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死にたくないから、書く

世の中、いますぐ死にたい人と、ずっと生きていたい人ばかりだ。
僕は断然、ずっと生きていたい派の人間で、子どもの頃から先のことばかり考える子供だった。
死んだらどうなるんだろうと考えて、眠れなくなることもあった。
森美登美彦「ペンギン・ハイウェイ」の少年が死んだらどうなるか不安で夜ねむれなくなる描写があったが、まさにあんな感じだった。


僕が子供だった頃、大人にそういった質問をすると、人間死んだらおしまい、何も残らない、という答えしか返ってこなかった。
何もないとか、つらいし、怖い。どうにかして避けたい。
死なないためにはどうするか。
僕はそんな中二病みたいなことをずっと真剣に考えてきた。


中学生の頃、ドラマか映画で、『人は二度死ぬ』という台詞があった。
一度目は、肉体が死んだとき。
二度目は、生きてる人に自分のことが忘れられたとき、
だそうだ。

単純に肉体が死なない方法があれば一番いいのだけれど、秦の始皇帝の時代から人は不老不死を夢みてきた。
医療の進歩により、だいぶ長生きができるようになったけれど、僕らが生きているうちに不老不死になるのは無理そうだ。できるだけ長生きする方法はわかってきている。



となれば、僕らは二度目の死を避けるしかない。

一番簡単な方法は、家族を作ることだ。
自分に子供がいれば、死んだあとも自分のことを覚えていてくれるだろう。
けれど、自分の子供が結婚しないという選択をしたらそこで子孫は途絶えてしまう。早ければ数十年で自分のことを覚えている人はこの世からいなくなってしまうだろう。


それでは、ずっと生きたいという願いは叶わない。
死んだあとも、自分のことを覚えておいてもらうために、僕らは子供の他に残せるものを考えなくてはならない。

進化生物学者のリチャード・ドーキンスは文化的遺伝子(ミーム)という概念を提唱している。
人類は血の繋がりがなくとも文化的なものを後世に残すことができ、それらの蓄積によってどんどん便利な生活を享受できるようになっているという考え方だ。
この考え方によれば、ガラケーではなくiPhoneを選ぶといった日々の選択ですら、進化論的には文化の淘汰や継承に影響している。
つまり、なんとなく生きているだけで、僕らは文化的な側面で自分の生きた証を常に残していることになるのだ。


そうかあ、安心した。
素直で献身的な人間ならば、ここらで安心して眠りにつけるかもしれないが、僕のようにエゴにまみれの人間はこれでは納得できない。
個人として何ができるかという答えがほしい。

日本の偉人、内村鑑三の「後世への最大遺物」という本には、個人が死んだあとに残せるものが具体的に書かれている。

彼によれば、人間が後世に残せるものは事業や思想だという。
事業とは、橋をつくったり(公共事業)、三菱商事みたいな何世代にも渡って残る会社をつくることを意味している。
ほとんどの人は会社をつくる資金もなければ、成功するアイデアも持ち合わせていないからこれは難しい。


個人にできる一番簡単な方法は、思想を残すことだと思う。
自分の考えを書籍などにして次の世代に伝えることができれば、僕らは死んだあとも生きていられる。
文字は人類が発明した一番耐久性の高い伝達手段だ。
夏目漱石の作品が本屋に並んでいるのを見ると、没後100年以上経っているのに、いまだ現役のように見えるではないか。
「源氏物語」を書いた紫式部なんて1000年経っても世界中の人に覚えられている。

思想と言えるほど大それたものでなくてもいい。
土佐日記や徒然草なんて大昔の日記だ。何かを書いて残すことは誰でもできる。
そうだ、何か書こう!死にたくない、ずっと生きたい。そう思っている人は何か書くしかない。



そんなこと言っても、いま残っているのは漱石みたいな有名な作家だからだ、と思う人もいると思う。
そんな人には佐々木中の「切りとれ、あの祈る手を」という本を読んでもらいたい。
この本はアーティストにも人気の本で、小説を書く、絵を描く、曲を書く、何かを表現している人は大変勇気づけられると思う。

佐々木氏いわく、残らないかもしれないから書かないというのは理由にならない。
世界的な文豪ドストエフスキーが現役だった頃、かの国の識字率は1割程度だったらしい。
10人いたら1人しか字が読めない時代だ。そんな時代にドストエフスキーはあの膨大な名作を生みだしていたのだ。

人間、肉体的には必ず死ぬ。
どうせ死ぬなら数パーセントの可能性に賭けてみる方が面白い。

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