10月の終わりに
夏休みが終わって、2か月が経つー気が付いたら、経っていたーという感じがするほど、忙しなく過ぎていった。
毎年問題提起をしていたつもりだったのだけれど、今年は特にひどかった市立中学校の前期末試験のことで、ローカル紙の取材を受けたり、久しぶりに「不登校」について考えることがあったり、中学生、高校生と釣りに行ったり、猫を保護したり、バタバタと次から次へといろいろなことが起こり、成し遂げたというものはあまり多くないけれど、すべてのことが、何か今の教育の問題とつながっていく気がして、今できることを精一杯して、まだまだできることを考え続けている。そんな2か月だった。
子どもたちも、大人も気持ちの余裕を失っているようで、いつもすぐ、答えを求める姿勢に戸惑うことが多い。
教育は、長い目で見て、すぐには答えが出ない過程だ。そして、その答えが、予想と違うものであることも多い。だから、今、丁寧に考えて取り組む必要がある。
今の自分たちの利益ではなく、長く、広い目で見て大切なことを次の世代に伝えるのが教育のはずだけれど、その大切なことを私たち大人が見失ってしまっていると感じることが多い。
前期末試験についても、「夏休み明けの試験の是非」という問題にすり替わり、不登校の問題も、学校の問題でも、親の問題でもなく「社会全体の在り方」の問題なのに、やはり矮小化されてしまっている気がしてならない。
不登校気味の高校生に今、彼が思っていることを聞いたところ
「大人が大変だというけれど、何がどう大変なのかわからない。実感がない」
というような言葉が返ってきて改めて面食らった。数年前、私たちから見れば「いとも」簡単に学校を辞めてきた高校生の言い分が、彼女の足は私たちの「地」とは違う場所に置かれているかもしれないと感じたのを思い出した。
私が育った環境では、大人たちが語る社会や未来は、子どもたちにもある程度輪郭が見えていて、大人たちの足は地についていて、安定感があった。けれど、今子どもたちは、その社会や未来の輪郭さえ見えていなくて、大人たちは、ふわふわと安定感がない。
理想は語るけれど、理念や哲学がないーそんな感じだろうか。
今年も残り2か月ーまだもう少し猫に振り回される生活が続くけれど、自分たちの哲学を確認して、できることを1つずつ、そして、子どもたちとの話もしっかりしながら過ごしたいと思っている。