見出し画像

北の果ての鉱山開発(終戦直後4)

目次

  1. 電線とヤギの乳

  2. 除雪と鰊のこと

  3. 戦後の終わり

電線とヤギの乳

 戦後の乱れた時代、鉱山では治安係を設けて駐在さん、職組、労組の認定を得て鉱山内の自主的な治安維持に当たらせていた。

 ある日、一人の治安係が聞き込んできた話は、次のようなものであった。
「数日前にペンケの請負業者の親爺が、電話で、「何メーター物何本、何メーター物何本」とパンケ側の人間に話していたのを聞いた人がいるとの事。

 それまで、何度も電線を切り取られていたので、これはてっきり、その連中に相違ないと思った。
 もう余り仕事にあり付けなくなったいた、その労請負師を係の註所に呼びつけた。

 こちらの問に倒し、アル中気味のオヤジは、電線ドロは頑強に否定した。
「お前さんは電線なんか知らないと言うが、長さと本数を言うのは電線でなくて何だ」と怒鳴りつけた所、オヤジは意外な事を口走った。

「みちび(導火線)だ」と言った。

 これは大変な事だと、瞬間的に頭の中を走った。「そうか、それではダイは何本だ」、導火線を持ちだす以上当然の事、火薬も一緒と思わなければならない。それで、ヤマを賭けた問いかけをしたのである。

 オヤジは仕方なしにダイナマイト、雷管の本数を白状した。

 戦後、仕事にあり付けなくなって、市街地の請負師に生活費を恵まれていた。その請負師から頼まれて仕方なく、というのがオヤジの告白であった。

 市街地に急行した治安係の前に、脂ぎったその請負師は、頭をかきながら現物を差し出した。

 山奥へ行って、産卵に遡上する鮭、鱒を狙って、ダイナマイトを投げ込む禁漁が密やかに行われていたのだが、その出発前に抑える事が出来た訳である。
 盗品は戻ったが、仕事場から持ちだした会社の人間を放置する事は出来ない。その日の夕方、パンケの職員合宿に坑内夫の一人を呼び出した。
 すでに現物が回収されていた事があって、あっさりと持ち出しを認めて、寛大な処置をと涙を流した。

 一応の調査を済ませ、なぜ、あんなオヤジの話に乗ったのか、肝心な点を聞いた。彼の話は、こうであった「子供ができたが、家内の具合が悪くて乳が出なかった。困っている時にヤギを貸してくれた。おかげで子供は元気に育った。火薬の持ち出しは一番悪い事だとは知ってはいたが、どうしても断れなかった」

 そう言えば、この男が山羊を引いて歩いていたことを思い出した。あのアル中オヤジの山羊だったのである。

 一人の男の気まぐれの為に、腕前の良い、家族を愛する坑内夫を追放する事は、鉱山にとっても痛手になるわけであるが、火薬の盗み出しは、どうしても許す事は出来なかった。それくらい、火薬は危険で大切なのであった。

 山羊の乳で育った子供と、病弱の妻を連れて、その 坑内夫は頭を下げて鉱山を去った。

 自分達には手に負えない、市街地の気まぐれ男を、気持ちの中では見逃せないのに、ただ見逃すしかなかった。
 口惜しさと、追放した坑内夫家族を思い、若い治安係は詰所の電気も点けず、暗闇の中で声を上げて泣いた。

 

除雪と鰊のこと

 天塩(てしお)の春は、どうしても秋からの つながり を除いては考えられない。

 天塩の国という言葉は、いずれ無くなって行くのであろうが、この道北の土地の秋は早く訪れて、雨がよく続く。そうしている内に雪となって、秋と切れ目のない冬がやってくる。

