見出し画像

宇宙人をインクルーディングしよう(差別問題の入り口に立つために)

差別の意図はないから、インプリケーション(暗示)の禁止を引き受けはしない。それは差別の解消なのか。

医師の岩田健太郎先生が、「黒塗り」についての記事を書いていたので、飛びついて読んだ。

岩田先生は、イギリスへの留学経験、アメリカでの研修経験がおありで、一般的な日本人よりも、差別問題について、より実感を持って、この「黒塗り」について、語っています。

今までと見てきたものとは違った語り口でした。

http://blogos.com/article/272100/

ダウンタウン浜田雅功が、正月番組の中で、黒塗りをして登場した問題は、2017年年末から話題になりました。

https://twitter.com/gakitsukatter/status/947401162721968129/photo/1


twitterや、各種報道を見る限り、「差別的な意図はないから、差別ではない」派、と「意図は関係なく、被差別者が差別と訴えているのだから、それは差別である」派の対立になっていました。

一向に解決を見ないまま、フェードアウトしていきそうな雰囲気でしたが、ほぼ忘れかけていたところで、この岩田先生の記事を見て、またこの「黒塗り問題」について再考してみました。


岩田先生の主張を概略すると、以下のようになります。

①エイズ患者への対応のように、差別問題が起きた初期は、プライバシーの保護を含め、外部から「隠蔽」することによる保護が必要だ

②その次の段階として、科学的根拠に基づき、徐々に被差別者と「されている」人たちを、社会にインクルーディングしていくことが差別の解決につながる

③②のように解決を図るには、知識が必要だ。無知は、差別の深化を生む。

④今回の批判を受け、日本でも「黒塗りは、世界的には差別と捉えられる」という知識を得たが、日本人は黒塗りをタブーとすべきではない。(理由は下記⑥)

⑤ただし、差別の解消には段階があり、いきなり黒塗りがインプリケーションとされる外国に出向き、「黒塗り」に差別の意図はないと主張するのは時期尚早だ。

⑥弾圧や差別の歴史のない国においては、例えばスペインの「negro」は、差別の暗示ではなく、単純に黒を表す「形式」なのだから、タブー視されなくてよい。

⑦ 差別のインプリケーション(暗示、裏の意味)は、広げるのではなく、無くす方向にもっていくのがあるべき姿

⑧インプリケーションを含まない、ただの形式を見て「不愉快に思う人がいたら」、差別の暗示ではないのだと説明すればよい。差別表現は、個別に批判すればよい。

⑨我々の子孫が黒い顔を見てもなにも差別の観念を持たないような社会を目指すこと。白塗りはいいけど、黒塗りはだめ。「黒」と口にしてはダメ、という社会を乗り越えることこそが、差別を乗り越えるゴールである。(原文ママ)

⑩過去の解説や現状説明で本件を取り扱ってはならない。未来へのビジョンこそが必要なのである。(原文ママ)

以上が、岩田先生の主張です。

この文章を見て、みなさんはどう感じましたか?

僕は、最初読んだ時は、なるほどな、と、納得しかけたのですが、考えるほどにおかしな点に気づきました。

僕が、受けいれそうになったのは、岩田先生の主張が、我々日本人が、差別問題について、なんら関わりを持たずにいることへの言い訳、自分を納得させるために適した論理だからだ、と思いました。

問題の外側にいる日本人だからこそ、マジョリティだからこそ口にしてしまえる論理です。

危うく、自分の心の中の「差別問題」のページを閉じそうになってしまったのです。

現実に横たわっている差別という問題を、「フィクション」として閉じ込めるには、実によくできた論理です。

岩田先生の主張を考察する

以下、2つの点において、私は岩田先生の考えに、違和感を感じました。

①「笑い」の構造という視点から考えたときに、今回の「浜田の黒塗り」は、ただの形式であって「差別を含んでいない」と言える事例なのか

②「差別の観念を持たない社会」が到来する現実性と、その社会が本当に差別を「乗り越えた」と言えるのか

①浜田の黒塗りは、「差別なのか

前述したとおり、浜田が黒塗りで登場しました。ビバリーヒルズコップに出演した時の、エディマーフィーに扮していました。

みなさん、これを見て、笑いましたか?タイムリーにテレビを見ていなかった人も、SNS、ニュース記事などで、この浜田を見たとき、どうだったでしょうか。

私は正直、そのビジュアルについては笑ってしまいました。単純に、見た目がおもしろいかったんです。形式的に、例えば「変顔」をみるような印象です。

みなさんは、笑えましたか?どうでしょうか。

おそらく笑わなかった人は、黒人の差別について理解している方、友人に黒人がいる方、そして自分自身が黒人だという方ではないでしょうか。

そして、大多数の日本人が、声を上げて笑っていたのだと予想しています。

過去を振り返ってみると、これまで、ダウンタウンの番組では、数々、黒人が登場しています。(僕は、ダウンタウンフリークです。)

