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バレーボールにおける、「考える力」「基本」 の再検討

今回は「考える力」と「基本」というものを再検討してみようと考えました。

「考えろ」「基本」とはよく言うけれど・・・

 サッカーでいえば、ドイツの躍進と育成システム、かつての日本代表監督のオシムの考え方、昨年注目されたラグビー日本代表のエディー・ジョーンズの考え方、バレーボールでも近年増えてきたVリーグの外国人監督たちの考え方・・・。いずれにおいても、日本のスポーツ選手には、「考える力」の弱さが指摘され、トップ選手であっても、「考える力」をもう一度鍛えなおさねばならないということが指摘されています。これほどどの種目でも「考える力」が指摘されているのですから、これはもはやチームの指導や強化策だけでは間に合わないと言えるのではないか?と思うわけです。

 「考える力」・・・
 一言で表現するのは簡単ですが、大変奥深いテーマです。
 思考力、判断力、それも短時間で最適な決断を下せる力。めまぐるしく変化する状況の中で周囲の状況を把握する力。相手とのかけひき。展開を読み取る力。書ききれません。
 バレーボールにおいて、選手たちに、いわゆる「考える力」というものを身に付けさせるためにはどうしたらよいのでしょうか?
 
・工夫の仕方を提案する
・思考錯誤の機会を用意する
・「なぜ?」を問うて、答えさせてみる。
・良し悪しや褒めるなどではなく、「他には?」と投げかける。
・ダメ出しではなく、「オレはちと違うな」と感想を言う。
・わざと結論をはぐらかす
・間接的な語りかけ
・指導者が介入せず見守る環境の設定
・ディスカッション機会の設定

いろいろあるんじゃないかなと思います。

一方、「基本」とは何か?
バレーボールでは、ともすると「型」や「やり方」に焦点が当たりやすいです。
それも大事な部分はあるでしょうが、
従来あまり言われていない所の、「考え方」というもので、
「基本」というものを考えてみることも求められていると個人的には考えています。

・シンプルに守れるようにし、多彩かつ十分に攻める状態をつくる
・相手がやることの選択肢をなくし、こちらの判断を限定的にする。
・こちら側のやることの選択肢を広げ、相手に限定されないようにする。
・次のプレーヤーが最大のパフォーマンスを発揮できるゆとりを生み出す。
・自分のプレーが最も安定する、ボールとの間合いをとる。
・プレーとプレー、プレーとゲームとの間に因果関係やシナリオが構築される。
・「ブレイク」が試合を有利に進める。そのために必要な要素とは?
・プレーは見た目のカタチより、動作の原理。動作の原理を導くカタチとは?
・相手にはやさを意識させるためには、相手の判断を鈍らせること。
・修正、対応の差が強さの差。ジブンタチノ型は大きな障害。
・カタチよりも「知恵」

こういうことを考えていくなかで、必要な「型」や「やり方」ができあがっていくのではないでしょうか?

指導現場やコーチの在り方がこれからのキー

 日本のバレーボールにおける「指導現場」に、何をどのように反映させるか?、指導現場の意識改革はどうあるべきなのかというのが、自分は大きな課題であるなと感じました。
 というのも、「実践→理論」というトップダウン的な構図、つまりプレーができるとか勝って実績をあげているところの実践から「理論」を抽出し説明することはあっても、「研究→理論→実践」つまりは、研究やデータから得られたものを、具体化具現化するボトムアップ的な構図が、あまり指導現場では少ないです。もちろんどっちがいいとか悪いとかということを決定したいわけではありません。しかし、弊害がいろいろ出ていることは認識しなければならないと思います。簡単に言うと例えば日本一になったチームや指導者のやり方を「理論」として広めるパターンです。これですと、その人やそのチームの環境や背景だからこそできることも多く、必ずしも普遍的なものではありません。また、トップのやり方を「理論」としてそのまま底辺に当てはめようとすると、底辺の選手に無理が生じてくるわけで、故障だとか一部の選手しか活用できない状況になったりするわけです。小学生に全日本の選手のプレーやフォーム、攻撃パターンをさせることよりも、もっと養っておかねばならないことがたくさんあると思います。さらには時期尚早なゆえに、間違った方向に実践が進む可能性もあります。

