしたもの全般が好きなのだが、ニョッキも自分で作るくらい好きだ。タピオカが流行ってくれて本当にありがたい。
2/24(月)
今日こそ早く起きる。そして友人の展示を観に行く。
と今日も勇んだものの、眠気に勝てそうになく、せめて起きるモチベーションをと思い立ってモーニングを外で食べることにした。
しかし訪れた「パンとエスプレッソと」は、食べたかったトーストセットが10時でオーダーストップ。布団でTwitterを見ていた2時間前の自分を内心責めながら、テラスで8センチの高さはあろうかというトーストを頬張る先客たちを眺めた。
昼間の行列同様、モーニングもこの店は混む。ゆっくり話すためのソファ席たちは、いつ空くかもわからない。しかし自分には行列に怯む同行者もいない。店で友人への土産のパンを選びつつ待つことにした。自分で買うときはきっと冒険はしないだろう、とほんの少しチャレンジングなラインナップにしてみた。
トーストの代わりに頼んだチャバタサンドは、美味しいとわかっていてもトーストのことを思うと、少し苦い気持ちになる。外はパリパリで中がしっとりしたチャバタと、ツナとトマトのシンプルな組み合わせがすごく合う。
そういえば1年前もこのお店でこんなことがあった気がする。行列に並んででもこのお店のモーニングが食べたくなるタイミングは、1年周期なのかもしれない。
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チャバタサンドを食べてる間に友人と連絡がつく。展示室の監視のシフト前にお茶をすることになった。
藝大浪人を経て、東北芸術工科大学で日本画を学んできた彼女の博士課程の集大成を観る前に、いつものようにとりとめもなくいろいろな話をする。
山形と東京、いつでも会える距離ではないけれど、東京を度々訪れる彼女のフットワークの軽さのおかげで、会うときの気負いがないのがよい。あまり気負うと変な期待が生まれるし、見栄を張らなくて済む関係性でいたいものだ。
彼女とは思えば中高6年間の生活の後もゆるゆると繋がって、ここ数年は2回も旅行に行っている。回避傾向がややある自分にしては、彼女とはわりかし踏み込んだ間柄だと思う。
いくら願っても、タイミングや熱量が合わない人もいる。こうしてゆるやかに繋がれるのはありがたい。
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お茶を終えて、展示室に向かう。奥へ少し進んだところに彼女の作品は在った。
実物に勝るものはないが、有形なアートに対して、感想が無形というなのがなんだか不思議であるし、これが彼女の学生生活の区切りだ。せっかくなので感じたことをテキストで残しておきたい。
そもそも友人の描く作品に限らず、芸工大の学生の作品というのは、東北の自然に抱かれた広々としたアトリエで、のびのびと製作された巨大なものばかりに思う。
アートにおいて、大きいことは間違いないことだと思う。自分より大きな存在に自分を絞り出す行為は、それだけで途方もなく、尊い。それに大きいとそれだけで表現力が増す気がしない?と、昔の知り合いが言っていたことを思い出す。
今回、友人が制作したのは大きなカーテン地を、崩れるギリギリの強度に加工した人物画。天井の高い展示室に佇む大きなそれは、絵画の枠を超え、空間や時間の経過に耐えうる存在として映った。
彼女の作品のように、彼女自身がどこに行っても彼女らしさを表すことができたら、と思う。
3/1(日)
去年買った小さな土鍋「KAKOMI」でお米を1合炊いてみた。
スケールで1合=180g(冨田ただすけさん流)を測る。研いだらできる限り水を捨てる。残った水気を考慮して200mlではなく170mlの水を入れる。冬なので10分多めの40分の浸水後、湯気がプーと出るまで10分程中火、5分弱火、火を止め10分蒸らす。
まぁまぁ美味い。水は190mlくらいがよかったかな。すぐ湯気が出たので中火の時間は6分ほどにした。
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お昼過ぎ、いつもの喫茶サロンに行く。雁須磨子『明日死ぬには、』、山崎ナオコーラ『かわいい夫』を持ってきたので早速マンガの方から読む。どちらも好きな作品だった(書くと長くなるので割愛)。
黒い猫がストーブの近くに寄ってきた。手を伸ばせば届く距離だ。おそるおそる手を差し出すと、指の匂いをかいだ後何度か舐められた。
「クロ、さすがに慣れましたね」とストーブの向こうのマスターが笑う。
猫という生き物は、シルエットが変幻自在な上に、美しい。黒猫は模様がなくて真っ黒で、シルエットそのものだ。ずっと見ていたい。
ちなみに猫はあまり目がよくないらしい。お嬢に、また来たのね、と思われたい。わたしはいつも同じひとつ結び、いつも似たようなニットを着て喫茶を訪れる。
去年の秋にこの喫茶サロンでお嬢に出会ってからというもの、異様に黒猫が気になりだした。黒猫にまつわるコミックエッセイなどを読んだり、SNSで黒猫の飼い主をフォローするほどだ。黒猫が気になって仕方ない。
ところで、猫姉妹の片割れ・アオは、客がいるところでは鳴かない。時折、わたしの死角でマスターにしか聴こえないような小さな声がする。黒い方はというと、おもちゃの紐の傍でひっきりなしに甘えた声を出す。
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マスクを転売してボロ儲けしている人が、この世のどこかにいるらしい。モラルに欠けた行いというのは、少しずつ心を蝕むものなのではないかと思っている。そもそも良心を持ち合わせていない人間については知らないが。
後ろ暗さというのは、人間としてのチューニングを狂わせるのではないか。たとえば自分は音程のおかしいギターの音色をずっと聴くなんて耐えられない。それは音痴な人の歌のようでもあるだろう。
もし自分の中に清廉潔白さの憧れがあるとしたら、それはきっと綺麗な音への執着だ。
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喫茶サロンの帰り際に、前から気になっていた店にある花器についてマスターに尋ねる。古道具ではなく作家もののようだ。
どうしても気になるがいったん帰宅。夕食を食べつつよくよく考える。再訪する前に駅前の花屋でいくつか見繕う。
花屋から戻った後、再度マスターの元に寄る。
当初、佇まいが好きで買おうと思ったものは諦め、同じ作家の別のものにした。花を生けるという行為と自分の表現力が釣り合わなくて後悔しそうだったからだ。
今日はたくさん猫を見てホッとした。
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寝る間際、今日炊いた土鍋ごはんのことを思い出す。あの固さと水分のなさは、カレーに向いているのかもしれない。そう思うと大成功に思えた。
わたしをサポートしたつもりになって、自分を甘やかしてください。