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「生きること」についてまじめに語ってみた

この相談室は、僧侶で、自死相談のNPO代表であり、テラエナジーの社長であるぼく(竹本)が、皆さまの些細な悩みや、誰にも言えないような苦しみにおこたえできればと思っています。

というのも、ぼく自身、かなりこじらせながら、道に迷い続けてきました。そんなこじらせ系の先輩として、考えてきたことや救われた経験のサンプルをもとに、皆さまの苦悩が少しでも和らぐような、モノの見方や考え方をお話できれば!と願っています。

とはいえ、何者か分からぬ人に相談はしにくいと思いますので、初回の今回は、ぼくがいま考えていることや思っていることを書いてみます。ぼくが長いこと患ってきた「生きる意味病」やこれまでの経験を言ってみたり、小難しいことを言ってみたりしているので、こじらせてる一端が垣間見えるかと思います(笑)。今回は自分語りなので、である調で書きました。

「生きる意味」を考える状態は不幸なのか?

小3の頃から「生きる意味とは何だろう」と考えるようになっていた。特に夜、湯船に使ってフーと息を吐いた後は、悶々とする時間だ。グルグルと頭の中で自問自答が始まり妄想にふける。

どうしてイジメられるのだろう、、、なんでみんな酷いことを言うんだろう、、、こんなイヤな思いをしてまで何で生きるんだろう、、、生きるって何だろう、、、そもそも人間って何だろう、、、こんなイヤなことがあるこの世界って何だろう、、、世界の果ての果てはどうなっているんだろう、、、極小の世界ってどうなっているんだろう、、、原子と電子って太陽系に似ている、この電子にも地球と同じように人が住んでるのかな、、、そこに自分と同じようにイジメられてる極小の子どもがいるんじゃないかな、、、

この頃から、ぼくは生きる意味に憑りつかれる様になった。この様な症状を「生きる意味病」と名付けたいと思う。

生きる意味病はなかなかにやっかいだ。これを患うと、小さな挫折をする度、ちょっとした誰かの悪意を感じる度、生きる意味を考えてしまう。考えたくて考えるのではない。ふと気付けば考えてしまっているのだ。反対に、誰かから優しくされたり、望外の出来事が起こったとしても、受け入れる事ができず「自分なんかに相応しくない」と思ってしまう。

生きる意味病の根底には、自分自身が今ここに居ることへの違和感や苦しみがある。だからこそ「どうしてここに居なければならないのか」という問い、生きる意味が生じる。この状態は、いわゆる「幸せ」とは言えないだろう。しかし、ぼく自身の40年余りの人生を振り替える時、辛いけれども決して悪くない状態だったと思うのだ。それどころか、生きる意味を考え続けてきたことが、実は幸せへの近道なのではないかとさえ考えるようになっている。

「幸せ」って?

幸せへの近道と言ったが、そもそも「幸せ」とは何だろう?

幸せについては幸福論という領域がある程、取り上げるべき沢山のトピックがあるので、ここでは暫定的に直感に頼って考えてみる。(※機会があれば丁寧に掘り下げて書いてみたい。)

一般的に「幸せ=欲望が満たされた状態」の事であるように思う。美味しいものを食べて「あ~、しあわせ!」というあの感覚だ。湯船に浸かって「極楽、極楽♨」でもいい。ずいぶんと昔、チャーミーグリーンのテレビCMで、年齢を重ねた夫婦が手をつないで歩く姿(10代以下の方には何のことやら分からないと思うので興味があればぜひ動画をみて欲しい)には、当時の幸せが象徴的に描かれていた。近年はどういう姿が幸せなのだろう。あり方が多様化する中で、もしかすると集約できるような幸せの形はないのかもしれない。

別の角度から考えてみたい。言葉の由来から「幸せ」を紐解くと、室町時代に「しあわせる(為る+あわせる)」という語が「めぐりあわせ」という意味で作られたようだ。この語源から考えると、幸せとは、いまここに在ることが様々な縁によって生じているという事実を表現する言葉と言えそうだ。さらに解釈を広げるならば、多様なつながりによって自分自身が在る事を実感できる状態を幸せと言うのかもしれない。

先の「欲望が満たされた状態」は確かに幸せと言えるかもしれないが、継続しないという意味では、幸せではない状態に陥る前兆とも言える。湯船に浸かりすぎればのぼせるし、しばらくすればお腹は減るし、良い関係にも必ず別れはやってくる。そう考えた時、欲望を満たすことを中心に考えていたのでは、いつまでたっても末通る幸せはやってこない。

それに対して、後の「多様なつながりによって自分自身が在る事を実感できる状態」は、いついかなる時でも継続していくことができそうだ。むしろ、広がりや深まりによって、より幸せな状態が補強されて行くようにさえ思える。

「生きる意味」思考のススメ

生きる意味を考える事が幸せへの近道だと考えるのは、自分の存在を主観的にも客観的にも突き詰めて考える機会となり、それが「多様なつながりによって自分自身が在る事を実感できる状態」へとつながるとの実感があるからだ。もしもその感覚を持つことができたならば、その感覚は生きる上での軸となり得る。そして、いつかやってくる危機的な状況に陥った時、すでに得ているその軸によって何とかいなすことができると思うのだ。

もしかすると一生涯、生きる意味を考えなくて良いほど、居心地よく過ごせる人生もあるのかもしれない。しかし、ほとんどの人生がどこかで生きる意味を問わなければならないほどの状況にぶち当たるだろう。特に「誰か/何か」を喪失した時、まさにその状況になり易い。大切な誰かを失った時、健康・財産・名誉を失った時、どうして生きているんだろう、何のために生きるのだろうと問わずにはいられない。そうした意味で、小3という早い時期に生きる意味病を患い、考え続ける機会を得たことは、有難いことだったと感じている。

みなさんもぜひ「生きる意味」について考えてみてはどうだろうか?生きる意味病を長く患った者として、考えるポイントをお伝えしておきたい。

人生の悩み、大募集!

いやー、小難しいことを書き過ぎた…。こんなんじゃ相談したい!って思われないや…と自覚しながらも、書きたくなっちゃい、書かずにはおれなかったので、もう書いちゃいました(笑)。

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竹本 了悟(たけもと りょうご)
奈良県西照寺住職。生きる意味を求め、防衛大学校を卒業後、海上自衛隊に入隊するが、道に迷い退官。改めて、生きる意味を求め、龍谷大学大学院で救済論(救いとは何か、どうすれば救われるか)について研究。その際に浄土真宗本願寺派の僧侶となる。その後、浄土真宗本願寺派総合研究所の研究員として、宗教者の役割をテーマとして実践的に研究し、2010年に「自死の苦悩を抱える方の心の居場所づくり」をする京都自死・自殺相談センター(愛称:Sotto)を設立、代表を務めている。2018年、研究所を退職、電力事業で「温かなつながりをつむぐ」TERA Energy株式会社を4人の僧侶で起業、代表取締役に就任。

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