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若葉治療院へようこそ!


 
 朝起きたらまず初めにカーテンを開ける。この習慣ができたのは、薄暗い森の中にある田舎を出て、都会に出てきてから。朝日を浴びると身体が溶けるなんて迷信も昔はあったみたいだけど、ほんとに身体が溶けてしまった吸血鬼を私は知らない。それが本当だとしたら、きっと世の中の吸血鬼の多くは、聖水と十字架、それに神の祝福を受けた剣なんてもので武装しなくても、勝手に自滅してしまっている。小さな頃に読んだ絵本でも、無防備に外に飛び出して行ってお母さんに怒られている子どもの話なんてたくさんあるのだ。太陽を浴びたら溶けるんだったら、吸血鬼の子どもたちはとっくに溶けてでんでろばあになっている。
 とはいえ、太陽の光には私たちに有害なものが多く含まれているのは変わらない。人間で言うところの紫外線に該当するものが、ざっと七つだったか。直射日光は身体に悪い。それは事実だ。だから、都会には吸血鬼専用のマンションもたくさんあって、その窓ガラスは全て、それらの有害成分をカットする加工が施されている。これのお陰で、進学してからこっちの私の朝の習慣ができた。入ってきた穏やかな光を一杯に浴びて、大きく伸びをする。季節は春の始め。フローリングにつけた足の裏は冷たさが心地よく、冬から愛用している厚手のパジャマはそろそろお役御免の、そんな時期。
「さあって、今日は何を着ようかな~♪」
 溶けるわけではないが、吸血鬼にとって太陽光はかなり有害だ。だが、言ってしまえば陽射しを直接に浴びなければよいので、外を歩くときには日傘や帽子、長手袋などの厳重な防備のもと、たくさんの吸血鬼たちが今日も朝から元気に働く。
 もちろん、私、立花朱璃も、だ。
 
 吸血鬼に限らず、いわゆるモンスターと呼ばれる者たちが市民権を得るには、長い長い歴史の中で、それはそれは大変なことだったのだと、歴史の授業で習う。いくら吸血鬼が長寿とはいえ当事者が生きているはずもなく、祖父の祖父あたりからの口伝で、随分家族色が強くなった『当時』を聞かされたことがないとは言わないが、教科書で習うその事件やら紛争やらデモクラシーとやらは、社会の点数がまっかっかだった私にとっては頭の痛い過去でしかない。大体、幕藩体制から民主主義に完全に移行するまでにもすったもんだあったはずだが、そんな昔のことなんて知るかよ、と豪語する日本人が多くいる中で、吸血鬼なんだから吸血鬼の歴史のことを深く理解していると思う方が間違っている。立花朱璃は、日本人で吸血鬼、それでいいじゃないか。
 それよりも朱璃が覚えるべきは、身体の中に星の数ほどある静脈や動脈、筋肉とそれに繋がるけんの部分、そこから導き出されるへんな名前のついたツボの数々だ。間違っても、第一次吸血鬼戦争とか、ブラッド伯爵の泣き落としとか富士山麓の誓いが西暦何年とかそういったことを詰め込むスペースはない。ましてや、吸血鬼の中でも特殊技能とされている吸血調整を可能にするための実習に青春の半分を捧げた朱璃である。古めかしい偏見の元、差別者が吸血鬼の舘を取り囲んで起こした世紀末のデモの際、舘の主であったどこやらのだれやらさんがバルコニーに出て彼らに一喝したと言われている有名な台詞が『鏡を見よ。そこにこそあなた方の言う化け物はいる』だとか言われても、「うるさい!」くらいの方が当然なんじゃないかと思うばかりだ。
 さて、最近流行りのグラノーラとヨーグルト、それにトマトジュースを朝食に平らげた朱璃は、皿洗いを帰宅後に後回しにして、意気揚々と自宅を出た。春先から秋口にかけて、有害物質は多い。それでも、小春日和のこの頃は、長袖とフードで汗ばむくらいだからまだ楽だ。鼻歌を歌う余裕すらある。
 夏になれば毎日熱中症との戦いだ。近年正確に報道されるようになった危険指数には、本当にお世話になった。あまりにも危険指数が高い日には、院長に頼んで仕事場で寝泊まりさせてもらったこともある。今年はもう少しマシになるといい。
 愛用の自転車で約七分。五階建てビルの一階部分、小さな駐輪場を併設するこぢんまりした治療院が朱璃の職場だ。木製のドアにガラス張りの外観は、パッと見、カフェに見えなくもない。遮光のブラインドが下ろされているのは、朱璃のような吸血鬼に配慮した結果で、窓ガラスに張り付けたオーナメントや宣伝文句を目立たせるのにも一役買っていた。
「おっはよーございまーっす! 今日のご予約って、何人ですかぁー?」
 昨日が休みなったのは朱璃だけだ。院は毎日開いていて、施術師たちが交替で休日を貰うシステムになっている。完全週休二日制ではあるが、曜日が固定されていない部分がブラックとはまでは行かないがグレーゾーンにも見える。しかし、明るく楽しい職場なので、朱璃はそんなに嫌だと感じたことはない。
 昨日の内に増えた客がいないか尋ねた朱璃に、朝が来て眠そうな事務の松島さんがくわりと欠伸を噛み殺しながら、六人だと答えをくれた。
 
