測る
道徳が、教科になる、ということに対して、記事を前に書いたことがある
明確な、反対意見だ
子供達にテストを課して、定量的に能力を、測定する
僕は、それ自体を批判したいわけではない
逆に、定量的に物事を評価するということが、文明を推し進めてきた、とも思う
実務、ではそういうことも必要だ
ただ、「道徳」に対して、そういう定量化のメソッドがうまくいくか、というと、そうではないというのが、ぼくの主張だ
むしろ、逆だ
それを、道徳、と言って、いいのかわからないが、他者とコミュニケーションする、ということは、自分の「ものさし」を、いかに壊すか、ということであると、僕が思っている
自分はこういう物差しを持っている、ということは、必要だ
はじめはパターナリズムかもしれない
親の洗脳かもしれない
国の押し付けかもしれない
処世術かもしれない
親や、国や、友達や、気候や、子供や、食べ物や、服装や、音楽が、それを形作っていく
それが、「個性」だと思う
だが、その狭量な(人は往々にして、ユニークな環境に育っている)、物差しだけを持って、人を裁く、ということは、僕にはできない
僕は、僕のことしか知らない
朝起きて、寝てる妻の顔をまじまじと見て
「あぁ、これが僕の子供を産んでくれた人なんだ」と、まじまじと見つめていることがある
あぁ、この人がぼくの親なのかとはっとおもうことがある
脳のリフレッシュ機能なのか、腸内フローラか、昨日食べたスパイスの効いたアジアン料理のせいなのかとしれない
時に、はっとする
いくら身近な人であっても、肉親であっても、その断絶は、絶対的、もなや絶望的に、人間というものを、分かつ
逆に、僕は物差しを、持っていないこと、いや、持っていてもそれを主張しないことで、個性がないとか、何を考えているかわからない、とか、髪を切れとか、関西人なのに面白けくないとか(それは関係ないか)、色々言われてきた
でも
僕は、君が愛しくてしかたがない
となりでスマホをいじってる人、酒を飲みすぎて千鳥足の上司、浮気性で非常識な友人、主張が強い人、逆に主張せず、周りに合わせてしまう人
ほんと、愛おしくてしかたがない
はい、酔っ払ってますよ
でも、ぼくはあなたの家族や、恋人とつないでる右手や、好きなロックミュージシャンや、おろしたての白シャツや、何度も読み直した手垢だらけの文庫本や、おばあちゃんの形見の時計や、仕事の愚痴や、行きつけのコーヒーチェーンや、いつと食べるコンビニスイーツや、はずしたコンタクトレンズを洗面所に置いておくクセや、嘘がつけないことや、嘘をついてもすぐバレることや、衝動買いすることや、言いたいことを言えないことや、すこし自分勝手なことや、意外に占いや神さまを信じていること
その、ちがいが、愛おしくてしかたがない
え、そんな風に考えるの?
そんなこと感じるの?
違いがないと、おんなじこと考えてたら、コミュニケーションする意味がない
そんなことを、道すがら考えながら、ほろ酔いで帰ってるサラリーマンを、みんな愛してくれませんか
はい、酔っ払ってます
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