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間隙と一過性

ウメハラ 武蔵
彼らは自己と相対し世界を自己に塗り替えていった。そして世界に敗北してそれすらも自己の領域を拡張することに使いそして克服する。理論武装である。生が可能にする形態の一種である。一種にすぎない。圧倒的な敗北として世界は淡々と進んでいく。だが、生は自己として乱立する。つまりあなたと俺がいるのだ。アプローチは多様である。しかし、上手になれるのは何個かのアプローチだけだ。その前に死ぬのだ。生の反復の多様さは一人では掬い、表しきれない。断片的なドラマを描く。そのドラマの美しさでしか語れない。一度切りの諸行無常を連関させ繋ぎ、物語に仕立て上げる。俺は今生きているのだ。自分自身をそんなにも縛り付け、このゲームをやりこみ、勝利から得る反応に酔いしれ、次を探す。このようにするためにやり方を選ぶ。真理に対する態度からかけ離れた中毒者が我々だ。問いそのものを発見として受け入れる。それは疑問ではなく状態なのだ。状態を変える事が答に当たる。ただ、状態が変わるのみである。意味付けと創作で生は自己の素晴らしさを現出させる。見なくとも既に私たちの横にいる人がそれを現出させるのだ。一人での証明はいくらでもできる。前提に反例を認めない事ができるからだ。少しスペースを作る。「横、座っても良いよ。」と言ってみる。暇と間隙を作成することで生は状態を変える。その状態が変わることによって独力ではなし得ない反応が生じる。故に恋、驚き、状態の変化、反応、これら独力ではなし得ない、思考内ではありえない意味のわからぬ生の躍動が感じられるようになるのだ。一人でも良い、全ての人が大切にはならない。大きく捉えるのではなく出来るだけ微細に、その人の機微に気づく。そして、動くのだ。またもはや動く必要すらない。意味も反応も快感も何も求めない。俺がしたいままに。そうしてみるとそれは突然に小さなところにぽんぽんと発生する。志向性が解放されて、私が求めるものなどいくらでもこの世にあるのだ。そして私が動いてきた軌跡を、反動と肉が記憶する。私が覚えている。持ってきたものはなにもなくなりはせず、自由で大切なものを持っている。それはつまり生の躍動のつとめである。

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