見出し画像

ただの日記(2/3〜2/4)

2/3(月)

先月参加したLT(短いプレゼン)大会で同じくスピーカーだったプランナーさんとランチへ。

彼とはバックグラウンドや気質においていくつか共通点がある。そのせいかnoteを書くことや1on1についての意見交換で、会話それ自体が鏡を見ているような感覚になる。

自分では価値がないと思うことも、相手には光って見える。相手に話しているようで、自分に言い聞かせているような時間だった。

たとえばnoteを書く際、どうしてもテーマの大小や華やかさが気になってしまう。しかし肩書きや成果だけではわからない、こだわりや思考プロセスこそ読んでいておもしろいし、学びを感じると最近実感する。これは日常的に対面で人に詳しく話を聴いてるとき、おもしろくて印象に残る事柄と同じなのではと思う。

なのになぜ、noteに書く段になるとそういう私的な部分が捨象されてしまうのだろう。 やったこと(Do)ではなく、取り組んだときの姿勢や考え(Be)にこそその人の魅力を感じる。

1on1に関しては、マネジメント経験がないため、1on1をする側の話はとても新鮮だ。マネジメントされる側としての日ごろの自分を顧みる機会にもなる。

思えば、マネジメントについて最近思うことが増えた。つい最近までは、自分のやれることを増やすことや、プレーヤーとして物事を進めることに意識が行きがちだった。しかしこの数ヶ月のマーケターとしての仕事で、自分が現場の仕事で手を動かすことが減る内に少しベクトルが変わった気がしている。

それもこれも、歯車としての位置が変わるだけで、物事を進めるという点は変わらなかったからだろう。

ひとりよりもチームでやった方がいいことがたくさんあるとわかってきた。それは単なるタスク分担ではない。頼んだ相手に同じ能力がなくてもいいこともわかってきた。目的と意義が共有できれば、馬力はひとりよりも大きくなり得ることも。

会話の中でいいマネージャーになりそうと言われて少しホッとした。意識的に行動を変えようとしてたときとは違い、自然と動けるようになってきたのかもしれない。

外的視点に出会えた日だった。

2/4(火)

有休をとったのを忘れて入れてしまった、打合せのために渋谷のスターバックスへ。

寒いとなかなか気持ちも解れないので世間話をしつつ本題も話し、30分で終了。同僚はオフィスに戻り、ひとり残ってぼんやり明治通りを眺める。空が白い。

cocotiビルのスターバックスが東京でいちばん好きかもしれない。天井が高くて隣の席の人が他の店舗より気にならなくて落ち着く。ショコラムースラテは思ったほど甘くなくてよかった。甘すぎないフレーバーが増えてきたことに大人に向けたメッセージを感じる。

***

お昼前、今回の有休の目的であったラクーアへ向かう。訪れるのは10月にとった連休以来、2回目となる。今回はひとりではなく、コルクラボのメンバーと行く。しかし会うのは今日がはじめてだ。

きっかけは、互いになんとなく存在や発言を認知していたところ、たまたま自分が発したラクーアでのんびりしたいという趣旨のツイートだった。向こうから気さくに声をかけてもらったのだ。女性というところにも安心していた。

楽しみではあったが、最近気になっていた人物が向こうから誘ってくれた、極めて運のいいというか、都合のいい展開に驚いたままこの日を迎えた。

とは言え、ひとりが好きだが人との関わりによって寂しさを覚える、こんなややこしい自分と過ごして楽しんでもらえるか不安だったが、これはすぐに杞憂とわかることになる。

ラクーアは入り口がややこしく、まずそこで行き違いが発生したのだが、なんとか合流できた。待ち合わせ相手の姿が見えないと見えるまで先の順路に進んでしまうのは、小さい頃からの悪い癖だと今さら気づく。

平日昼のラクーアは人もまばらで、いる人たちにも気の抜けた表情が目立つ。何がなんでも休もうと躍起になっている人も少なそうで安心する。

ここはテルマー湯ともおふろの王様とも違い、窓からの採光がある。空間の使い方、インテリアへのこだわり、そして奥行きのある抜け感に好感が持てる。カジュアルなリゾートホテルのような雰囲気は、リフレッシュにぴったりだと思う。

合流後、挨拶もそこそこに館内のベトナム料理店でパクチーまみれのフォーを食べる。おいしい。フォーは意外とボリュームがある。好きな味が食べても食べても減らなくて愉快な気持ちになってしまう。

初対面なので話を盛り上げなければと最初思っていたが、幸い相手が自分やコルクに興味があったのもあり、つい質問されるがままに楽しくしゃべってしまった。

今回もだが、もっと質問した方がよかったのだろうか、といつも反省する。興味がない人とは端から一対一で話さないので、興味がない訳がないのだが、どうにも活発な質問ができない。

自分は人間に興味がないのかもしれない、こんな自分が他人と交流する資格があるのだろうかと、こんなとき思う。とは言え、この手の悩みを抱えること自体にもう飽きた。熟成を通り越して、腐食すらしている。

こういう悩みは内側を向き過ぎているからなんだろう。要するに自己愛が過ぎるのではというのが見立てだ。しかし自分がそうであるように、他人はそんなに暇じゃない。そんな細かいこと気にしていないのではないか。

では質問しない理由を、いい加減別の角度から考えようと思う。果たしてなんだろうか。

なんとなく心当たりがあるのは、自分の質問はつまらないし、質問の稚拙さ故にこちらが得られる情報に限りがあることへの諦めなどだ。ならば紋切り型にインタビューしない代わりにどうやって相手を知るのか。

ふりかえると、Twitterやブログなどのテキストや、日常会話や所作などを頼りにしているように思う。その人がどんな出来事に触れているか、彼らが選びとった言葉をなぞりながら、なんとなく人と成りやバックグラウンドを想像するのだ。

そうして日ごろ自分がどんな風にテキストメディアを使ってるかを考えれば、質問の件はわかることだ。しかし受け手のときは言葉以外の情報源を使うのに、逆に伝える側になった途端に、言葉しか相手が受け取るチャネルがないと思い込むはなぜだろう。

ということを考えながら、温泉に入ったり、昼寝をしたり、という時間の中でたくさん話をしている内にあっという間に22時を過ぎてしまった。

12時間も外出するとさすがに疲れるのだが、さすがにそこはラクーア、常に館内はポカポカで、温泉で身体がほぐれていることもありずっとリラックスしていた。

休みだというのに、社外の人とコルクや生活についてたくさん話して、とても解放的な気持ちで帰宅した。

わたしをサポートしたつもりになって、自分を甘やかしてください。