数年前の「笑ってはいけない」では、「黒人の住職」が、客として現れた浜田らガキ使メンバに、「いやーあちゅかったでしょ」とカタコトの日本語で話しかけたり、ガキ使七変化では、ボブサップが、「また飲んでもた」と二日酔いのサラリーマンを演じて、笑いをとっていました。


そして、黒人だけではなく、白人もよく登場して、カタコトの日本語をしゃべっています。

なぜ笑ってしまうのか、僕なりに解説してみると、「ギャップによる笑い」なんです。

「赤ちゃんが、大人の言葉をしゃべる」という「ザ・ボスベイビー」という映画が去年公開されていますね。

赤ちゃんが、おっさんの仕草をすると、面白いという発想です。

こういう現実とのギャップが激しい風景や、所作を見て、人間は笑ってしまうんです。

これまで、「黒人」を重用してきたダウンタウン。なぜ、黒人を出演させると、日本では笑い=ギャップが生じるのでしょうか。

排他的な社会「日本」が生み出すギャップ

日本において「黒人」や「白人」がテレビに登場するというのは、「宇宙人」が現れて、我々に身近な「関西弁」等をしゃべってる時の滑稽さ、と同じ感覚なんです。

これは、あくまでも僕自身が日本で生きてきた中での実感、感覚です。

外資系企業に勤めていたり、外国の方と交流がある方からしたら、失礼なやつだ、と思われるかもしれません。

ただ、これが、僕を含む、これまでの日本人の一般的な感覚だったと思うのです。

黒人の友達がいる日本人が、どれだけいるでしょうか。おそらく、大多数の日本人が、外国の人々と関わりなく生きています。

「差別がない」のではなくて、日本という社会自体が排他的に構築されているため、「差別が発生せず、黒人への差別問題がないように見えるのではないでしょうか。

排他的である例をあげると、日本では、難民の受け入れを、積極的に進めていません。2016年の受け入れ実績は26人でした。(申請は10,901人!)

こういった背景から、日本国内にはたくさんの外国人は住んでいますが、我々は「ガイジン」として接しており、それは「日本に一緒に住む住人」としての実感からはかけ離れています。

お客様のような対応をし、知らぬ存ぜぬ、触れぬが仏。

一方、永住権を持つはずの在日朝鮮人には、驚くほどの差別意識があります。日本に根付いている他の民族に関しては、自分たちを脅かすというストーリーを作り上げ、徹底した差別行動を、行い、ヘイトスピーチが行われています。

それなのに、白人、黒人に対する排斥活動はまったくありません。

そういう白人、黒人に対する「宇宙人的扱い」がギャップとなり、笑いを生み出している、というのが私の考える、笑いの構造です。

浜田の黒塗りは、日本の差別的構造の外延

前述したように、直接的な差別ではないけれど、日本人が白人黒人に対して持っている「宇宙人扱い」とも言える距離感が、そのまま素朴に提示されたのが、黒塗りの浜田、なんだと思います。

差別の意図はないのでしょう。しかし、僕はそこに「幼児的な残酷さ」を感じました。

子供が虫の足を引きちぎってしまうような、無知による残酷さ、です。

岩田先生は、「差別の深化」が起こらないためには、知識が必要だと主張されており、これには私も同意します。

多くの移民を抱える欧米諸国や、アメリカの右傾化がとりだたされています。移民受け入れに際して起こる恐怖や、労働問題に関する反発など、現地民としての心情は、理解もできるものです。

そのような外圧のない日本が、なぜ右傾化してるのでしょう。

この差別に対する知識という点において、あまりに日本が無防備で、無作為であるため、ではないでしょうか。

一度、差別意識が巻き起これば、歯止めが効かないのではないかと、危惧しています。

岩田先生は、「我々の子孫が黒い顔を見てもなにも差別の観念を持たないような社会を目指すこと。」と言っておられます。

たとえば、子供達でコミュニティを作り、「黒人が8人、日本人が2人」だったとしましょう。

この時、黒人の子供達と、日本人の子供達には権力勾配が生まれます。

本当に、黒人の子供達に、差別の観念は、生まれないのでしょうか。

日本人と、黒人の人数比が逆だった場合、日本人の子供達に、差別の観念は生まれないのでしょうか。

トートロジーになってしまいますが、「ある特定の観念を持たないという観念」は、持つことができません。

差別をなくすのに必要なのは、誰もが差別的な観念を持たない、クリーンな社会を夢想することではなく、「差別の観念」が生まれた時に、その観念と「差別を抑制するための知識」をリンクさせるような所作を、我々が学ぶことではないのでしょうか。

適切なリンク先を持たない「差別的な観念」は、危険です。

たとえば、この観念を正当化するために、根拠のない優性論とリンクしたり、日本的な全体主義とリンクしたときに、大惨事が起きたことは、記憶に新しいでしょう。


少し話がずれました。


浜田の黒塗りは、差別か?

