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あなたは、あなたが笑う狂気のお陰で生きている

仕事は何ですか、と言われ「社会課題の解決のためにあれやこれやと頑張っています」みたいな話をすると、本当に様々な反応を受ける。
適当に相槌を打つ人もいれば、応援してくれる人もいる、色々な反応があっていいなと思う。

その中でも、一番多いのは「なぜ?」という純粋な疑問な気がする。
わかる、昔の自分だったら、多分そう聞くと思う。
例えば営業をしています、とか保育士をしています、とは全然違って、社会課題には「職業との結びつかなさ」みたいなものがあると思う。

なぜ今の仕事をしているのかなんて、いつまでたっても綺麗に答えられないし、突き詰めたら理由なんてないかもしれないと思う。

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リディラバという会社に入ったのは大学3年生の頃。
学生インターンとして入社した時の動機は、変な旅行が作りたいからだった。
入社直前まで、留学という名の旅行三昧な生活を送っていて(マジで毎週のように旅行に行ってた)何とも言えない虚無感を抱いていた。
いくら綺麗な景色を見ても、美味しいものを食べても、知らない人と話しても、全てを娯楽としてただただ消費して、日常に戻っていく自分がだんだん嫌になってきて、意味のある?消費ではない?旅行のようなものがあったらなあと思った。

だから、社会課題の現場を訪れる旅行づくりと聞いた時、ああなんだか面白そうだなと思ったし、ちょうどインターンというものをしてみたかったし、本当にそれくらいの気持ちで応募をして、採用してもらった。
社会課題そのものにはあまり関心も無かったし、関心以前に何一つ知らなかった。つまらなかったら3か月で辞めちゃえばいいやとさえ思っていた。

だから、冒頭に出てきた「なぜ?」という人の気持ちは、痛いほどわかる。
僕だって、まさか仕事にするなんてその時は微塵も思っていなかった。

旅行を作るといっても、全部を自分たちでつくるのではない。
例えば、ホームレスツアーならホームレスを支援しているNPOと一緒になってひとつのツアーをつくっていく。
必然的に、入社してから猛烈な勢いで、色々な課題の最前線で戦う大人たちと出会い、話をするようになった。
いわゆる「社会起業家」と呼ばれる人たちに触れて、自分も感化されてこの仕事に就きました、という物語なら美しいし伝わりやすいのだけど、実際は全然そんなことはなく、むしろ当初は混乱の連続だった。


原蜜さんという人がいる。
新潟県の小さな農村地帯を舞台にしたアートフェス、「大地の芸術祭」を20年前ゼロから立ち上げた。
アートが持つ力で地域は良い場所に変わっていく、資本主義の中で忘れ去られた価値が地域にはあって、その価値をアートは伝えられると信じて、アートのアの字もわからない地元の住民たちに、詐欺師だと後ろ指を指されながら、年間1000回以上の説明会を開き、対話を続けた。
それでも理解は得られず、大反対の中で第1回の芸術祭を開催した。

今では、当時反対していた人たちを含め、たくさんの住民が3年に一度の芸術祭を心待ちにして、僕らが訪れると暖かく迎え入れてくれる。
原さんはその姿を見て「奇跡だ」という。
大地の芸術祭の20年間の努力によって、何もない豪雪地帯の小さなまちに、今では年間50万人が足を運ぶようになった。

東修平さんという人がいる。
地方自治体を立て直さなければ、日本に未来はないと思い、地元である大阪の四條畷(しじょうなわて)の現状が悪化していることを知って、28歳の若さで市長選に立候補した。
選挙に勝つために重要な「3バン」(地盤:地元の支持基盤、看板:知名度、カバン:選挙資金)の何一つ無い中、過去10年の議会の議事録をすべて読みこんで独自の戦略で当選し、現役最年少市長として、市役所の働き方改革・行政手続きのオンライン化・副市長の民間登用など、ありとあらゆる改革を行っている。

伊藤次郎さんという人がいる。
自殺の相談窓口というのはそれぞれの自治体含め色々なところにあるが、どこも電話相談だったり、実際に窓口に行かないといけなかったりで、本当に苦しい人に届けるのは難しいんじゃないかと思い、ネットで「死にたい」と検索した人に表示される広告を出し始めた。自腹で。
広告を表示させればさせるほど、つまり多くの人に届ければ届けるほど、伊藤さんの財布からお金が減っていく。
それでも、辞めるわけにはいかないと活動を続け、今では「夜回り2.0」として、今までの支援で救えなかった人たちを救っている。

こんな話を聞いて、皆さんがどう思うかはわからない。
僕はというと、正直なところ全然意味がわからないと思ってしまった。
詐欺師と呼ばれながら年間1000回の説明会なんて絶対にできないし、市長になるために10年間の議事録なんて読めないし、自殺の相談が来れば来るほど自腹を切るなんて、どうなってるんだと思った。

偶然足を踏み入れた社会課題の現場は、信じられないくらいの狂気で満ち溢れていた。
そして、そんな狂気は自分の中のどこを探しても見当たらないような気がした。自分は、こんな世界にいてはいけないんじゃないかとすら思った。

ただ、こんな生活を続けるうちに自分にも変化があった。
この狂気を笑う側よりは、この狂気を横目で見てスルーする側よりは、この狂気のために何かができる自分でありたい、と自然に思うようになった。

今まで社会のことなんて微塵も考えなかったけど、少しずつ、自分が社会の中で生きているんだと、そしてその社会を良くするために必死な人たちがいるんだと身をもって理解した。

