私と先生とツナマヨと。

人って変わっちゃうのだ。
変わらないと思っていても変わっちゃうんだ。
いいか悪いかはおいておいて、変わる前のわたしのことを変わった後の自分にも覚えておいてほしいと思った。

大学1年生の時に履修していた授業を担当していた先生にに会った。
履修申請を私が間違えていたため、卒業前に単位取得のための再申請をしなければならなくなったからだ。
ひさしぶりに見た先生は、なんだか、すこしだけやせたように見えて、
4年前に見た姿とは違う人のようだった。

当時、大学に入りたてほやほやの1年生だった私は先生の授業を楽しみにしていた。

エキセントリックでまくしたてるように話す先生だったけど、
授業を受ける中でどんどん入ってくる知識の量が心地よかった。
あふれる情報の多さに毎度おぼれそうになりながらも
先人たちが積み上げてきた法の確かさや脆さを知ることは刺激的だった。
高校とは違い、今ある法律をこれまでの歴史や論理に基づいてとらえて、批判する。
私の視点をぐるりと変えてくれる授業だった。
知ることは、とにかく楽しいんだ。
そう思えた。

再申請の書類に先生のサインをもらうとき、
「4年前の授業を履修していました。」

と伝えたら、あの時の授業が一番面白かったと
すこし困ったように笑っていた。
今は、あんな風な授業はできないな、と。

意外だった。
授業を受けたのは4年前の一回っきりだったが、
あの先生の滝のように言葉を浴びる授業スタイルが変わるなんて
当時微塵も思えなかったからだ。

どう変わったのだろうか。
気になったけど、推し量ることもできなければ
それをしようとする気も起こらなかった。

だから、「私はあの授業が面白くて好きでした。」
そう伝えて、先生のオフィスを出た。

部屋を後にしてから、かなりコテコテの関西弁だった先生のことばが
さらりとした標準語に変わっていたことに気が付いた。

先生が何かを失ったのだとか、
そんなことを決して言いたいわけではないし、
分析がしたいんじゃない。
感傷に浸りたいのとは少し違う。

変化することは決して悪いことではない。
でも、変わる前の自分のことをすこしでも覚えておきたい。
先生を見て、なんとなくそう思ったのだ。

例えば、今朝コンビニで見た140円の辛子明太子のおにぎりを
お金がなくて108円のツナマヨおにぎりに変えた時の悔しさとかを、

いつか私が辛子明太子おにぎりを
迷わず手に取れる日が来たとしても、
覚えておきたいのだ。

そのときどきの私は、そのときにしかいない。

自分も周りも変わるのであれば、
せめて、わたしはそのときのわたしの気持ちをつかんでおきたい。

久しぶりに、そしてもう会うことのないであろう先生を見て
そう思った。

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