 「オーバーハンドパス」 に対する考え方というのは、その最たる例だと思います。

 確かに、トップ選手や卓越した選手のプレーを見ていると、安定していて、動きもしなやかというか、スムーズな動作です。
 そのプレーを、どう形容するか、どう伝えるか・・・まずこのあたりが指導現場としては大きなポイントになります。例えば、「上手い!」と言うのは、別にいいのですが、さらに具体的な表現で「柔らかく」とか「ボールの勢いを抑えるように」・・・となってくると、少しずつ指導を受ける側のプレーに影響が強くなっていきます。
 オーバーハンドパスでは、解析しきれないとも思えるような、一連の運動原理、動作原理が働いています。「床反力」というのをボールにまで伝達させるためには、下肢から手のひらまでの伝達が連動していかねばなりません。さらには、よく言われる「打ちやすいセット」にするためには、手首や指の反動がかかわってくるわけです。

 しかし、それらについて、指導者がどう見えたものを選手に伝達するかというのは、本当に生命線になってきます。オーバーハンドパスの「柔らかく優しい丁寧な」セットというものを実現させようとするとき、その視点を「手首のスナップ」だとか「持つ動作」などでアプローチすると、いわゆるキャッチぐせのハンドリングを量産してしまう危険性があると思うのです。しかし、理想とするハンドリングが、「柔らかく優しい丁寧な」という視点は、私は間違っていないと思います。
 ですから、こういった場合、大事なってくるのは、

   ① プレーの本質的な動作原理、運動原理から逸脱しないこと 
   ② 目の前の選手の現状やレベルの把握
   ③ 選手の現状やレベルに合った、イメージしやすい最適な表現を用いる
   ④ その際は、試行錯誤(行動化)できるものであること
   ⑤ どの選手にも活用可能なものであること

 こういったことを、常にチェックしていくことが大切です。
 先に書いたように、現状で一般的に行われている指導なるものは、上意下立型・トップダウン型の伝達です。日本一だとか最上位カテゴリの視点に基づいた視点をみんなで共有しようというものです。ですが、それが必ずしももすべての人に共有できるものではありません。むしろ長いキャリアを積めた一握りの人でしか理解できない境地が多くあると思っています。

 そこで求められるのは、研究や理論、科学的なデータやエビデンスを起点に実践を導くというベクトルです。ですから学問や研究の成果得られたエビデンスが必要になってきます。しかし、ここにも課題はあります。理論やエビデンスをどのように実践につなげていくか?ということです。これが一握りの人でしか共有できないものだったら、もったいないわけです。
 いずれにしても、日本のバレーボールにおいて、「指導現場の充実」というのが、大変な課題になっています。個人的には、「なわばり意識」みたいなものが強くて、互いが相容れにくいというか、交わりにくい高い壁というか、深い溝を感じるのです。指導現場でコーチングする者が、いろんな研究の成果のデータや意識を活用して、実践できればいいのですが、「お前、分かってんのか?」と問い詰められると指導に生かしにくくなるような気もします。同様に、一生懸命考察し分析したものに対し、「お前やれんのか?」というのも同様です。何か、みんなでシェアできない構造的な問題や体質的な問題を日本のバレー界ははらんでいるように感じます。

指導の充実・・・何を模索していけばいいのか?

 さて、その他自分なりに考えてみたことを列挙しておきます。  
     
(1) プロセスを構築する
  それぞれの実践報告がなされていても、それはそのチーム事情やそのカテゴリ事情の範囲内のものになっていることが多いです。つまり、自カテゴリや自チームにおける自己完結型の理論が多く、それ以外のものは、他のカテゴリに任せてしまうという一貫性のなさが大問題だと思います。ですから、ハウツーの形ではなく、「プロセスの形」というものを構築していかねばなりません。
 その際、視点としてもっておきたいのは、
       ①カテゴリ間の「連結」、
       ②発展の余地を残す(完結による思考停止にしない)、
       ③選手の試行錯誤や内省を基本とする、
       ④動作原理を反映させる