 
 モンスターにもいろいろいて、人間にも人種や国籍がいろいろある。日本人と言ってもまたそれは多種多様であり、つまるところ吸血鬼と一言にいってもやはりいろいろあった。
 その筆頭に上げられるのが、なんといってもその名の由来にもなった「吸血」という行為だろう。
 実を言えば、現代の吸血鬼において、吸血のみで食事とするような吸血鬼は存在しないのだ。普通にごはんもおいしいし、ケーキだって和菓子だって朱璃は大好きだ。納豆にはちょっとご遠慮願って居るものの、それは吸血鬼がどうこうというより個人の嗜好の問題で、どうにもあの匂いが好きになれないだけである。
 味の話をすると、悪い血ばっかり飲んだらまずいんじゃないの? 嫌にならない?とよく言われるが、そもそも血に関する考え方が人間と違うのだということを朱璃は訴えたい。
 吸血鬼にとって血とは、かならずしもおいしいと感じるものではない、ということだ。
 無論、マズイ、ということはあまりない。日本人が米を吐くほどマズイと感じることがないように。だが、同じ日本人でも、米とは甘美に美味なもので、これがなければ朝も昼も夜も始まらないと考える人と、あんまり米は好きじゃないけど、まあ不味くもないからおかずと一緒に食べている人がいる、という風にだ。
 そして、血だけで栄養を賄うことがなくなった現代の吸血鬼にとっては、血とは主食ではなく、どちらかと言えばファンタとかオレンジジュースだとかそんなようなものになっている。いざという時に一番吸収率がよく、効率がいいのも血なのだが、飢えている状況でなければ清涼飲料水だ。
 仕事でジュース飲めるなんて言い御身分ね、と嫌味で言われることもあるが、仕事でゲームをしこたまやりまくってバグがないかチェックするという仕事もあるというのだから、まあ、世の中いい御身分で働く人もいるのだろうと自分を納得させている。
 ともかく、吸血施術というものは、吸血鬼の中でも特に訓練された者にしか行えない、完全なる特異技能なのである。
「え、ってことは、純血とかって居ないんですか?」
「いない、いない! うちの実家の方、吸血鬼多いけど、純血なんておとぎ話の中だけの話だよ~。海外とかで身持ちの堅い一族とかには存在するかもだけど、今までもこれからもそんな人たちと出会う予定なんてないしね」
 施術師としての主な仕事は、その名の通り施術である。身体中の凝りをほぐし、身体を軽くして帰ってもらうのが朱璃の仕事だ。朝一番の予約を入れてくれた患者さんは、この町に来てからまだ少ししか経っておらず、吸血鬼が施術師をつとめる治療院に来たのも初めてということだ。全国津々浦々、吸血鬼はどこにでもいるのだが、実は話をできるような吸血鬼が身近に居ない人間も多い。この国における人間とモンスターの人口割合こそ、六対四なのだが、人間が一種類しかいないのに対して、モンスターは実に多種多様だ。上位を占めるものだけを上げても、吸血鬼、狼人間、メドゥーサ、夢魔、インキュバス、サキュバスと枚挙にいとまがない。まあ、これらのうちどれを上げても、やはり吸血鬼と同じように、純血と呼ばれるようなものは、おとぎ話と同じような存在になっているのだが。
「蝙蝠に変身なんてのも、実は小説とかの影響なんですよ。私それで、小さいころ、本能を発揮すれば変身できるなんて思いこんで、黒い布広げてベランダから飛び降りたことあるんです」
「ええっ!」
「いやぁ、あの時は母親にしこたま怒られました。そんなわけないじゃない!って」
「怪我とかしなかったんですか?」
「幸い、下に積み上げた藁の束がごっそり置かれてたんで、打ち身くらいで済みました。…はい、じゃあ次はベッドに移動お願いします」
 座位でのほぐしを終え、ベッドに誘導する。俯せで寝ても呼吸が苦しくならないように、顔の位置で穴が開いている治療用の堅いベッドだ。ややぐったりした様子でふらふらとベッドに向かった青年は、本日の訴え通り、昨日の過度な運動が祟って、足にかなりの負担がかかっている。加えて、慢性的な肩こりからくる頭痛まで併発してしまったとなれば、朝一番の予約を入れてやってきたのにも納得が行った。
「うーん…、今日は本当に凝ってますねぇ…」
「うう…、スミマセン、やっぱり後で肩、やってもらっていいですか…?」
 もみほぐすだけでは到底足りそうにない。朱璃も分かりきっていたことだから、快く頷いた。こちらから提案する手間が省けて良い。この施術には、抵抗を持つ患者さんも少なくはないのだ。それでも、背に腹は代えられぬときにだけ、朱璃は喜んで牙をむく。
「いいですよー。じゃあ、先に腰と足のむくみやっつけちゃいますねー」
 ぎゅむっと体重をかけて骨盤を押えると、お願いします、という潰れた弱い声が押しだされた。
 これは本当に、凝りの塊のような人だ。
 
