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「寺田有希」です。

はじめまして。
ベンチャー女優の寺田有希と申します。

芸能生活19年目。
自らを「ベンチャー女優」と名付け、現在はフリーランスで女優・タレント・MC・歌手・最近ではオンラインコミュニティの運営など、幅広く活動をしております。

2004年、15歳で芸能界デビュー。
2012年、事務所を退所し独立。
フリーランスとして活動をはじめ、それから事務所に所属することなく11年が経過。
現在に至ります。

「ベンチャー女優」という肩書きに込めた意味

ここでまず、なぜ「ベンチャー」女優と名乗ることにしたのか。
肩書きの意味が気になることでしょう!

わたしが「ベンチャー女優」と名乗り始めた理由、それは……

” 語呂がいいから ”
” 目立つから ”

……そうなんです。
特に深い意味はないのです(笑)

わたしがこの肩書きを名乗り始めたのが、8.9年前。「ベンチャー企業」というワードが、すごく流行っていた時代でした。

「ベンチャー企業」というワードに、「時代を切り開く」「時代の先駆者」などというイメージを持たれていた方も多いのではないでしょうか? わたしもそんな一人でした。

そんなベンチャーが持つ意味は、わたしが置かれた状況とマッチしていました。

・フリーランスで活動を始めたこと
・まだまだフリーランスの働き方が認知、容認されていなかったこと
・フリーランスで女優など無理だと言われていたこと

こんな逆境の中でのチャレンジだったので、「自分とすごく相性がいいワードかもしれないなあ」と思ったことを覚えています。

でも、理由はたったそれだけ。

ベンチャー女優と名乗ってどんな仕事につなげていくか、何を強みに戦っていくかなど、戦略なんてどこにもありませんでした。11年前フリーランスになった当初、自分の手の中には何もなかったのです。

仕事もない。
戦略もない。
人脈もない。
あったのは、自分の身一つだけ。

そんな崖っぷちでスタートを切ったわたし。
とにかくできることはなんでもやろう! という思いから、目立つようにと付けた肩書きが「ベンチャー女優」だったのです。

” じゃあ、なぜフリーランスになったの? ”

肩書きの次は、ここが気になるかと思います。
そんなに何もない状況の中、崖っぷちに自分を追い込んでまでフリーランスになる必要などどこにもないだろうと、思われるかもしれません。

単刀直入にお伝えしましょう。
わたしがフリーランスになった理由。それは……

” 所属事務所をクビになったから ”

です(笑)
またまたパワーワード、失礼します。

すべてを失った、あの日

2004年、大手芸能事務所のオーディションを受けたことをきっかけに、わたしは芸能界デビューを果たしました。その翌年には、ヤングジャンプ制服コレクションという、当時若手女優の登竜門だった賞レースでグランプリを獲得。
のちに、NHKの朝ドラや昼ドラにも出演。

芸能界の王道を、そこそこ順調に歩いていました。

しかし、卒業が視野に入ってきた大学3年生のとき、事務所から戦力外通告を受けてしまいます。「もう売れない」と、宣告されてしまったのです。

それから1年間の猶予を経て、大学の卒業と同時に所属事務所を退所。大学生という肩書きと、事務所所属の肩書きと、給料と……。2012年3月31日にこれら全てを一気に失うことになったのです。

所属事務所も探してはみたものの、どこにも引っかかることはありませんでした。

そして2012年4月1日。
無情にも、わたしのフリーランス生活が幕を切ったのです。

先に言っておきますが、わたしは当時所属していた事務所に心から感謝しています。
「クビ」という手段を選んで下さったこと、寺田有希の人生としっかりと向き合って下さったこと、目を見て真っ直ぐ伝えて下さったこと。
とにかく愛を感じています。

