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#1798 これからの「授業」の在り方

戦後の教育界では、「一斉授業」が流行し、その成果がたくさん蓄積されてきた。

いわば、「教師中心」に教育が語られる時代だった。

一方、最近では、「一斉授業」の課題が浮き彫りとなり、代わりに「子供主体の学び」「個別最適な学び」「ICTの活用」などがさかんに叫ばれるようになっている。

いわば、「子供中心」に教育が語られる時代となっている。

そのせいもあり、巷には「主体的・対話的で深い学び」「個別最適な学び」「探究」「ICT活用」を銘打った書籍が山のように並んでいる。

そして、この流れを見るに、「子供主体の学び」「ICT活用」などの実践は「出尽くした」感があるように感じる。

俯瞰して見ると、「どれも同じような実践」であり、文字通り「出尽くした」としか言いようがないのだ。

そんな「子供主体の学び」ばかりを重視していると、当然「課題」も浮き彫りになってくる。

教師が子供を「放任」するようになる。
子供たちの「学習規律」が乱れるようになる。

戦後から脈々と受け継がれてきた「一斉授業」の時代には、あまり顕在化しなかった課題である。

それは当然のことである。

「一斉授業」では、教師が子供を管理・コントロールすることができる。

だから、子供を放任することなどないし、学級の規律も保たれていたのだ。

しかし、その様相が「子供主体の学び」中心になると一変する。

子供に学習のコントロール権を渡すので、教師の出番が極端に少なくなると感じるようになるのだ。

これを「教師の出番などない」と勘違いした教師が、子供を放任するようになる。

さらに「好き勝手やっていいんだ」と勘違いした子供たちが、教室の規律を乱すようになる。

教師も子供も「勘違い」しているのだ。

このように、戦後からの「一斉授業」にも、現代の「子供主体の学び」にも課題が存在するのである。

では、これからの「授業」の在り方はどうなっていくのか?

答えは明白である。

「一斉授業」にも「子供主体の学び」にも課題があるのだから、その折衷案こそが「答え」となる。

つまり、「教師も子供も主体となるような授業」が目指されるべきなのである。

教師が主体となって、単元をデザインしたり、学習環境を整えたり、意欲を喚起したり、伴走・支援をしたり、形成的評価をしたりしていく。

そして、子供たちも主体となって、学習計画を立てたり、学び方を選んだり、他者と協働したり、自己調整したりしていく。

このような「教師と子供の相互主体の授業」こそが、これからの授業の在り方なのである。

どちらか一方に偏ることなく、教師も子供も自分の「役割」を自覚し、相互主体となって授業を創っていくのである。

教育界には、この道しか残されていないはずである。

ぜひ、そのような「相互主体の授業」を模索していきたい。

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