 永い永い冬が人々の生活を、包み込んでしまう。
 灰色ではなく、本当に 白 に埋め込まれてしまうのだ。
 じっとして、静かに半年を過ごすのである。

 やがて、屋根の氷雪が物すごい振動と音を立てて滑り落ちだすと、ヤレヤレ、やっと春かと思うのである。

 その頃に、年中行事の下川駅と結ぶ軽便軌道の除雪作業が始まる。約10キロの距離であるが、坑外の職場ごとに振り分けて、一気呵成に路床を開け、列車を通す事になる。

 実施日が決まると、その日は課長以下総動員で、決められた場所まで歩き、一人50mくらいの割り当てを受けて作業に入る。
 人々は家から持参したスコップを雪に立て、一心不乱に雪をはね上げる。
 路床の両面は、うず高く雪が積み上げられて、丁度、溝の形となったところで、作業が続けられる。

 雪の間、一日二往復の馬橇が市街地との間を走っていたが、よほどの用件が無い限り、冬ごもりの生活で出掛ける事はなく、皆は軌道の開通を待っていた。

 明治時代の機関車でも、台車に屋根を付けた客車でも、世間の風に触れる貴重な足であった。それだけに、除雪は鉱山の人々の期待が、込められていた訳である。
 除雪は、楽な仕事ではなかったが、誰一人文句を言う者も無く、むしろ喜々としていたのは、そうした背景があったのである。

 朝から始まった作業は、お昼近くに大体のメドが付く。自分の持ち分が終った人は、まだの部分を手伝う。課長も次席も、この日は若い部下に頭を下げる事になる。

 赴任してきた頃の思い出に、鉱山の建設資材の運搬が優先で、自分の物はその次で、冷たい処遇だと感じた書いたが、歴史の古い事業所と違って、何もない所から、急速に鉱山を形作っていった下川では、当たり前の事と言えなくもない。
 なぜ、こんな事までと、疑問を持った人もいたかもしれないが、作業を終えて、職場に戻ると、熱い豚汁が待っていた。

 鉱山のスキー大会と除雪の日、ひと冬に二回の豚汁があったが、それがご馳走で、全てを流していったのではなかろうか。

 こうして軌道が開通すると、一番先にやってくるのは鰊だ。
 春告魚 と言われる鰊が、それこそドット道民達の食卓にのぼる。

 日本海を順次北上し、陸をめがけて群集する鰊と、訳の分からぬうちに獲れるオホーツク海の鰊とでは、味も違うが値段も違う。
 人々は好みで選ぶのだが、いずれにしても函単位で買いこむ。

 当座に食べる物は別として、米ヌカと塩を混ぜ込んだ床を作り、鰊を並べ、しっかりと樽に漬け込む。海に遠い鉱山の一年間の たんぱく源 として、こうした鰊は重要であった。
 鰊の漬け込みが終り、やがて雪が消えると、本格的な春である。

 野球のバットほどもあろうかという、蕗(フキ)や、ホーレン草より美味で、ニンニクよりも臭いの強いアイヌネギが、どの家の食卓にも上がるようになると、もう初夏なのである。
 そうした、忙しいテンポを雪の中で、無表情で通していた人々とは思えない明るい顔で、春を迎えるのであった。

戦後の終わり

 終戦の翌年、鉱山に誕生した労働組合は民主化の波に乗って、日一日と発言力を強めて行った。

 これから書こうとするのは、その組合の指導者の運命の事なのである。
 誕生の時から、見つめてきた組合の姿が変わっていく。

 まず、組合長となった久保田功氏(これからは敬称を施す)の人柄と、私の彼に対する受け止め方を、そのまま書く事とする。

 彼は、就任の当初から「高能率、高賃金」を口にしてきた。
 共産主義に影響された一部の青年層の執行部への進出を阻止し、組合は経済闘争の枠を厳守すべきだ、として政治的な動きを排除した。
 当時の言葉で言えば 民同 であった。

このような考え方は、世間の左翼的な組合の動きに批判的であった、割合多くの人達の支持を受けたのである。

 下川に入職する前、道南の上ノ国鉱山で労務係をしていた事もあって、会社機構とその動き方に対する認識は、一般の作業者とは違っていたし、炭坑に生まれ、その後、幾多の炭鉱、鉱山を流転した事によって、このような社会に生きる者の心情を、本能的に理解していたから、組合員を引き付ける力を持っていた。