 
 
 朱璃の勤める若葉治療院には、毎日さまざまに、身体の凝りを抱えた人がやってくる。
「もうね、もう、私が作業している間に壁から手が生えてきて、勝手に肩を揉んでいってくれないかしらって思うのよ」
「あははー。それは中々にホラーですから、あんまり見たくない光景ですねー」
 吸血鬼が何をと思われるかもしれないが、朱璃はホラーが苦手である。貞子なんかはビデオデッキの中に閉じ込められたままDVDに移行してしまえと思っているし、他のホラー映画の主人公とバトルを繰り広げないでほしいと思っている。想像しただけで身震いするようなことを言う常連さんに笑顔で返しながらも、その台詞は心からのものだ。
 ともあれ、それほどに凝っているのだと訴えたい患者様は、それ以上ホラーなことを口にすることもなく、朱璃の施す施術に身を任せる。週一で通ってくる人だが、慢性的な疲労を伴っているので、本当ならば二日に一回は来てほしいところだ。しかし、末の息子が大学を出るまでは、学費を稼ぐためにパートをやめられないらしく、毎週ガチガチに固まった肩を揺らしてここへとやってくる。
「はい、おしまいです! 最後に奥に行って終わりにしましょうね」
「はいはい、どうもありがとう。本当に、朱璃ちゃんみたいなお仕事してくれる人がいてよかったわぁ」
「喜んでもらえて何よりです。先に行って、待っててくださいね!」
 今更何一つ説明しなくとも、相手の方が詳しいくらいだ。笑顔で見送った朱璃は、ベッドのシーツを綺麗に整頓してから、受付に座っていた新人の事務員に声を掛けた。
「清川さんが終わったら休憩貰うね。半から来る新患さん、吸血希望だったら先に採血して、検査かけといちゃって!」
「分かりました」
 真面目な顔で頷くその顔には包帯が巻かれている。都会に出てくるのは珍しいミイラ男だ。この治療院のスタッフは、人口割合に反してなぜか人間の方が少ない。吸血鬼が働くという固定概念があるために、同じモンスターが居ても、ギョッとされないのも理由だろうし、単にこの治療院に就職した後に、モンスターよりも人間の方が不真面目な傾向があったというのも理由になる。
 朱璃は外に目を向けると、暖かな陽射しが降り注ぐ、石畳の歩道を眺めた。
 資格ありきの仕事だが、そもそも特性ありきの仕事でもある。笑顔だけが取り柄の人間よりも、真面目さと包帯を巻かせたら天下一品のミイラ男の方が、ことこの治療院に置いては有能視されるのも無理はなかった。得意不得意の問題である。勿論、人間の方が向いている職種の方が多い。
 溜息を付いた朱璃の視線の奥では、狼男の警官が、落とし物の持ち主を探すために、顔を狼に戻して周囲にギョッとされている瞬間が写っていた。
 
