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母と娘

私には夢があるー

父のような英語の先生になり、母のような母親になることだー

そんな始まりの文章を何年も前に母校の「学園だより」に頼まれて寄稿したことがある。

本当は、私には後者の方が夢としては大切だったような気がする。

その母が、かなり弱ってきているこの夏、様々なことを思い出す一方で、私は、この人の娘でよかったなと思う上に、私は、この人に似てるんだな~としみじみする場面が多くある。

そして、今でも覚えている母とのエピソードを少しずつ思い出すままに綴ってみたくなった。

エピソード① 私が大学院留学を決めたとき


「お金のかかる子だねぇ~」と笑っていた母に、私は

ーそれは、お母さんの責任だから

と、笑いながら

ーお母さん、私が小さいとき「保母(保育士)さんになりたい」と言ったとき、なんて言ったか覚えている?

と、聞いてみた。

母は、

「あなた、音符読めないでしょ。ピアノ弾けないから保母さんにはなれないな」

と、言っていたのだ。

ーそして、私が沖縄への家族旅行から帰ってきたとき、スチュワーデス(キャビンアテンダント)さんたちがかっこよくて、スチュワーデスになりたいと言ったとき、なんて言ったか覚えている?

と、続けた。

母は、

「乗り物酔いひどくて、飛行機の中で苦しんでいたくせに、あなたに飛行機の中で人の世話までできると思う?」

と、言っていた。

ーだから、私は大学院に行くんだよ。保母さんやスチュワーデスの夢を追えば、短大や専門学校で済んだかもしれないのに、お母さんが、その夢をつぶすようなことを言ったから。お金がかかるのは、お母さんのせいだな。

と、伝えたら、母は、楽しそうに笑っていた。

もちろん、本当はわかっている。

母の指摘は的を射ていた。

私の両親は、私が本当にそれをしたいと思うなら、音符を読む努力をして、ピアノを習いたいと言ってくるだろうことがわかっていたのだろうし、どちらの職業を目指すにしても必要な教養をつけるための努力はさせてくれたはずだけれど、私は、その努力をする気がなく、ただ思いつきで言っていただけであることを母はよくわかっていた。

母は今も昔も私の良き理解者だ。

ちなみに私は、未だに音符が読めないし、幼いころほどではないものの、乗り物酔いもひどい。海外に行くたび、帰国の瞬間、2度と行くものかと思うほどだ。すぐ忘れて、次の旅行の計画を立てているけれど 笑




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