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雑阿含経#1

皆さん、こんにちは。

お坊さんヨガインストラクターの“うんしゅう”です。

お経をクレイジーな解釈でお届けしております。

実際に「仏教用語」が「お経」でどのように使われているのか?

気になりませんか?

この記事で知ったかぶりを

なるほどに変えていきましょう。


今回は『雑阿含経』です。

仏教の基礎とも言える内容が記されているお経です。

どうぞご覧ください。

雑阿含経

【クレイジーな解説】

このお経は仏のとある日常を切り取ったものです。

ほとんどのお経がそうですが、

お釈迦様がポロッと話した内容を弟子たちがメモしたものがお経です。

なので時系列も内容もバラバラだったりします。

それでも何とか意味づけしようと歴代の人たちはお経をそれぞれの分野で分けました。

その中の数ある一つがこの『雑阿含経』です。

名前の意味はサンスクリット語という言葉からきています。

āgama = アーガマ = 阿含

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伝言ゲームみたいに音が変わっていって「阿含」となりました。

俗に言う音訳ってヤツです。


ちなみに「阿含」とは「伝承された教え」として解釈されます。

「雑」とはそのまま「雑多なもの」を表します。

ぶっちゃけるとあまりまとまりがないというコトです。

この『雑阿含経』はまとまりのないお釈迦さまの内容がつらつらと記されているモノ。

そのようにさらっと理解してください。

深読みすると沼にハマります。


さて第一回では「無常」についてお釈迦様が語っております。

ここでの大事なフレーズ

「色の無常を観じなさい」

クレイジーな解釈で話すなら

「カタチあるものは全て無常であると知りましょう」

こんな感じです。

「色」という言葉はインドの言葉では「rūpa」(ルーパ)と言います。

ルーパ = 色

音も合ってないじゃんって思う方もいると思います。

「rūpa」とは「カタチあるもの」と解釈します。

中国ではこの意味を汲み取って「色」って言葉をあてたのでしょうね。

カタチ = 色

なんで「色」なのだろう?と考えすぎると

これもまた沼にハマってしまいます。

その時の中国の方がそう思って訳したのです。

人の感性は人それぞれです。

何となくが大事です。


次に「無常」という言葉を見てみましょう。

「無常」とはインドの言葉では「anitya」(アニッチャ)と読みます。

これも違いますね。

「anitya」とは「常ではないこと」を意味します。

ちなみに「常にあること」を「nitya」と言います。

「anitya」の「a」は否定を表しています。


「nitya」=「常である」  

「a」を足して

「anitya」=「常ではない」

となるワケです。


つまり

「常では無い」 = 「無常」

というコトになります。


「カタチあるものは常では無い」


これをさらにクレイジーな解釈をするなら


「この世に永遠にあり続けるモノは存在しない」


このように理解できます。


物質はすべて「風化」します。

しかもそれは平等に。

カタチあるモノはすべて崩れるのです。


今絶対に手放せないモノはありますか?

スマホ

彼女

彼氏

お気に入りのぬいぐるみ

ゲーム

などなど


それら全てはいずれ無くなるものなんです。


でも

それがずっとあってほしい

ずっと動いててほしい

ずっと生きててほしい


その感情の摩擦から「苦しみ」が生まれて

生きづらさを抱えることになります。


ここにある

「色の無常を観じなさい」とは


「この世のモノは全て朽ちるのだからそれを受け入れましょうよ」という意味です。


ここまでくるとやっと腑に落ちてきますかね。


無常がどんなモノか理解できましたか?

仏教用語はお経から読み解くことでやっと理解できます。

お経から実際に仏教用語を理解できる記事を書いてますので、もし良かったらフォローして頂けると嬉しいです。


寺ヨガも都内で行っています。

ぜひご興味ある方はご参加ください。

https://terayogabozu.com/


以下はテキストで全文掲載しました。

ぜひご活用ください。


【原文】

雜阿含經卷第一
宋天竺三藏求那跋陀羅譯 

(一)如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給孤獨園。
爾時世尊告諸比丘。
當觀色無常。
如是觀者。則爲正觀。正觀者則生厭離。厭離者喜貪盡。喜貪盡者。説心解脱。如是觀受想行識無常。如是觀者。則爲正觀。正觀者則生厭離。厭離者喜貪盡。喜貪盡者。説心解脱。如是比丘。心解脱者。若欲自證。則能自證。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。如觀無常苦空非我。亦復如是。時諸比丘聞佛所説。歡喜奉行。

【書き下し文】

(一)
是くの如く我れ聞けり
一時、仏は舍衞國祇樹給孤獨園に住せり。
その時、世尊は諸の比丘に告ぐ。


当に色の無常を観ずべし。

是くの如く観ぜば、則ち正観と為す。正観せば則ち厭離を生ず。
厭離せば喜貪尽きん。喜貪尽けば、心解脱を説く。


是くの如き比丘、心解脱せば、若し自證を欲せば則ち能く自證す。
梵行は已に立ち、所作も已に作す。自らは後有を受けざることを知んぬ。

無常を観ずるが如き苦・空・非我もまたまた是くの如し。

時に諸比丘、仏の説くところを聞いて歓喜奉行す。


【現代語訳】

雑阿含経(第一巻)
翻訳者:三蔵法師と求那跋陀羅

このように私は聞きました。
ある時、仏は舎衛国の祇園精舎に居ました。
その時、仏は修行者たちに告げました。
 
「色の無常を観じなさい」

このように観じることができたなら、それは正しい観と言えるでしょう。

正しい観がわかるとあらゆるものから離れることができます。離れることができたなら、際限のない欲望も尽きます。欲望が尽きれば、煩悩の束縛からも離れることができます。

このような者たちが煩悩の束縛から離れ、悟ろうと願ったなら、すんなりと悟ることができるでしょう。

「修行はすでに完成しており、なすべきことも全てなし終えました。私はもう再び生まれ変わることはないと知った」

このように悟り気づくことができます。

無常を観じれるような苦・空・非我でもこのような悟りを得られるでしょう。

仏からこの言葉を聞いた時、修行者たちは歓喜して、実践しました。




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