 
 吸血施術というものは、その名の通り、血を吸うことによって凝りをほぐすというものである。
 凝りというものは、血流が悪くなった状態を意味し、そのせいで血のめぐりが悪く、どろどろの血液が溜まってしまう。この、悪くなった血を適度に吸い上げ、血流を戻すことで、凝りを一掃するのだ。
 もちろん、貧血や血虚の人には施術できないよう、医療法で定められている。希望者の血液を必ず検査し、本人にしっかりと自分の健康状態を把握してもらった上で、施術を行うか否かを決めて貰うのだ。
 医療行為として認定されているので、治療院の資格保有者―この場合、朱璃である―が施術を行える状態であると判断した場合、保険の適用はある。むしろ、保険適用外の場合に吸血施術を行ったら、生命への危険が甚だしいので、普通の施術師ならば、自費での吸血施術は嫌がってやらない。
「と、いうことで、今日の坂田さんの状態から見て、吸血施術は可能です。こちらの詳細のご説明をさせていただいて、坂田さんのご希望があれば、このまま施術を行わせて頂きたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
「はい、よろしくお願いします」
 深々と頭を下げたのは、初老に差し掛かったこぎれいな奥様だった。もはや一字一句他と違わない定型句を口にした朱璃は、契約書からちらりと顔を上げて、上品な女性の振舞いを観察した。
 吸血施術は初めてだという坂田夫人は、今月の始めに夫の定年退職に合わせて買ったマンションに移り住み、徒歩圏内にあるという息子夫婦の子どもの面倒を見始めたという。
 引っ越しに加えて、子どもの世話、それだけでなく、ずっと家にいるようになった夫の世話と、充実した毎日を過ごすうちに疲れがたまったらしい。吸血施術を行うこの若葉治療院の話を聞いて、疲労回復になるのならばとやってきた、ということだった。
「大丈夫ですよ、坂田さん。チクッとはしますけど、注射よりも痛くないですから! あ、でも、不安なことがあったら、なんでも聞いて下さいね」
 安心させるようにと笑顔で言えば、強張っていた白い顔をほろりと綻んだ。問診票を見るに、治療院自体が初めてらしい。
「ごめんなさいね、怖がりで。あんまは痛いって話もよく聞くし…、今までとっても元気だったものだから、緊張しているみたい」
「今でも十分お元気ですよ。ちょっと疲れちゃっただけですから、ここで元気になって、またお孫さんと公園に行ってあげて下さい」
 にっこりとことさらに笑って見せると、どうやら緊張することはないということが分かっていただけたようだった。契約書を一枚めくり、読みやすい字で書かれた注意事項をひとつひとつ説明していく。この説明を行うのは誰でも良いのだが、こと吸血という行為に関しては患者と施術師との信頼関係が必要だということで、吸血鬼である施術師本人が説明するというのが、若葉での決まりだった。
「基本的に、吸い過ぎはありません。吸血量は最大400ccまでです。献血したのと同じくらいですし、女性の場合は300ccくらいまでになるよう気をつけていますので、ご安心ください」
 そのほか、吸い出す血は老廃物を多く含んだ悪い血だけ、もちろん人間が吸血鬼になることもない。止血は医療用の非アレルギー性の軟膏を使うことやもしも異常があった場合、輸血の用意も整っていることなどを説明した。
「まぁ…、血をより分けることなんてできるの? 量も?」
 夫人は目を丸くして朱璃を見る。はい、と自信満々に頷いて、朱璃は女性と目を合せた。
「吸血鬼と言っても、吸血行為にはいろいろありまして…」
 なにせ、何代も前から人間と恋に落ちまくっている一族だ。一番下の妹はそもそも吸血行為自体ができないし、従弟の高校生は、吸血できるが止血はできない。止血は、吸血鬼の唾を使ってするので、医療行為の場合には、衛生面からも使用することはないが、唾液による止血が出来ない吸血鬼もいるということだ。朱璃は、吸血も止血もできるが、衝動的な吸血衝動があまりない。というかほぼない。ものすごく疲れてものすごくお腹が減って、気力も体力もゼロ!みたいな時には血が飲みたくなるが、そんな衝動は中学生の運動会の後以来覚えた記憶がない。
 あの時は丁度傍に居たお兄ちゃんの血を貰ったんだっけ。高校生になったお兄ちゃんは、一日汗をかきながら妹の面倒を見させられていたものだから、ぬるくてまずくて汗でしょっぱい味だった。文句を言ったらしこたま怒られたのは良い思い出だ。
 ちなみに、量の調節と血の選り分けは学校で習う。毎日毎日、調理学校よろしく、一滴の血を目隠しした上で舐めさせられて、良い血か悪い血か当てるテストをされる。そうして味を覚えた上で、吸血の時に悪い血だけを吸う技術を身に着けるのだ。
 朱璃がそう説明すると、夫人はようやく腑に落ちたらしい。肩の力がすとんと抜けたのを見計らい、朱璃はもう一枚、ページを捲った。
 後は医療法についての説明書きを読んでもらい、サインを貰うだけである。
 
