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日本人たるもの

すっかり秋の空気を感じる今日このごろ、夏真っ盛りに行われた京都研修がようやく自分の中で咀嚼できてきたので振り返ろうと思う。それほど研修中は発見や気づきが多く、その時は頭の中は大混乱。理解が追いついておらず、半分パニック状態だったのだ。
 
訪れたお店は今時期の食材は似ているけれど料理やお店の雰囲気はすべて個性が異なりとても興味深かった。ただ通常、料理の説明は行わない姿勢であるというのはどのお店も一緒であり少し驚いた。聞かれたらもちろん答えるがあくまでそれは聞かれたら。それは、目の前の料理から感じ取り、どのようなことを表現しているのか想像する楽しさを奪ってしまうからだ。日本料理にはそんな楽しみ方があったのか。


走りの鱧と名残の雲丹をくみあわせた一品。夏から秋への移り変わりを表現している。

むしろ、私の場合は作ったものに関して思い入れが強いタイプで食べていただく方にどんな思いで作ったのか分かってほしくて何でもかんでもと細やかに説明してしまっていた。

8月に行った初めて自分たちで企画した留学弁当

一つ一つに思いを込めすぎて説明しすぎていた。いいことかもしれないが、お客様がぱっとみて感じ取ってもらうことも大事だったのかも。実に風情のないことをしていたのだなあと反省。
 
一つの料理でこんなにも細やかに季節を表現できるとは知らなかった。そして日本料理って奥が深すぎる、と感じた。日本料理は文化や器、しきたり、おもてなし、といった日本料理にまつわる様々なことを空間演出している。意外とそういうこととも関わりがある日本料理ってすごい。日本人たるもの、実に心得たい。
 
そういえば最近、今まで学んできたことが頭の中で少しずつつながってきつつある。どうしてこの作業をするのか、仕込みの段取り、ほんの少しだけどわかるようになってきた。同時に少しずつやりたいことも見えてきたかも。
そのために今できること。実践は増えてきているけれど、とにかく当たり前のことや基本的なことを的確に会得したい。料理人の方のお話でもあったように「汚いことに違和感を」感じ、身の回りをきれいにする、であるとか、食材を同じ形に切ったり、魚をきれいに捌いたりする、であるとか。あとは周りを見て動いたりきれいに盛り付けしたり。とにかく基本的なことの積み重ねによって少しずつ成長していける気がする
 
あとは、いろんな引き出しをふやすこと。「料理は自由だ」とおっしゃっていたように、どうやったらその食材を活かせるのか、引き立たせられるのか、研究をしている方もいる。常に想像力が必要らしい。


鱧のお造り写真

同じ鱧でも食材をみてどの調理法が適切なのか、判断する技術。どの味につけるのがベストか、自分なりの回答があるって強い。
 
 
残り半年の寺子屋生活、どこまで成長できるのだろう。同時に年末のおせちのお手伝いまでにどれだけ動ける人になっていられるのだろう。いろんな悩みはあるけれど、一つ一つを大切に味わって日々をみんなで過ごしていきたい。


研修直前にあったキンニャモニャパレードの出た後の様子

(文:島食の寺子屋生徒 野本)