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『小粥展』に行ってきました!

こんにちは。寺嫁お京です。

この度は、Instagramで出逢った同じ浄土真宗本願寺派の寺院の若坊守さんに誘われて、浄土宗来迎院様で開催された『小粥展』に行ってまいりました。

小粥展とは

小粥展を開催されたcodamaさんもnoteをされており、『小粥展』を紹介されていらっしゃったのでこちらをご覧ください。

https://note.com/codamas03/n/ncfa416e472ec

浄土宗の来迎院様は、日頃から様々なご縁の場を設けてある寺院様で、私自身もコロナ禍前に「苔玉ワークショップ」にお邪魔させていただいたことがありました。数年ぶりに訪れたにも関わらず、副住職さんは変わらずニコニコニコニコ笑顔でお迎えしてくださり、さらに私のことも覚えていてくださいました。感動。

子ども心をくすぐる坂の上にある来迎院様。

お御堂に入ると、20名ほどの参加者が来られていました。
そして、実は、この度お誘いしていただいた若坊守さんと私、初対面!
年齢や境遇、性別などなど共通点が多くあり、メールでのやりとりを重ねての今回のご縁。

さらに、この小粥展で音楽セッションされる、めおと音楽ユニット「遇々たまたま」の福山さん(codamaさんの夫であり浄土真宗本願寺派明行寺の御住職)が、
たまたま、私の夫の勤式時代の同期だったということで7年ぶりの再会を果たしていました。

後述しますが、対談の中で小粥さんが

「今日ここにいる人たちは、阿弥陀様に選ばれてきたんですよ」

と仰っていましたが、現代のSNSの恩恵もご縁の一つ。どっぷりたっぷりいただいています。

『小粥展』は2日間に渡って開催

1日目は、小粥さんとcodamaさんによる対談。
そして、皆さんごめんなさい。
1日目の写真をすっかり撮り忘れており、お見せできないのが残念です。

対談では、お二人の幼少期からの宗教観について時系列でお話がありました。
全く異なる宗教観の中で育ってきたお二人がこうやって出会い、トークセッションを繰り広げている不思議と必然を感じながら、リズミカルでコミカルなお二人の話術にまんまと捕らえられ、あっという間の2時間を過ごすことができました。
小粥さんとcodamaさんのこれまでの数々の出逢い、人生の流れを垣間見ることができました。


2日目は、音楽ユニット『遇々たまたま』さんの音楽の中で、小粥さんが仏画を製作するというLIVE&PAINTでした。
codamaさんの清らかで伸びやかな声、福山さんの笙の穏やかな音色、小粥さんがキャンバスに描く音が一体となって私たちを包んでくれました。

2日目は、娘が20分ほどで限界を迎えそうだったので、私と娘は屋外に出ましたが境内にこぼれ落ちるように流れてくる音色に浄化されていました。

まるで異空間

出来上がった作品がこちら。
阿弥陀如来と観世音菩薩と勢至菩薩。

「え?さっきからそこにいらっしゃったの?」
と思わずにはいられない。


2日間の『小粥展』を通して

ついつい一つの存在、一つの出来事に囚われてしまう私の心は、もっと自由であっていいんだな、と思える2日間でした。
常々、阿弥陀様の存在をめぐって寺嫁としての自分の立ち位置に葛藤をしているわけですが、
この度の『小粥展』にて、自分の中で「お寺」という存在が、単体で存在していたことに気付かされました。「私:お寺」みたいな感じ。
(葛藤内容は下の記事に書いています。)

しかし、小粥展でのお二人の姿と表現されることを見ていると、非日常を感じるのと同時に、教義も含めたお寺が、ひとつの住み慣れた家の家具のように日常に溶け込んでいる印象も受けました。
作家の村上春樹さんの言葉を借りるなら「矛盾なく存在している」感覚。

ここ数週間、浄土真宗の教義を理解するべく夫と一緒に「教行信証」を読み進める中で、
法性法身ほっしょうほっしん」という言葉が心に残りました。

法性法身とは、人間の認識を超えた、色もなく、かたちもなく、すがたをとらない、真理そのもの、さとりそのものである

ただ私は、色があり、形があり、姿があるものでなければそれを捉えられません。
阿弥陀様は形となって、お念仏は声となってそれを伝えてくれているのだということを知りました。
自分の中で阿弥陀様の存在を掴めずに葛藤していたことが、この言葉でとき解かれていくようでした。

小粥さんが言っていた「阿弥陀様に選ばれてきた人たち」は、出来事、お寺、そこにある風景、もっともっとずーーーーーっとずーーーーーっと昔から…全て平等に諸行無常の中に存在していたのです。

そのことを、小粥さんが描かれる仏画、曼荼羅、codamaさんの声、遇々さんの奏でる音色で表現されること、出逢った若坊守さん、来迎院様を通して私に届けてもらったように感じました。

きっと、阿弥陀様が
「おーい、寺嫁お京さ〜ん、いつでもここにいるんだよ〜」
と言ってくださってたんだな、と。

自坊でも何かご縁の場を催すことができれば・・・と、夫の住職と話していますが、
伝統主義(伝承過程で祖母独自で作り上げられていったものも含む)の祖母の意見との相違のため、私たち夫婦はその時をジッっと待ち、特に私の中では停滞している気がしていました。
しかし、その今の状態自体も変化していないわけではなく、エネルギーを蓄える蕾のように常に変化の中におり、対立ではなくその流れの中にいると知ると、幾分前向きに考えられるようになりました。

こうやって出逢いの中でまた、自分の寺嫁としての葛藤がとき解されていく時間を過ごすことができ、マジで、私は、おかげさまで生かされているラッキーなヤツです。(ラッキーに帰着する私はやっぱり凡夫だわ)

ところで、20分で外に連れ出された娘。
外に出たおかげでお友達ができました。
ご縁ですな。

ニャンだい?


最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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