 
 
 アルコールをたっぷりとしみ込ませたコットンで、丁寧に肩を拭く。ひやりとして苦手だという人が多いが、こればかりは仕方がない。患部の消毒は噛み付く吸血鬼だけでなく、血を吸われる患者の感染症を防ぐ意味合いが強いからだ。
「それでは、始めますね。痛みが酷いようでしたら、手元のボタンを押してください」
「はい」
 柔らかに肩を触る。動脈と静脈を指で辿り、特に凝りが酷そうな箇所を探る。一カ所から吸い過ぎると血管の中の血液が不足してしまうから、だいたい三か所に分けて吸い上げるのが一般的な施術だ。
 吸血ポイントを見つけ、肩口に顔を近づけると、香水の良い匂いがした。香水は普通、体臭と混ざり、全く同じ匂いにはならないと言われている。上品な香りは、せっけんのようなにおいと共に、夫人の雰囲気にぴったりと合っていた。
 口を開けて、皮膚に歯を当てる。ツンとしたアルコールの匂いが一瞬立ち込めて、すぐに分からなくなった。一口に飲みこむ量で、吸血量を計る。これを統一する訓練も、授業中に散々やった。今ではいつ何を飲みこんだとしても、朱璃のひとくちは変わらない。こくりこくりと飲み下し、止血用の軟膏を塗って傷口を覆う。
「思ったよりも、痛くないのねぇ…」
「そうですか? よかったです。次は左側行きますねー」
 ぺろりと口の端についた血を舐めて、朱璃はにこりと笑った。
 舌先に感じた、仄かな辛さには、気が付かなかった振りをして。
 
 
 
