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#1776 学校に通わせている時点で「一斉指導」である

「一斉指導はよくない」「一斉指導は悪だ」と最近よく言われる。

私もさんざん一斉指導を否定してきた。

しかし、子どもたちを「学校に通わせている」時点で、これはもはや「一斉指導」なのである。

時間割があり、教科ごとに決められた学習をしなければならない。

これは一斉指導である。

朝の会や帰りの会がある。

これも一斉指導である。

1時間の中で、到達すべき目標があり、その中で子どもたちに活動を任せても、それは一斉指導である。

つまり、学校教育におけるほぼ全ての活動は「一斉指導」なのである。

この構造を否定することなどできはしない。

なので、「一斉指導はよくない」という言い方はナンセンスなのである。

学校に通わせている以上、一斉指導なのだから、それを否定してもどうしようもないのである。

重要なことは、一斉指導の中にどれだけ「個別性」「協働性」を含めるかである。

一斉指導が土台として存在し、その上に「個別的な学び」「協働的な学び」の要素を積み上げなくてはいけないのだ。

これが本質である。

「一斉指導」を破壊するためには、そもそもこの本質を変えなければいけない。

時間割をなくし、子どもに自由に学習のカリキュラムを組ませる。

学習開始時刻と終了時刻を子ども個々に任せる。

朝の会や帰りの会は撤廃する。

授業を全て複線化し、教師が子ども個々の学習状況を見取れるようにする。

こんなことは「不可能に近い」ことは分かっているはずだ。

なのだから、今の学校教育の在り方が根本的に変わらない限り、一斉指導は「土台」「マスト」なのである。

それを否定することはできないのだ。

考えるべきは、一斉指導の中に「個別性」「協働性」をどのくらい配合できるかどうかなのである。

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