 そうした事が、とかく付け焼刃の理論に走りがちであった組合指導者の中でも、地に足が付いた存在と認められもした。

 同じ会社が作った「三鉱連」の副委員長や、全国の金属鉱山労組連合会の副委員長も歴任したのは、彼の実力を物語っている。

 だが、その反面、どうしてそこまで酷くなったのか酒癖が悪く酒が入ると腕力に物をいわす、という欠点を持っていた。歯止めが利かなくなってしまうのであった。

 組合長を重ねると、こうした事が目に付いてきたし、彼の家族にも問題が出てきた。
 男まさりの母親は、その強い気性から来るのか、言動には粗野なところがあった。「組合長の母親」をカサにきていると、周りから受け取られていた。
 母親譲りの気性と、優れた体力を兼ね備えた四人の弟、これに負けない妹がいて、母親の強い支配下にあった。

 ある年の山神祭で余興の、素人角力があったが、弟の一人が出場した。
 鉱山外から来た力士との間で勝った、負けたのモメゴトが起きた。
 功はいなかったのだが、母親が先頭になって気勢を上げ、一族で相手側に暴力をふるうという事件を起こした。「久保田一家」の威力を大衆の前でさらけ出したのである。

 組合が結成されたとき、副組合長には各地のボス達を据えることで、地域的に距離があり、考え方にも違いのあった職場を纏めたのであった。

 だが、組合が実質的に動きだすと、それらのボス達は、組合活動という一面に地道さの必要な性格の仕事には、ついて行けなくなった。

 ただ鼻っ柱が強く、一言居士のウルサ型では組織的な動きは不向きであることを、久保田は知らない訳ではない。
 むしろ承知の上で抱え込み、組合結成に持ち込んだのであるが、それから先は自然の成り行きで、ボス達が自分の能力を知って、脱落して行くのを待っていた節がある。

 だから久保田は、若い層を手元に引き付け、腹心化し、彼らに地道な仕事を委ねるようなやり方で、一歩一歩組合の土台を固めて行った。

 鉱山の職場の端から端は14キロもあり、そこに働く人は各方面からの寄せ集めであったから、これを組織化した事は、いくら組合結成が流行していた時代とは言え、彼の組織者としての力量は評価に値する。

 しかしながら、彼の気持ちの中で、それを意識し始めた頃から、次第にワンマン化の道へ進み出した。
 自分は鉱山長と同格である、と思っても、それを口にすれば、人々は次第に離れて行くことを彼は知らなかった。組合員の代表者であるという事で、対等である事を、個人に置き換える誤りを侵したのである。
 
 偉そうに話す、彼の言動を心良しとしない人達が増えゆくのに、それに気づかず、自分の力を信じて疑わなかった。

 組合が出来て五年は経った。仕事も生活も鉱山は区分しない。その中で、組合も生きて行くのであるから、どん底の生活をしていた時代とは違って、幅の広い対応を求められることになる。

 指導者の求める枠が厳しければ、人々はその枠を抜け出そうとする。
 昔のように組合に従属しなくとも、自分は生きられるのだ、という意識も芽生えてくる。

 彼くらいの人間なら、それを知らなかったとは思えないのだが、知りながら、敢えて目をつぶり、創設者としての自負に逃げ込んでいたのか。それがまた、人々には不快なものとして写った、という事であろう。

 丁度その頃、一つの事件が派生した。北見市から毎月、衣料品を背負って行商に来ていた男が、駐在所に駆け込んだのである。
 組合長の母に棒で殴られ、腕の骨を折ったという。

 その経緯は次のようなものであった。
 いつも社宅の共同浴場の脱衣場を借りて、商品を並べ商売をしていたが、前の月に来た時、組合長の妹が子供服を万引きした。
 その場に、他の客もいたので、押さえる事が出来なかった。荷物を片付けてから妹の社宅に行って、返してほしいと言ったが、妹は知らぬ存ぜぬで返してもらえなかった。自分は間違いなく見ていたのだが、どうにもならなかった。
 そして翌月、また来た時、社宅に呼びつけられて、息子や娘を従えた母親が、「ヌレギヌを着せた」と、この商人を殴った。

