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<責任>って何だ?

こんにちは、本多です。お寺の住職、大学での教鞭、それからテラエナジーの創業メンバーとして取締役をつとめています。僕は小学校のとき、アメリカに住んでました。帰国子女、つまりリターニーでもあります。仏教×電気×世界。毎日考えることでいっぱいです。noteでは、日常で感じたことや考えたことをできるだけ素直に言葉化したいと思います。ゆっくりしたときに読んでもらえたらうれしいです。

撥(ばち)を折ってしまった

テラエナジーの運営に携わるようになり、否応なく<責任>というものを意識するようになった。会社がうまくいってるときは意識しないが、経営状況が悪くなると、どこからともなく聞こえてくる。「企業責任」「経営側の責任」「自己責任」…こうした言葉を聞くたび、ヒヤッとする。責任という言葉はとても重く感じられる。

ちなみに、仏教には、現在使われている責任に通じる概念はない。

ところが、公共的空間でも、学校でも、あるいは家庭においても、責任という観念は深く浸透している。つい先日、檀家のおばあちゃんから次のことを聞いた。

6歳の孫が家にやってきて、仏壇の前にあるリンの棒(以下、撥〔バチ)〕で遊んでいたら、それを折ってしまった。すると孫はおばあちゃんに「ごめんなさい。お金を持ってないから、払えない」と言ったそうだ。おばあちゃんは「そんなん、かめへんかめへん(「かまわない」の関西弁)」と言って、孫がやったことをかばったようだ。檀家のおばあちゃんは僕に、「6歳の子でも、弁償せんとあかんなんてゆうですね。ドキッとしましたわ」と悲し気に話された。

子どもは、自分の行為の結果を自らの責任と受け止めるべきと教わったから、おばあちゃんに謝ったのだろう。撥をお金に置き換える子どもの態度には驚かされたが、自己責任という観念は6歳の子でさえ強く縛り付けるのだから、大人においてはなおさらのことだと改めて思った。見わたせばこの世界は、個々に責任がグルグル巻きに縛り付けられている。

ただ、立ち止まって考えてみたい。はたして責任とは、そういうものかどうか。

責任とは「応(こた)える力」

責任は英語ではresponsibilityである。response(応答)のability(能力)なので、「応える力」という意味になる。「応える力」に正解などない。応答の仕方はさまざまだ。

ところが、日本語の責任は、なぜか「個人が引き受ける罰」といった意味合いになっている。責任=「戒(いまし)め」なのだ。なので、責任という言葉を耳にするたび、自分が他の人から切り離され、独りぼっちにされたようで、どこか気持ちが冷え込む。

哲学者の國分太一郎さんは責任についてクリアに説明する。國分さんによれば、意志の有無を確認したうえで負わせる責任は、どう考えても応答(response)ではないという。(『<責任>の生成』新曜社、2020年、390頁参照)

たしかにその通りだ。「あなた〇〇したよね」→「そう思ったから〇〇したんでしょ」→「だったら、責任はあなたにあるわね」といった責任の捉え方は、あきらかに応答(response)ではない。むしろ、応答(response)の機会を奪っている。始めから「戒め」を定めたうえで、それを個人に押し付けているだけである。これでは、言った側の指示に、だまって従わせているだけである。

繰り返しになるが、そもそもの責任(responsibility)とは、罰を設定してそこに個人を押し込めることではない。何かを引き受けたところに発生するリアクション(応答/response)であるはずだ。

撥は6歳の子どもの力によって折られた。しかし、その子は折ろうと思って折ったわけではない。ところが、当人以外の人は「折る原因を自らが作って撥を折った」と、当人に責任と意志を押し付けようとする。一方、孫の姿を嘆く祖母の姿にこそ、他人の苦悩を引き受けようとする、責任の本来の姿を見ることができる。

責任は私を「〇〇にする」

数年前、講義で学生おすすめの映画を見るという授業をした。

ある学生が是枝裕和監督の「そして父になる」(2013年)という映画を上映してくれた。

順調な人生を送るエリート会社員の男が、ある日、妻と6年間育ててきた息子が、出生時に病院で他の子と取り違えられていたことを知り、夫婦は共に過ごした時間と血縁のどちらが大切なのかを考え、苦悩する話だ。

登場人物のエリートサラリーマンが抱える葛藤は、受け入れたくない状況を受け入れざるをえないことによる、自身の変化に耐えられないことであった。自身が誰かによって変化させられる。つまり別の存在の登場によって、自分が描き続けていた自己像が崩れ落ち、それまでとは違う自己が表れる。その表出に、主人公は強い拒否感を抱くのだ。

國分さんは、責任(responsibility)の原初形態を「becoming(生成変化)」であると説明する。

「〇〇である」ではなく、「〇〇になる」ということだ。(『<責任>の生成』392頁参照)

映画の主人公は、じょじょに双方の子どもに愛情をもって接するようになる。つまり、父はそれまでこだわっていた自己像から離れ、「父」を自覚し、それを引き受けてゆくのである。こうして主人公に、response(応答)するability(能力)が備わってゆく。

「父になる」ことを促したのは、主人公が立派な意志の持ち主だったからではない。血縁なく育ててきた子の存在と、また血縁がありながらもそれに気づかず別れて暮らしていた子の存在。両者の登場によってである。さらには、まわりの環境も大きく影響した。

難しい言い方をすれば、他者の到来が主人公に責任(responsibility)を促したのだ。

仏教は責任の宗教

責任は「引き受ける」ところに始まる。そんなふうに考えると、宗教とはそもそも責任(responsibility)の問題を取り扱っているともいえる。自分を受け入れる歩みでもあるからだ。

さらにいえば、仏教は責任(responsibility)との相性が極めていい。というのも仏教は「becoming(生成変化)」を説く宗教だからだ。仏教とは私が仏になる歩み(becomingの歩み)である。大乗仏教では、修行者は困っている人を見て、菩薩や仏へと「becoming(生成変化)」せざるを得なかった。他者の登場が「仏になる」ことを促すのである。

繰り返しになるが、現在使われている責任は「個人に押し付ける罰」(あとは知らんぷり)という、かなり冷酷なものだ。責任の原初のかたちを留めていない。

こうした責任論を個々に押し付けた先に、どんな豊かな社会はあるのだろうか。

テラエナジーを起業し、責任(responsibility)を強く意識するようになった。

テラエナジーの理念の根っこには、他者の到来による自己変容がある。他者と出会うことによって、それに応えようとする者へとつくり変えられるというものだ。気候危機に取り組むことも、「ほっと資産」を通じてよりよい社会を目指すのも、他者の登場なしには成しえない。

そんなふうに責任を読み説くことによって、活動する意欲はより向上する。これからも責任(responsibility)を大切に、事業に取り組んでゆきたい。

本多 真成(ほんだ しんじょう)
1979年生まれ。大阪八尾市の恵光寺住職(浄土真宗本願寺派)。龍谷大学大学院を修了し、私立大学の客員教授をつとめる。院生時代は「環境問題と仏教」の思想史研究。専門は宗教学。TERAEnergy取締役。

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