この問いに関しては

直接的な差別ではないが、日本自体が排他的な社会であるという構造的な差別問題を内包しており、差別に対する抑制機構を全くもたないことを示唆している

のではないでしょうか。

岩田先生の言われるように、黒塗りがただの形式であれば、おそらくギャップ=笑いは、うまれません。

黒人が、我々の社会から、程遠い存在であるからこそ、ギャップによる笑いが生まれてしまっているのです。

なので、浜田の黒塗りは、差別とまではいかなくとも、黒人の人たちへ示す距離感というインプリケーションを含んでいると言えるでしょう。

黒塗り、ではなく、黒人であることで笑いが生まれてるのです。

泥まみれで黒くなって面白くなった、とは訳が違います。

正月番組という視聴者の多いタイミングで、「素朴な認識による「黒塗り」の笑い」を提示し続けることは、被差別者を内包する、インクルーディングな社会の構築に寄与しません。

逆に、こうやって黒人に仮装しても大丈夫なんだ、という差別の種を植えつけます。

もし、今、日本に大量の黒人移民がやってきたとしたらどうでしょうか。

抑圧機構を持たない我々日本人は、どう行動するでしょうか。

日本人は、差別などしない、クリーンな民族なのでしょうか。。

他者が不快に思っても、「形式だから」と都度説明すればいいというのは、外国人に対して、「隣人」としての意識からかけ離れたものであり、インクルーディングとは真逆の発想です。

表象は、コンテクストにより、その意味を変えていきます。「形式だけの言語」というのは、言語ではありません。

他者をインクルーディングするのであれば、グローバルな世界というコンテクストに合わせて、表象のもつ意味(シニフィエ)も変容していくはずです。

被差別者とのコンセンサスもなしに、形式だから大丈夫、と言ってしまえるのは、排他的な日本、差別を受けていないマジョリティだからこそ、放ってしまう言葉だと思います。

②「差別の観念を持たない社会」が到来する現実性と、それで差別を「乗り越えた」と言えるのか

岩田先生が提示した、「差別の観念を持たない社会」は、もしかしたら、将来的に到来するのかもしれません。

それはおそらく、遠い遠い未来の話です。

世界中で、差別問題が噴出し、紛争は止む気配を見せていません。さらに、有効な解決策を、見出せていないのが現状です。

そのなかで、「差別の観念を持たない社会」というユートピアを目標とするのは、時期尚早の、絵空事ではないでしょうか。

また、僕にはどうしても、この「差別の観念がない社会」というのが、新たな差別を生み出してしまうような、気がしてならないのです。

「差別のない社会」ではなく、「差別を起こさない社会」を作ることが必要なのではないでしょうか。

人間は弱い生き物です。

何かと自分を比較して、価値を見出さないと生きていけない生き物です。

そこで利用されてきたのが「差別」です。

もし人間が自分の弱さに負けて、差別をしそうになった時、それを乗り越えるのは「差別のもたらした被害という証拠」であると思うのです。

プレイスホルダーとしての、インプリケーションの禁止

プレイスホルダーという考え方があります。

直訳すると「場所を確保しておくもの」という意味ですが、たとえば「100」という数字のゼロを見てください。

このゼロは、数値ではないですが、このゼロがあることで、「100」という数字が表現できます。

「ない」ということを示す、何かが、時には有用なのです。

黒人差別を含め、これまでの被差別の歴史は、プレイスホルダーとなり、「差別のない社会」を支えていると思います。

大きな犠牲を払いながら、少しずつ、世界は前進してきたのです。

教育、社会制度、法律の中には、これまでの差別の歴史があり、社会の根幹となっています。
そうやって、人々が紡いできた社会の上に、我々は立っています。

たとえ、今が息苦しい世界になろうとも、私は、暗示=インプリケーションの禁止は引き受けるべきだろうと思います。

グローバル社会という新たなコンテクストにおいて、我々の社会を再構築し、次の世代への礎を作っていくべきだと思います。

インプリケーションの禁止を、「明示すること」が、文化に組み込まれ、それがプレイスホルダーとして、差別を抑制する役割を果たしてくれると思うのです。

手垢のついてない未来など存在しない

岩田先生の主張は

「過去の解説や現状説明で本件を取り扱ってはならない。未来へのビジョンこそが必要なのである。」

と締め括られています。

未来へのビジョンは、必要です。

ただ、現状の積み重ねが、過去となり、それが未来への礎となるのであって、現状を無視して未来を語ることは、単なる夢想であり、夢想している限り、「差別のない未来」など、作りようがないと思います。

現状の理解なしに、グロースはありません。

自分の中で「宇宙人」となっているものを、現実世界にインクルードしてみませんか?

差別解消の一歩は、そこからです。

あなたが差別の解消を本当に望むのなら。

#差別問題
#黒塗り
#エッセイ
#コラム


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?