 行商人は、鉱山の診療所で手当てを受けた足で、警察の駐在所に届け出たのである。ここの駐在は、人一倍正義感の強い男で、届け出を受けると早速、母親をはじめ、その場にいた者を順次呼び出して調書を作ったが、万引きの有無については証拠もなく、どうしても判らなかった。

 それが、ふとした事から解明された。

 数日後、下校途中の組合長の娘が、駐在に聞かれて「叔母さんがストーブで燃やした」と答えたからであった。
 万引きしたが、恐ろしくなりストーブに投げ込んだのを、遊びに来ていた小学生の姪に見られていた。子供は正直に、それを話した。

 こうなってくると、それまでの諸悪がさらけ出される。次弟がパンケ社宅に居住していた当時、近くの空社宅の柱を切って「焚き付け」とした事や従業員に対する暴力行為の数々と、時効にはなっていたが、組合長自身の同様行為が浮かんできた。

 地方版ではあったが、そうした一連の行為が新聞に載った狭い鉱山では、その話で持ち切りとなった。

 会社の労務係は行商人に対する暴行事件を知ってはいたが、家族のことであり、警察の手に移っている事もあって静観していた。
 下手に動く事は、組合に対する不当介入に結びつけられたり、逆に、組合役員に対する特別扱いをすると、疑われかねない批判を避けたかったのである。

 全容が明らかとなり、しかも社宅の柱を切り焚き付けとした。従業員に対する暴行があった、という事では放置はできないのは明らかである。

 鉱山の就業規則は、従業員の懲戒を行う場合、従業員から選ばれた委員の意見を聞く事になっていた。
 労組から推薦される人は、執行部員であったから、懲戒理由の説明は、鮮明である必要がある。そうした準備を進めて委員会を開く運びとなった。

 それまでは、社宅の玄関先の除雪はあたりまえの事であったが、この時は反対側の窓の外の除雪もした襲われたときに逃げ出せるように。それくらい緊張していたのである。

 委員会の当日、組合長を除く執行委員が全員、事務所の会議室に集まった。誰もが無言であった。
 私は、開会を宣言し、事務的に理由を読み上げ、そして本文の懲戒処分を最後に読み上げた。
 「次弟は解雇、四弟は譴責」としたが、組合側委員は、乾いた声で、一言、「反対」と言って一斉に席を立った。

 緊迫した空気であったから、万一を避ける意味で鉱山幹部を纏めて倶楽部に移動し、そこで様子を見る事とした。

 久保田一家との戦いが開かれていた。その夜は雪になっていた。

 永い時間が経って、倶楽部の玄関に人の気配がした。組合の幹部クラスの者が三、四人いて、私に話したい事があると言う。彼らに闘う気持が無い事は瞬間的に判った。

 要求は、次弟の荷作り、運賃など出て行く費用を出してほしいとの事であった。
 私は上司に責任をもって説明する事を伝えた。要するに「分かった」と返事をしたのである。

 数日して、次弟は退山した。そして、四弟はその後、実に見事に温和な顔付きに変わって、坑内作業でも指導的な人物となって行く。

 それと共に、このような一連の動きに合わせて、一家の結束も破綻していったのか、組合長の態度は、それまでの自信に溢れたものが、次第に消えて行った。

 彼は、長兄として確かに責任はあったが、その大半は彼の知らない所で起きた。そして知らないうちに足元を洗う形となったのである。

 やがて、組合長の地位を後進に譲って、形の上では上部機関である北海道地区の長として、札幌に出て行く事になる。

 それを人々は、夫々の思いを込めて見送ったのであった。
 鉱山の日常生活から、戦争直後の色合いは急速に消えていった。
 この移り変わりは、歴史の一ページのように、人々の胸に刻み込まれたのであった。     

北の果ての鉱山開発(熊狩り)に続く



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?