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批判の相手は誰が適当か?

「他人を批判することに意味はあるのでしょうか?
あまりそれは効率のよくない考え方だと思いますけども、
ならば、批判の的は自分であるべきということになりますね。
しかし、自分を相対的に見ることは難しいことです。
だから、なかなか自分に批判の矛先を向けづらい。
となると他人に矛先が向くのです。
これは致し方ないことですね。
やむを得ないではないですか。
自己批判をしている暇がなければ、
周りにいる人間に原因があるのです。
だが、しかし、短絡的に自分を批判することはやはり効率から言っても無駄が多いかもしれません。
まずはマインドフルネスですね。
そこからです。」
「しかし、プリミティブに習慣化していることに優先度が偏位していることは悠に考えられます。
カントの言うアプリオリとはそんな意味でしょうかね。
何となく思いついたことは吟味してみるに限ります。
何故そう思いついたのか、それを疑問視してみることは有意義なことだと思います。
何故そうなったのか、それを考えられると
思考に余裕が生まれそうです。
そうなると人生にも余裕が持てるものではないでしょうか?」
「そうだね。
異論ない。
しかし、それをカントが言いたかったのかはそれは僕には分からない。
僕には彼の文章は読みにくくてたまらない。
永遠平和のためにですら読みにくくてたまらない。
カントの限界は啓蒙主義の限界かな?
で次に来るのが実存主義の時代だそうだ。
何故に現実がそうなるのか、とかこうなるのか、
と考えることが実存を探ると言う意味になるのだろうか?
なるなら、僕も実存主義者の中に入るだろう。
現実は複雑で理由を問うても分からない。
何故そうなるのかとは理由を問うているのではない。
何故その通路を通ったのか、その理屈を知りたいのだ。
理由ではなくて理屈を求めているのだ。」
「ふーん。そうか。
そんなものか?
確かに理不尽なことが起きればそうなるかも知れない。
理由を考えても無駄なら、どんな理屈か知ろうとするしかないかも。
所詮は自分の理屈でなければ他人の理屈だ。
理由を聞きても虚しいだけだろう。
理論として聞くに値することも偶にはあるかもしれないな。」
「そうだといいのだがな。
それなら納得いきやすい。
他人がどうやってその結論に至ったか、それを説明できたなら、
世界で出遭う困難も減少傾向がつくかもしれない。
そうやって問題を克服していける可能性はあるはずだ。
だから、そうやってシステマティックに理解することで現実の困難な課題を認識可能範囲に追いやれるかもしれないな。」

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