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ことばを使うことのジレンマとSNS

ことばを使うことは社会と関わることである。

僕らがことばを使うのは、誰かに語りかけるときである。
「あー疲れた」というような、独り言のような、私から私に向けた私のためだけの言葉というのは存在するけれど、表現されているので、偶然それを聞いてしまった私以外の誰かが何か意味を受け取ってしまう可能性もある。
(意味として受け取られなければ、それは雑音として処理されるだろう)
だから、どんな形であれことばにされたものごとは社会性を帯びる。

そもそも、私が使うことばは全て誰かが使ったことばの再利用であった。
「そもそも」「、」「私」「が」「使う」(以下略)
これら全て、自分が今まで見聞きした文化において使われていた文字や文章や話し言葉を再利用している。
その意味では、ことばを使うという行為は自分から社会に向けて語りかける行為であるという以前に、私が社会から受け取った語りかけられたメッセージを、受け取り記憶し再構築し再言語化する行為であるといえる。

すると、今、僕たちはさまざまなツールを使って自分を表現していると思っていることも、自分が生まれる前からすでにあったことばに基礎付けられているというジレンマをそこに見出すことができる。

このジレンマは、どう僕らを悩ませるのだろうか。

例えば「あなたはどういう人間ですか?」と問いかけられた時、
「私は桑田佳祐と言います。茅ヶ崎市出身です。青山学院大学を卒業しています」というように、私たちは名前や出生地や出身大学などを話すだろう。
そして、この時に私は自分のことを説明していると思っている。
しかし、名前はそもそも名付けられたものであるし、出生地を選んで生まれてくることは不可能であるし、出身大学も義務教育という制度の延長で選択したということを考えると、どこまでが自分の完全に自由な選択であったかを明確に主張することはできない。
つまり、他者から問いかけられたときに自分が何者であるか説明することは、自分の内に隠れた秘密を打ち明ける行為であると同時に、すでに存在している社会的な役割のどれかを選び取る行為でしかないともいえる。

そこで困るのが、聞かれた私自身は秘密を開示していると思っているが、同時にそれは既存の選択肢をただ選択しているだけでもあるが故に、ほんとうの意味での私自身の秘密ではないので、気持ちのどこかでズレを感じ悩むのである。

「今言ったことは本当に私の気持ちなんだろうか」
ことばにしたその瞬間にそのことばは私のものではなくなる。

改めて、「あなたはどういう人間ですか?」という問いかけに戻ってみる。

「あなたはどういう人間ですか?」という問いは、
「あなたを言語化してみてください」という問いであるといえるのではないだろうか。今、私たちはいろいろなところでこの問いを投げかけられる。
そして、問いかけられずともこの問いを自ら仮定して活動する多くの人を見る。ぼくがInstagramを見て感じるのは、自らにこの問いかけを課す人々がいかに多いかということである。
自分のことをフォローしている人々にたいして、自分がどこにいるのか、自分が今何をしているのか、何を思っているのかを常に言語化し自分とは何者であるかを表現し続ける私たち。

SNSは「あなたはどういう人間ですか?」という問いに、実際には問われていない問いに自ら答えようとする人々のための道具である。ここにぼくは近代の自我のあらわれを見る。そして、現代の私たちの悩みの多くはこの「あなたはどういう人間ですか?」という実態のない空虚な問いかけを絶えず意識し続けることが前提となった社会に生きていることが原因なのではないかと思う。

(記入日 2023.11.21)

雑記
なぜその問いかけを意識しなければならない社会に生きているのか。
それは貨幣経済が国境を超えて発展した結果進んだ世界規模での分業化が一因にあると思う。皆が賃労働をする、ある種の職人となったが故に、一人では生きていけなくなったことは社会化を進めることにつながるだろう(職人は高い技術を持つ代わりに社会から孤立しては生活することができない。故に僕たちは働かないといけない)。
この世界総職人化は、別の表現をすれば世界総官僚化といえるだろうし、世界総専門化ともいえるだろう。
とにかく、いつの間にか私たちは一人一人がある仕事のスペシャリストになる方が全体的な経済化につながるということに気づき、全体で経済を発展させてゆくことを前提とした社会づくりをしてきたのである。

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