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罪とバツ

1.離婚

案外うちは広かったんだな。

昨日まであったものがなくなっている風景がオレの前に広がっている。ソファも、冷蔵庫も食器棚も消えている。それを見て喉から上がってきたのは、ため息に混じった「あー」という変な音だけだった。

昨日の晩、ハンコをついたテーブルは消えているのに、たった一脚、何にもない部屋にリビングセットのオレの椅子がひとつだけ残されている。嫌な女だ。

そんなものに座るのもやりきれず、ラグもなくなったフローリングに横になる。ありがたいことに新婚旅行で買い、電圧が合わずに取り付けに苦労したベネチアのライトだけは天井に残っている。

「そりゃ、置いていくよな」

改めて声を出して、自分の声に驚く。家具がなくなった部屋は、音がいつもより響くのだ。25年ローンで夫婦共働きで今年完済した、ちっぽけなマンション。オレが出て行くから菜摘とおまえが住めばいいと言ったが、彼女は既に実家近くのマンションを手配していた。それも義両親宅のリフォームが済むまでで、娘の部屋も用意してあるという。なにごとも仕事同様に打つ手が早い。かつてはそれが惚れた所以だったが、そういうところが年々疎ましくなっていた。彼女は元からオレなんて必要のない女だった。

どれくらい前から、離婚を考えていたんだろう。裁判が始まった頃からだろうか。それともその前からだろうか。ローンが終わるから?菜摘の就職活動に影響するから?あまりに原因があからさまだったせいで、彼女の本当の気持ちすら聞かなかったことを少し後悔した。

「あなたもお金が要るんだし、そろそろ終わりにしましょう」

オレの署名と捺印以外に不足なく綺麗な文字で書かれた離婚届をテーブルに置いて彼女は言った。オレはなにか口にしようと考えて、やめた。

「じゃ、出しとくね」

恨み言も涙もない。彼女はサインした書類を畳み、コーヒーを飲みつつ今後の予定を話し、そのまま寝室へ行った。25年連れ添った夫婦の最後の会話は「じゃ、出しとくね」だ。月曜のゴミの日みたいに、さっさと捨ててしまいたい結婚生活だったんだろう。

このマンションも売りに出す手続きをしなくちゃならない。家具も結婚も子どもも、この25年あったもの、あったからといって特に大切にも思ってこなかったものだった。なのに捨てられたと、どこか感傷的になる自分がいる。勝手なものだ。少し冷えて距離があったとはいえ、意識もせずに取り繕えていたものをオレがぶち壊したのに。日々の気負わない会話や笑顔も、週末の家族の食卓も、娘の軽やかな声も。なにもかも。

「あなた、なにしたの?」

訴状が届いた日、彼女の最後の笑顔を見た。真っ白な顔に浮かんだ困惑し切った笑顔。

そう、おれはなにをした。なにをやらかしたんだ。






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