『きりこについて』について話そう

会社訪問がえりの長い電車の中での暇つぶしに。と、 電車の中で読み切れそうな薄い文庫本を手に取ったのがきっかけ。

不自由だと気が付いた瞬間に、私たちは自由になれる。そんな風な気持ちになることのできる物語でした。

まず、目につくのは主人公きりこが「ぶす」だということ。しかも、このぶすという言葉は全編を通して太字で書かれ続けます。

全編を通してきりこは賢く強い女性であり続けますが、私が好きなのはきりこが自分の容姿と、自分の性格、それまでの私をすべて含んで自分なのだと気が付くシーンです。

大事なのは、きりこが自分にとって、外見である自分の体のこともきちんと「自分」の中に含めているところ。

物語の序盤、中盤を通して徹底的にきりこがかわいくない、ぶすだということを読者も本の世界の中の人も共通認識として持っている中で、きりこが「人間外見じゃない、中身だ」と言ってしまうのが物語の骨子になるのだとしたら、それはすごく簡単なことなんだと思うんですよね。

「だってぶすなんだから、外見あきらめて中身を頑張るしかないじゃん。」

そんな天からの声、というか私の心が聞こえてきそうになります。

わたしだけでなく、外見よりも中身。中身こそが大事なんだということばは随所で見られるかと思います。

でも、それも本当か?一生付き合っていくこの外見は大事じゃないのか?

死ぬまで一緒に生きていく私のこの体は私ではないのか?

じゃあ私って何なんだ。

そう考えたときに、人から見られている自分の表層を外して話を進めるのはかなり難しい。

表情や振る舞いや行動を通して自分は自分を表現するし、逆に相手のことも見た目に現れたものを通して判断しているし。ひとの美しさに見とれることあるわけで。

人に限らずとも、おいしそうなカップ麺を中身なんて知らないまま買ってしまうこともありますね。そのまま、そのカップ麺を好きになるかどうかは、それこそ中身を知らなければわからないけれど、入り口として見た目っていろいろなところで大切にされている。

そんな風に自分を表すものの一つとして、カギとなるような見た目が本当に要らないものだと、言えるのだろうか。

「中身こそが大事で、見た目なんてどうだっていいんだ。」

繰り返しますが、たぶんそのことばは、外見が良ければ中身はなんだっていいといってしまうことと同じくらい簡単なことなのだと思います。

外見至上主義じゃない。でも、中身だけが本当の自分かというとそれも違う。

外見を笑われ続けたきりこがたどり着いた答えは、中身も外見もそしてこれまでのきりこが歩いてきたきりこの人生すべてがきりこだということです。

そして、外見を笑われて、人と会えなくなってしまった自分がいかに外見にとらわれていたかをしります。それは、自分の不自由さに気が付く瞬間でもありました。

そこからは、もう選べるんですよね。

不自由だと気が付いたからこそ、そのうえでじゃあ自分がどうしたいのかということが見えてくる。そのうえで選び抜いた決定は、自由そのものです。化粧しようがしまいが、見た目に合う服を着ようが着まいが(この考え方自体がすでに呪いにかけられている言葉ですね)、もうそれは自由に基づいた選択なわけです。

逃げ恥最終回の百合ちゃんも、自分に自分で呪いをかけないでと言及していました。私たちの周りに山ほどある呪いの言葉に私たちは知らないうちにとらえられて、がんじがらめになってしまう。でも、呪いの正体に、自分が自分に課していた不自由さに気が付いたらそこからはもう自分が何をしたい人間かを選べる。

大事なのは、それらに気が付いた後に自分で選んでつかんだ自由なのではないかな。

二つの物語からそんなことを考えました。

『あばら日記』より転載

http://blog.livedoor.jp/terrarassy/

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