見出し画像

道徳形而上学とは何か

「道徳を形而上学的に考えてみると、
こうした方がいいよとか、いいなとか、
こうすべきであるとか、
それを自分の責任で認めることである、
とすべきである。
だから、認めさせることでは多分ない。
つまり人から教えてもらうものではないはずである。
そのため人に教えることは難しい。
その理由は色々とある。
しかしまず不道徳とは何かを考えてみよう。
不道徳とは何かと言うと、
一言で言うと、不親切なことであり、
知っているのに教えないとか、
そんな態度を取ることだと言える。」
「道徳がどうの、とか言われるより、
不道徳がどうだとか言われる方が僕にはわかりやすいな。
だから、まず不道徳とは何かを考えた方がいいかな。
まず分かりやすいことは相手に悪意を持つことである。
普通はこれでもう不道徳である。
しかしそれ以上は追求しない。
それはそれとして、分かりやすくすると、
要するに相手に善意を持たないことを不道徳と言えると思う。
とすると道徳とは善意を持つことである。
よって善意があるなら、
ある意味での道徳を行なっているから、
それ以上考える意味はないかもしれないな。」
「とにかく不道徳とは要するに意地悪のことだ。
明らかに故意によってそれを行っているなら、
それが不道徳である。」
「では、不道徳が何か分かるなら、
それをしなければいい、というのは誤りであるが、
それを避けて通れば、道徳的でないにしても、
不道徳ではないはずである。
とすると道徳的でありたいならば、
早道としては不道徳を糺せばよい。
不道徳が現れたら、それを良くないと諭せば良いはずだ。」
「うん、まあ、そうだね。
なら、道徳的であろうとするよりも、
反不道徳的にすれば楽かもしれないね。
道徳とは要するに自分で自分に身につけるものだから、
それを言葉で表現することは簡単ではない。」
「とすると、どうやって言語化すればいいのか、
悩ましいということになる。
では、それだからといって、
やらずに避けることは非道徳的であり、
間違いを恐れずに言うなら不道徳でもありうる。
だから、表現せざるを得ない。」
「となると、だから、不完全になる。
これは分かっていることだから、
失敗ではないけども、正しいかと言えば、
それは分からない。
それは不完全であるからではない。」
「何故かというと常に不足があるためである。
不足があるのは、私如きにそれが手に負えないレベルにあるからであり、
だから、断念するのがある意味で正しいが、
それは非道徳的なので厭であり、
そのために続けることになるから、
何となく変である。
それは不完全でもいいから、
いい加減にでも表現することが意味のあることであると、
考えられるため、適当にやる訳である。」
「となると、もうどこに間違いがあるか、分からない。
だから、やらない方がマシだ、とはならない。
やる方がマシであるからだ。
ということになりえてよいはずだ。」
「となると、ここまでで何が言えたかと言うと、
それはよく分からないが、
ある程度、道徳という言い難いものについて、
苦しいながらも表現してみたということにできる。
これを道徳形而上学と言えると思うが、
よく分からない。
何故なら、もう集中力が続かないためで、
最初に何を言おうとしたかもう不明瞭なためだ。
それは仕方がないので、
これでよしとしよう。
こんなものだ。」

もしよければサポートお願いします。 頂きましたサポートはクリエイターとしての活動費用に用立てます。さらにクオリティの高い記事を書けるようサポートよろしくお願い致します。