「あのさぁ、あの人。夕方に来てた新患の人なんだけどさぁ」
 夕暮れ方、治療院のドアには終了の文字がかかっているが、会社帰りの人がどうしてもと事前予約してきたので、夜診営業を行う予定になっている。来院は八時だ。院長が先に夕飯を食べに行っているため、治療院には今、朱璃と松島しかいない。
 朱璃は、カルテの書き込みをしている事務員の邪魔をしないようにと持ってきた椅子の背もたれにだらりと頭を預けたまま足をぶらつかせた。
「はいはい、なんですか? 良い感じの奥様だったじゃないですか。常連さんになってくれればいいんですけどねぇ」
「うーん、そうなんだけどさぁ…」
 珍しく歯切れの悪い朱璃の様子に、適当にあしらうのを辞めたらしい松島が、書き込みの手は止めることなく、ちらりと視線を寄越してきた。
 まだもごもごと口の中で言いよどんでいる施術師の言いたいことなど、百戦錬磨のベテラン事務員にはお見通しなのだろう。ちゃっちゃと報告しろ、ときびしい視線が送られる。
 んー、と口をへの字に曲げて、朱璃はやっとこさ顔を上げた。
「ほーこく、した方がいいかも…。主治医、かかってる先生いる?」
「そうですね。お引越しされたばかりですし、健康な方ですから今までかかったクリニックもなかったそうですよ」
 問診票を捲った松島が、あっさりと情報提供をしてくれる。飲んでいる薬や病名が書かれていないことから推察するに、ベテランの言葉は正しいのだろう。
「今度は何が引っかかったんです?」
 優しそうだったのに、楽しそうだったのに、お孫さんと遊んだ話を、嬉しそうにしてくれたのに…。
 子どものように唇を噛んで、足をぶらぶらとさせる朱璃はまだまだ子どもなのだろう。うまく言えないけれどやるせない。それが今の朱璃に当てはまる感情だった。
「ちょっと、辛かったの。ピリッて、唐辛子みたいな辛さがあった」
 吸血鬼にとって、血は主食のようなものであり、飲料のようなものである。そして、感じる味にも個人差があり、甘いという吸血鬼もいれば、しょっぱいという吸血鬼もいる。同じ血でも、良い血と悪い血には味の違いがあり、悪い血の中にも、味の違いがある。
 それが、今回朱璃が気になった「辛味」を感じたという点に繋がるのだ。
「分かりました。すぐに保健所と役所の方に伝えます」
 基本、ほんのりとした甘さを覚える朱璃の舌が、辛さと感じるとき。それは、飲んだ血の持ち主が、質の悪い病に侵されている可能性がある、ということでもあった。
「ん…。やっぱり、がん、かなぁ…」
「そう決めつけてモノを言うのは良くないですよ。言霊って言葉もあるくらいですし。でもまあ、ここで朱璃さんが早期発見したことで、悪化せずにすぐ直るってことも考えられますし」
 ぐだぐだ言ったってしょうがないんですから、気楽にいきましょ、と松島は簡単に言う。そして、彼女が簡単に言った通りにしかならないし、単なる施術師である朱璃は、ほんとにときたま、吸血施術という行為の中で、悪性疾患を見つけて役所に報告してもらうしか、できることがないのである。
「また来てくれるといいなぁ…」
 笑顔の素敵な人だったのに、せっかく、仲良くなれそうだったのに。ありがとう、と笑って、手をぎゅっと握って帰ってくれたのに…。
 はあ~と溜息を吐いた朱璃は、薄暗くなってきた通りを眺めた。ライトをつけた車がひっきりなしに走っている。帰宅ラッシュが少し過ぎたあたりだが、渋滞こそないものの、車通りは激しかった。
 診察でも検査でも分からない、見つけにくいとされる悪性疾患を、吸血鬼は見つけることができる。否、語弊があって、見付けることもできる吸血鬼も居る、ということだ。自分には分かった味が、他の吸血鬼には分からないこともある。そもそも、悪性疾患を持つ血液の味が分かるということ自体が、科学的に証明などできないものであり、不確かなのだ。
 近年でこそ、気が付いた施術師はかかりつけ医もしくは近隣の行政機関に報告するシステムが整ったが、一昔前まではいくら言っても聞き耳を持たれなかったという。
 もう少し近未来になれば、味の分かる吸血鬼が集められて、血液の味で悪性疾患を見つける検査機関なんかもできるのではないかと言われているが、不確かな部分もあるために、政府は二の足を踏んでいるらしい。
「なんだかねぇ~。こんなの、裏社会の人間が殺気が分かる、みたいなもんだし…。殺気が分かるなら、殺されるやくざいないんじゃないのっていうか、そんな感じであんまりこう、ビビッと分かるもんじゃないし…」
「分かるはずの妊娠検査薬でも、排卵日が近いと間違って陽性反応が出ますから、どんな検査だってそんなもんですよ」
「……松島さん、うら若い乙女の前でそおゆうグレーゾーンのワードはキツイよ…」
 女にとっては赤裸々な例えを出され、さすがの朱璃も苦言を呈する。しかし、それを発した当の本人はやはり暢気なもので、カルテの続きをやっつける手を止めようともしない。
「ねえねえ、ただいマンボウとただいマンモスだったら、どっちの方がウケるかなぁ?」
 と、そこへ、古臭いギャグを大真面目に思案しながら、院長が帰ってきた。手には唐揚げとコーヒー。夕食は食べて来たものの、中年太り真っ最中の胃袋を満たすには足らず、途中のコンビニで買って来たのだろう。
「院長、また買い食いですか? 奥さんに怒られますよー」
「ちゃんとコーヒーは微糖にしたから、内緒にしておいてくれんか」
「からあげ云々じゃなくて、春の特定健診のときに怒られるって言ってんですけどねえ」
 すぱー、と煙草でもふかしてそうな様子で松島が呆れた声を出す。うむむと唸った院長は、今日の所は自分を甘やかすことに決めたらしい。もぐもぐとからあげを頬張って、コーヒーをぐびりと飲みこんだ。
「朱璃くんも夕飯いっといで。商店街の定食屋が、今日は開店記念日で百円引きだったぞ」
「休憩行ってきまーす」
「おや」
 百円引きなどのお買い得情報に目がないはずの朱璃が、何も言わずに立ちあがったことに気が付いた院長が眉を上げる。視線を向けられた松島が、トントンとカルテをボールペンの先でノックした。それだけで察するのはさすがと言いたいところだが、若葉の院長はどこかとんちんかんなことでも有名だった。
「ところで朱璃くん、君ならただいマンボウとただいマンモスとどっちがいいかね?」
「…どっちだっていいですよ、そんなの。どっちだってサムイですから!」
 しょげることが分かっていたとしても、すげない返事をしてしまったのは、朱璃だけの過失であるとは認めない。
 