そして、何より。
それほど大きな出来事がなければ、自分は変われなかったなって。
あの時のまま大人にならなくて、よかったな自分って。

本気でそう思うんですよね。

だから、感謝してもしきれないほどに、感謝してるんです。

当時、すごく恵まれた環境にいたと思います。
マネージャーさんはわたしのことを売ろうと必死に動いて下さいましたし、レッスンなどにも積極的に参加させてくれました。

でも、なんだかね。
聞けなかったんですよ。

「有希ちゃんにはこういうことが向いていると思うよ」
「こういう仕事もやってみたら?」
「こういう仕事を頑張った先に、女優として輝ける日が来るよ」

という、大人たちのありがたき言葉たちを。

当時、グラビアのお仕事をもらうことが多かったんです。制服コレクションのグランプリを獲得したからなおさら。でもわたしは、グラビアはやりたくないと思っていました。

女優になりたいという夢を語るほど、他のお仕事が舞い込んでくる現実……
今思えば、与えられた仕事を必死にやっておくべきだったなと思います。

当時の芸能界のやり方や流行りを考えても、絶対にその方がよかった。必死にグラビアやバラエティと向き合ったその先に、女優としての世界が広がっていたように思うから。

でも当時は、「夢が叶うという未来」と「夢とは違うことをやっている現実」が、まさか地続きだなんて。

信じることができなかったんですよね。

女優になりたいなら、芝居をやるべきだ。
そう思い続け、頑なになりつづけた結果、いただけていたはずのお仕事も段々と減っていき、最終的には戦力外通告へと、つながってしまったのでした。

配りまくったプロフィール

それから11年間。
とにかく必死でした。

自分でプロフィールを作り、それを100均で買ったクリアファイルに入れて持ち歩く。業界の人はもちろんのこと、自分に興味を示してくれる人に渡しまくっては、地道な営業をする日々。会う人会う人に「フリーランスになったんです。仕事ありませんか?」って、言いまくってたっけな。

わたしがフリーランスになったのは2012年。
当時を想像してみてほしいのですが、まだまだ業界的にもテレビの勢いが衰えていないときでした。芸能人がYouTubeをするなんてもってのほか。YouTube? 何それ? おいしいの? くらいの印象だったと思います。

テレビが正義。事務所に入らなくては活動できない。
独立や多様性、個々の発信とはほど遠い時代だったのです。

今思えば、そんな時代に泥臭い営業なんて意味なかったかな? とも思いますし、タレントが頭を下げて仕事を取ってくるなんて、むしろ逆効果だったかもしれません。

しかし、SNSも今ほど盛んではなかった時代。
泥臭い営業しか思いつきもせず、若さと無知を武器に、当たって砕けまくっていたのです。

すると本当に少しづつではありますが、お仕事をいただけるようになりました。

もちろん単価は安い。
業界的にすごいと言われるようなお仕事でもない。
それでも「フリーランス女優寺田有希」として大きな一歩でした。

そんな日々を過ごしてやっとこさ、わたしは気づいたんですよね。

1万円稼ぐことが、どれだけ尊く大変なことかっていうこと。
今までの環境がいかに恵まれていたかということ。
支えてくれている人がいたからこそ、わたしには仕事があったのだということに。

事務所に所属していた当時。
どこかで、仕事がある状況を当たり前と思ってしまっていた気がします。仕事ってもんは、尽きることがない。一つダメでも、また他がある。
デビューしてすぐに、お仕事をもらえてしまったからですかね。
努力の末、鍛錬の先に、やっとお仕事が繋がっていくのだということが理解できてなかったのです。お恥ずかしながら(汗)

若い頃に持ちつづけていた自信には、根拠も中身もなかった。

フリーランスとして営業すればするほど、現場に行けば行くほど、お仕事に対する金額を提示されればされるほど、自分の実力を思い知った。自分の実力はスカスカだということに、気づかされていったのでした。

自分の自信に、根拠を持ちたい。
寺田有希に仕事を頼みたい!と、思われる人になりたい。

そんなことを強く思いながら、フリーランスとして活動をつづけてきました。

自分の足で歩く

2020年には、そんな今までの人生経験やら、思いやらをこれでもかと詰め込み、独自のコミュニケーション術について語った本を出すことができました。
自身初となる書籍『対峙力』です。

これがなんと、初書籍にしては異例らしい18,000部を達成できたのです!

