介護に関する独り言
FBに書いた事をこちらにも少し直して残そうと思います。
ダブルケア。介護と育児を同時に行うことをそう呼びます。
我が家はダブルケア家庭。
少子高齢化で、介護は誰にでも身近なものになってきて、自分の家族が誰かの介護をしている人、していた人、親戚にいる人、そんな人も多いと思います。
でも、私の年代で介護当事者はそうは多くないと思います。
今、私が感じていることを書いてみようと思います。
未来の私に向けても。
実はこの1週間くらい私は深く落ち込んでいました。
全てに置いて罪悪感と自己否定感に苛まれ、自分がすべて悪いのだという考えにとらわれて、身動きが取れなくなりました。
これといった発端はありません。
強いて言うなら、おばあちゃんがヘルパーさんや訪問看護師さんに
「片付いてないのが気になるけど、あの子も一生懸命やから、辛抱してるんや」
「子どもに怒ってばっかりで、そんなに怒らんでええのにと思うけど、くちだしたらあかんた思って辛抱してるんや」
などの愚痴が嫌でも耳に入ってきて、私の頭の中で何度も反芻されていました。
そして、成長してくる子どもは、生意気になっていき、5歳の長男は反抗的な言葉や態度を示したり、他の人に話すことを通して私への批判めいた言葉を残すようにもなりました。
おばあちゃんも、長男も何気ない、素直な気持ちからの言葉で、私をいじめてやろうなんて気持ちは無いでしょう。
しかし、私自身、うまくできない自覚があるからそれらの言葉は深く深く心に刺さり、何気ない子どもたちの兄弟間のやり取りも、私の日頃の口の悪さがイケないんだ、喧嘩も私がすぐ怒るから悪影響を及ぼしているんだ。すべて私が悪いんだ、とどんどん泥沼にハマっていくような状態でした。
そうなってくると、誰に「あなたは悪くない」「よく頑張ってる」「普通無理だよ」と励まされても、そんなに私はすごくない、全然足りない、私がやれてることなんて知れてる。なんなら、育児、介護、家事どれをとっても私なんか居なくても誰かがもっとうまくやってくれる。
なんて気持ちが沸き起こって止まらないのです。
じゃぁ、そんな気持ちになってまでなぜこの状況を打破しないのか。ということになってきます。
育児はもちろん、私の愛する子どもたちなので、どんなに苦しくても打ち勝てることでしょうし、投げ出すことはない。
では介護は?今どき施設に預けるなんて普通だよ?となります。
今の私の答えは、夫の大切な人だから、介護を続ける。夫も仕事をしながら、できる限りの協力はしてくれているし、私をねぎらってくれる。疲れて帰ってきても、子どもたちと遊んでくれる良き父親。そして、私の両親のことも大切に思ってくれて、心から、早くコロナが落ち着いてみんなでお母さんの実家に行きたいね、と言ってくれる。そんな夫が大切に思っているおばあちゃんだから、私は夫がもう良いよ、と言うまでこの介護を続けたいと思っている。
どんなに傷つく言葉を聞いても、排泄介助で大変な思いをしても、スケジュール管理であたふたしても、デイサービスなどの愚痴を延々と聞かされても、それでも続ける。
その、覚悟があっても、やはり、辛い日はある。いつまで続くんだろう、寿命はいつ来るのだろうと考える日もある。
介護も育児も文字通り綺麗事ではない。汗と涙と汚物との格闘。誰か1人でも体調崩せば、いろんな歯車がずれてしまう。
うちのおばあちゃんは認知症がすすんでないだけまだましなのだとも思う。
苦しみも多いけれど、子どもたちが元気よくおばあちゃんに「いってきます!」と声を掛け「ただいま!」「おかえり!」と声を掛ける姿を見るのは、大きな喜びの一つ。
片麻痺のせいで滑舌の悪いおばあちゃんの言うことを、何度も聞き直して話をしようとする姿も、愛おしい。
お母さん、大変だね、大丈夫?と気にかけてくれる優しさも。
私は、介護で得るものも大きいのです、と笑顔で言えるほどできた人間ではない。
でも、大切なものを大切にしたいと思う気持ちって、どんなに辛くても誰にでもあると思う。
だからこそ、各家庭の状況次第で、施設を利用することは必要なことだと思うし、後ろめたさを感じる必要もないと思っています。
在宅介護だけが介護ではありません。
うちも、結婚したときから近い将来介護が必要なのだと思っていたけれど、
急に、なんとなく始まりました。
介護って、いつの間にか始まるのです。
そのときに、誰か1人が苦しまないように、できれば、みんなが元気なときに、話し合っておくことは大切だと思います。
私達もいつどんな病を得たり、事故にあって、要介護者になるかわからない。
だから、自分自身のことも考え、シェアしておくことも必要かと思います。
なんとか、泥沼のような心の状態からは抜け出してきて、いつもの、なんとかなる!な私に近づいてきました。
大丈夫。まだ頑張れる!とりとめのない文章すぎて笑える。
とりあえず、言いたかったのは、介護している家庭が悲惨か、かわいそうか、というと、そうではないと言うことです。
綺麗事ではないから、今日書いたみたいに泥沼な気持ちになることもある。
それでも家族だから、大切にしたい、それだけなのです。
それが旧態依然だと感じる人もいると思います。でも、それを否定されるのは少し違うのです。
ツイッターで、ヤングケアラー(子供の頃から親など家族の介護に携わる人たち)についていろいろな議論があったあとに、当事者の方が、いろんな議論の中に「愛」という視点が抜けている。その愛が歪んだ情や恨みに変わらないための支援が必要、というコメントをされていました。
別の方は、ケアの負担を誰かが変わってくれたからと言ってすべてが解決するわけではない、と。
そのとおりなのです。
お金やケアの負担が軽くなっても、それで解決できない家族の関係、絆、愛情、愛着、歴史、時間。
政治を批判したいがために、自助、共助を否定するのは、必ずしも今介護と向き合っている人たちを励ます言葉にはならないのです。
介護殺人の事件を例に挙げ、それ見たことかと責めないでほしい。そんなにシンプルな感情ではないのです。
それは、介護者の気持ちを踏みにじってはいないのでしょうか?
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