 
 
 目の前に出て来た天丼とうどんのボリュームのあるセットメニューに取りかかった朱璃は、なんの許可もなく目の前の空いた席に座った人物に唇を尖らせた。
「ひでえ」
 同僚じゃんかよ、と相手の男は笑う。何も言わなくても通じるのは、彼がもはや腐れ縁と言ってもおかしくないほどに付き合いが長いからだった。
「あんたには分かんないわよぅ。この味オンチ!」
「そりゃあないぜ、朱璃。おれはお前が作った味噌汁に使われた出汁を当てる事だってできるんだぜ?」
「出汁が何かなんて当てる必要ないでしょーが。大体がママから送られて来た顆粒なんだから!」
 はぐっと大口で天丼を頬張れば、おいおい、それで女かよとでも言いたげに掌で顔を覆う。仕草や言動の端々にハリウッド色を感じる幼馴染は、俳優でもなんでもなく、ただのハリウッドマニアな若葉治療院の吸血鬼施術師第二号だ。故郷も専門学校も就職先も同じだなんて、もはや神様の悪戯なんて可愛らしいものでは済まされない。共通の知り合いには必ず付き合っていると誤解を受けるし、たまにモテる幼馴染に惚れた女が勝手な嫉妬を向けてくるのも面倒だった。
 そして、先ほどの悪性疾患云々において、悪性疾患が見付けられない吸血鬼、というのにどんぴしゃりと当てはまる吸血鬼が、この男なのである。
 センチメンタルになっている朱璃の前に現れて、八つ当たりをされないはずがない。それが分かっていてわざわざ現れるこいつはもはや変人なのだろうと思うのだが、だからといって手加減できるほど、朱璃は幼馴染に対して遠慮会釈というものを持ったことがなかった。
「肩凝って施術してもらって、保険適用の範囲内で悪性疾患も見付けて貰えたなら、ラッキーって思うのが普通だと思うけどなあ、俺は」
 そして、この男ほど、遠慮せずに朱璃の気にしていることをずばっと言い当てる奴も他に居ないのである。
「そういう話をしてるんじゃないのよ、蘇芳。デリカシーのない男はとっととどっか行って!」
「まあ、待て。俺の頼んだカツ丼が、湯気を立ててこちらへやってきたようだからな…」
「ばっかみたい」
 言い捨てて、うどんをすする。ほんのり甘い蒲鉾を咀嚼して、一気に水を呷った。
「さてと、いただきます。ということで朱璃、七味取って」
「はいはい」
「ついでに結婚しない?」
「しない」
「ほんとに?」
「しない」
「ちぇ」
 ついでなんかでしてやるか、こん畜生。大体告白もされていないのに、なんで嫁にくるとか思ってやがるんだ。田舎に帰ればみんなそう思っているが、そんな外堀埋めただけでほいほい頷くような朱璃様じゃない。
 ぎろりと睨めば、肩を引っ込める真似事をした。通算を数えるのも馬鹿馬鹿しいくらい、なんのハリウッドに影響を受けたかは知らなけれど、二人になると必ずと言っていいほどにこのやりとりがある。小さなころから言われ続けて、もはやそこらへんに生えてるぺんぺん草の方が貴重なほどだ。
 それでも、いつものやりとりをした自分が、どうやら立ち直ったらしいことに気づき、朱璃は苦虫を噛み潰した。
 口の中でうどんがぷつんと切れる。冷凍食品なのだろううどんはコシがなく、ただ白く柔らかいばかりだったが、おつゆと合わせればこれはこれでおいしいものだ。溜息が出るけど。
「行き遅れても知らないぜ。お前もうすぐ適齢期過ぎるだろ」
「女・性・に! 年齢の! 話を! し・な・い・の!」
「生憎だな。俺にとって女性ってのは、お前以外の女のことを指すんだぜ」
「ぶっ刺してやろうか」
「牙をか? やめてくれ」
「だれがあんたの血なんか吸うか!!」
 古風な愛の表現方法だ。吸血鬼の男女で、なおかつ愛の言葉をささやかれた仲に限定されるが。
 口癖のような結婚しようもその類に含めてしまえば、求婚に答えたことになる。手袋を投げつけられて、無知に拾いに行く馬鹿じゃない。ガンッと音を立ててコップを置けば、空になったことに気が付いた店員が水の入ったピッチャーを片手に近付いてきた。
「お冷、おいれしますね」
「ありがとうございますー」
 にっこりと笑う。ついでにと半分減っていたもうひとつのコップにも並々注いだ店員が去っていく後姿を見送って、腐れ縁が忍び笑いを漏らした。
「うっさい! もう! 私食べたからもう行くね!」
「はっや! 待てよ、もう帰りだろ?」
「おあいにく様! 八時から夜診ですーっ!」
「マジかよ!」
 慌てたようにカツ丼をかきこみ始めた手が止まる。朱璃はふんと鼻を鳴らして颯爽と立ち去った。いつまでもこんなバカに付き合ってなどいられないのだ。患者が待っている。そして、例の報告の書類には、朱璃の施術師番号とサインがいるのだ。
 