 ということは必要です。 

(2) 研究や理論からの具現化、感覚の再現性
  例えば、セッターの指導の中で、 「右眼から見る」、「左眼から見る」という指導の表現があります。これは、感覚的な問題であって、実際に右眼から見る練習をするよりも、普通に「右側にいる相手ブロッカーも視野に入れて」となるのではないでしょうか?形態の練習ではなく、「アイワーク」の練習になってくるのだと思います。
  先ほどの、オーバーハンドパスのハンドリングにおける、「(持つように)柔らかく」というのは、感覚的な問題であって、実際持つのかどうかは問題が違います。バレーボールの初心者に、ギリギリ持つとか、柔らかくを求めすぎると、十中八九キャッチぐせになります。でも、「柔らかく」というイメージをもつことや、それを感覚的につかむためにキャッチを体験してもいいレベルがあります。それは、基本的な動作原理を習得した上級者の自己チェックや修正が可能なレベルの場合においてです。
 指導者は「実践家」です。実践と単なる模倣は違います。あの強いチームの指導者がやっていること理論としてそのままやろうというのは、「実践」とは言い切れず、模倣または追試だと思います。
「見えること」、「感覚としてあること」、「実際起こっている原理」は、それぞれ違うことが多いです。ここが重要だと思います。しっかり認識し、伝えることは伝える、あえて伝えないものは伝えず伝えるタイミングを見計らう。そういったことが指導者の腕の見せ所なんじゃないでしょうか?

(3) 知恵を持ち寄るとは(議論など)
 みなさんが学ぼうとするのは、自己実現のため、つまりは指導力を向上させるとか、パフォーマンスやスキルを向上させる、その先にある勝利を目指すため、といったところでしょうか?でもその情報は独占できるものではありません。なぜなら自分にはできない、さまざま知見をもった人たちの様々な成果を持ち寄ってこそ、役に立つものが生まれるからです。
 もっと建設的な議論を望みます。建設的というのは、自己実現と同時にみんなが喜べるもの・・・行き着くところ自分の勝利と自国のナショナルチームの勝利の喜びを共有するために必要な議論だと思います。自分の都合だけでもいけませんし、攻撃対象を絞って自分の正当性だけを主張するのもいけません。多くの人が、それぞれの立場で、建設的な一歩を踏み出せるような機運を生み出していくための営みが議論であってほしいと思います。その中にはちっぽけで陳腐に思える取り組みや意見もあると思います。でも「鉄砲の弾は数を打てば当たる」を大事にした方が建設的だと思います。
 何かの必要性を広めると同時に、「それはなぜか?」、「なぜそうなるか?」ということを認識することは、さらにエネルギーを費やして研修や考察をしていく必要があると思います。「日本一のチームがやっているから」、とか「世界でやっているから」というのは、きっとそういう理論やデータが頭の中にあって理解があるからこそ言えるのでしょう。でも言われた側とすると「それはなぜか?」「なぜそうなるか?」に対する思考ベクトルが生まれないと、議論が長続きしないように思います。

(4)セッターの育成について
 オーバーハンドパスの動作原理とセットにおけるオーバーハンドの必要性の情報は、大変有意義なものを得ました。これは、難しいとされる初心者へのオーバーパス習得や、キャッチぐせの修正、さらには高度なセットスキルの練習にも生かされるものだと思います。
 セッターの育成が課題となる場合、まずは「人材不足」が挙げられます。次に「スキル不足」が挙げられると思います。時々、「大型セッターが出てこない」という問題も指摘されます。
 個人的にこういったものを解消していくためには、いい練習方法や理論を求める前に、オーバーパスの適正な練習やセッターの練習を、「全員が身に付ける」ということなんじゃないかなと思います。だから「育成」という覚悟がもっと必要なんだと思います。
 いいチームだとしてもいい指導者だとしても、話を聞いていると必ず「チーム事情」「カテゴリ事情」を理由に、限定的な指導をしています。このあたりももっと活発な議論がなされ、実践が増えていかないと、よりよいセッターのスキルを兼ね備えた選手というのは出てきにくいのではないかと思います。

(5)指導者と研究データについて
 感覚的な理論から、あるべき方向から逸れるのを防ぐ手立てとして、「エビデンス」つまり客観的な論拠となるようなデータや分析が有効だと考えられます。
 「~が~と言ってました」というのが必要な場合と、無責任に言っちゃいけない場合があると思います。しかし、私のような不勉強な者にしてみれば、そのエビデンスをどう集めるか、どのように生かすかというのも容易いことではないです。ですから、指導者としては、いろんな立場の方々の研究や実践を結集することが必要なんじゃないかなと思うわけです。
 

※1964年東京オリンピックの東洋の魔女の映像が話題としてあがっていたので、何となく掲載しておきます。セッターに注目すると、今との違いがあって面白いです。

(2016年)