『等身大の言葉が刺さった』
『自分もがんばらなくてはと、背中を押してもらえた』
『若いころの自分に読ませてあげたくなった』

など、嬉しい感想もたくさんいただくことができました。
この経験が、すごく大きかった。

もちろん記録できた数字も、すごく誇らしかったです。
でも数字以上に、” わたしが綴った言葉が、誰かの人生の背中を押せたかもしれないんだなあ…… “ と。そう思えたことが、本当に大きかった。

ああ、わたしのやってきたことは間違いではなかったのかもしれない。
少しは、自信に根拠をつけることができたのかもしれない。
スカスカだった実力の果実に、少しは実が詰まったのかもしれない、と。

自分の人生にほんの少しだけ。
自分自身で作り上げた自信を、感じることができた気がしました。

それからさらに月日が経ち、今年は2023年。
わたしも、34歳になります。

35歳を目前に控え、人間としてもっと大きくならなければと強く感じる今日この頃です。

もっと自分の足で立ちたい。
もっと自分の足で歩きたい。

そんな願望を強く抱くようになりました。
そしてわたしは、一つ大きな決断をくだしたのです。

フリーランスになってすぐ、まだまだお仕事がなかった時代。
2013年からアシスタントをさせていただいている「ホリエモンチャンネル」を卒業することにしました。

「ホリエモンチャンネル」のMCをやらせてもらえたからこそ、色んな仕事をもらえました。特別な景色を見ることができました。自分自身を成長させることができました。

本当に、手を差し伸べてくださった堀江貴文さんには感謝してもしきれません。

しかしながら、感謝するのと同じくらい、その存在の偉大さ、ネームバリューの強さに圧倒されることも多かったのです。

「堀江貴文の隣の人」
どこに行っても、その印象から逃れることはできないようになっていました。

もちろん、そんな人生もわたしの大事な人生です。
悔やんでいることはありません。

しかしながら、ずっとこのままではダメだとも思いました。もっと自分の足で立ちたいのであれば、自分の足で歩きたいのであれば、自分の実力に自信を持ちたいのであれば、まずは「堀江貴文の隣の人」を卒業する必要があるんだと思ったのです。

等身大の言葉を残していきたい

そして今日。
わたしは気持ち新たに、noteに投稿しています。

一人の人間、「寺田有希」として。

『対峙力』を出して、
言葉が持つパワーの大きさを知った。
自分の考えや経験を、表現し発信する尊さを知った。
誰かの背中を押せる、素晴らしさを知った。

だから今、
自分が歩んできた人生を、改めて言葉にしていきたいと思った。
感じていること、考えていることを、書き留めておきたいと思った。
これからも誰かの人生に関われたら、幸せだなと思った。

事務所からクビを言い渡されたこと。
不安しかない中、フリーランス生活の幕を切ったこと。
それが、時代的に早すぎたこと。
クリアファイルを片手に、泥臭い営業活動を続けていたこと。
1万円稼ぐことの難しさを知ったあの日のこと。

わたしにしか歩むことができなかった人生を糧に、これからは「寺田有希」としての言葉を残していきたいなと思っています。

別にわたしは、大きな功績を残したわけでも、ビジネスを成功させたわけでもありません。
俗に言う「すごい人」とはまったく違うし、自分自身のことがすごいだなんて、まったく思っておりません。

だからこそ、学びになるようなお話はできません。
こんなことを断言するなんて、とてもおかしいとは思ってるんですけどね。でも、断言しておきますね(笑)

その代わりと言ってはなんですが、素直で等身大の言葉を綴っていきます。それが『対峙力』の時と同じように、誰かの背中を押せると信じて。

さてさて。
これからわたしには、どんな人生が待ち受けているんでしょうかね。ドキドキしながらも、ワクワクしていたりします。

昔はチャレンジとか、環境が変わることとか、それこそ人生の帰路とか、すごく怖かったんです。でも今は、少し楽しみにしている自分がいたりするもんで。

これからの寺田有希が綴る、これからの寺田有希によるnote。
共に歩んでいただけたら、幸いです。

2023.1.12 寺田有希



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