 
 
 朝、起きて、昼過ぎまで働いて。ちょっと遅いご飯を食べる。あんまや針だけでなく、吸血施術も希望者には行って、これが吸血鬼として施術師の資格を持つ朱璃の一日だ。
 院が閉まるのは夕方六時。だけど予約の都合によっては残業もある。
 事務員ではできない書類作りも仕事のひとつで、吸血施術によって思いがけず、人の健康面の気づきたくないところにまで気付いてしまう。朱璃はただ、自分の施す施術によって、笑顔を持って帰ってほしいだけなのに。
 それでも、ベテラン事務員やおのんき院長は、朱璃のそんなところを知ってか知らずかいつも通りに接してくれるし、言いたくないが、落ち込んだときに必ず結婚しようぜといってくる馬鹿な幼馴染にもありがたいと思っている。何も知らずに言っていた小さな頃とは違って、大人になってからあいつがあの台詞を言うのは、朱璃がしょぼくれたときだけになった。
 一応、そういう機微のようなものは分かっているらしい。
 朱璃だって、そこまでほだされていないわけでもない。だが、好きだとも言われていない上についでに言われているうちは、絶対に頷いてやらないんだとも思っている。
 夜になって、家に帰り、夜診じゃない日はご飯を作る。お風呂に入って化粧水や乳液でお肌の調子を整えて、ちょっと本でも読んでから明日のために早く寝る。
 吸血鬼朱璃の一日はこれで終わりだ。
 夜診が終わった帰り道、電柱によりかかって、よぉ、と声を掛けて来た男は、まだ私が落ち込んでいるとでも思っているのだろうか。
 きまり悪そうに、アイスが食いたくなって、と言い訳するカッコ悪さを、こいつは理解していない。自転車を漕いでいた朱璃はキィと音を立ててブレーキをかけると、はあ、と小さく溜息を付いた。
 




あとがき
吸血鬼の吸血で肩の凝りが取れたらいいのになあという妄想の末出来上がった作品です。
こんな風に肩が軽くなったらいいなぁという願望を、これでもかとつぎ込んでみました。


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