彼らの狂気は、間違いなく本物だった。
誰に何と言われようと、体と心を壊すまで(もしかしたら壊したとしてもなお)社会のために働き続けると思った。
世の中の誰もが、そんなことは意味ないよ、そんなんじゃ世の中は変わらないよと言っても、絶対にやり続けると思った。

そんな狂気に触れ続けたとき、なぜ自分の人生を、その狂気と離れて過ごすのか、納得できる理由がひとつもないと気づいた。

僕が彼らの役に立てることなんて、何一つないかもしれない。頑張っても頑張っても、社会を良い場所にすることは全然できないかもしれない。
でも、全力で頑張って、それでも無理だったら「すいません、力不足でした」と言ってお酒を飲んだらいいじゃないかと思った。

それでも、見なかったふりをして、狂気とは出会わなかったふりをして生きていくよりは、自分にとっても世の中にとってもいい生き方じゃないかと思った。
そんな気持ちで、リディラバに就職することを決めた。

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そんなこんなで入社してから3年半、社員になって1年半が経った。
今でも仕事はできないことの連続で、葛藤や自問自答をしながら、毎日わからないことに囲まれて頑張っている。
でも、同時にわかってきたこともある。

それは、自分だけではどうしようもない何かが起こった時、それを救うのは偶然や運ではなく、誰かの狂気である、ということだ。

例えば、元気がなくなって寂れた地域が、20年かけて地元の人からも、外の人からも愛される地域に変わったとしたら、そこには地域を素敵な場所に変えたいという狂気がそこにあったからだ。

例えば、家族からの暴力に困って役所に頼った時、スムーズに支援が受けられたとしたら、それは決して偶然ではなくて、市民誰もがこのまちで困らずに暮らしてほしいという狂気がそこにあったからだ。

例えば、辛くなってネットで「死にたい」と検索した時に、相談できる広告が出てきたとしたら、それは決して偶然ではなくて、あなたを救いたいという狂気がそこにあったからだ。

ここには、合理性も、必要性も、資本主義もない。
なぜやるかなんて、本人にもわかってないし、誰に頼まれたわけでもない。
やって儲かるわけでもない。純粋な狂気がある。

自分自身が問題から遠くにいる時、この狂気には気づかない。
気づいたとしたって、笑ってスルーしてしまう。
自分には全く関係ないように見えるし、何よりおかしすぎて意味がわからないから。
ただ、ひとたび当事者として問題に巻き込まれた時にあなたを救うのは、その狂気だ。

そして笑う側と救われる側の壁は思っている以上に薄い。
3年後には、家族の誰かが介護を必要としているかもしれない。
1年後には、謎のウイルスで外に出れなくなり、仕事を失うかもしれない。
来月には、急に上司が変わって、あなたの心を蝕むかもしれない。
今夜、自分が事故にあって障害を抱えるかもしれない。

さっきまで笑ってスルーしていた誰かの狂気に、次の瞬間自分が救われるかもしれない。そう思うと、僕は急に笑えなくなってしまう。
誇張でもなんでもなく、僕らの生きる社会は、僕らが笑ってしまうような、誰かの狂気のおかげで成り立っている。

社会には目に見えない分断が拡がったと言う。色々な問題はどんどんと見えにくくなってきたと言う。
それは確かに正しいと思う。世の中が多様化して、それぞれがそれぞれに違った困りごとを抱えることになった。

でも、それだけじゃないとも思う。
見えないのは、この問題を解決しよう、これ以上拡げないようにしようと、最前線でなんとか食い止めている人がいるからじゃないか。

そう気づいた時、ああ、この狂気をみんなに伝えないと。
みんなに知ってもらって、この狂気を支える人・応援する人を増やさないと、と思うようになった。

だから、そんな狂気を持って社会と向き合う人たちを一堂に集めたイベントを、僕らは毎年開いています。
僕が本当に色々な偶然の上で得られた社会との繋がりを、多くの人に届けられたらと思っています。

イベントの名前は、「リディフェス」
新たな自分の一面が見つかるのが楽しいのと同じように、新たな友達ができるのが楽しいのと同じように、自分の知らない新たな「社会」が見えるのは、決して堅苦しいことではなく楽しいことなはず。
そんな楽しい場にするぞとの思いから、カンファレンスではなくあえて「フェス」という看板を立てることにしました。

去年は東京に1000人もの人が集まってくれましたが、今年はコロナの影響もあって、完全オンラインでやっていきます。
今まで、東京に来れる人だけにしか届けられなかったものが、みんなに届けられるようになって、嬉しいなあと思っています。

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3年半この仕事をしてきて、世の中が生きやすい場所になるには、みんなが世の中に関心を持つのが一番の方法だと実感しました。
それでもなお、僕は他人に対して、世の中に関心を持とうぜと言えない瞬間が多々あります。
そう言われても、昔の自分には多分響かなかったと思うからかもしれません。

でも、この狂気を見てくれ、とは心から言えます。
この狂気は、世の中とか社会課題とか関係なく生き方として、あなたの勇気や努力の源になると思います。
少なくとも、この姿を見れて良かった、この人を知れて良かった、そんな風に思ってもらえると信じています。

その先に、もしかしたら世の中のことを考えるようになったり、自分にも何かできないかと思うようになったらより嬉しいのですが、まあそんな細かいことはいいから聞いてみてよと思います。

9月26日の土曜日と27日の日曜日、どちらか1日でも、あなたやあなたの大切な人を救うかもしれない狂気に触れてもらえたら嬉しいです。

https://ridifes2020.peatix.com/

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