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バレーボールのゲームとビギナー(初心者)

「期待しか」ないという認識に立てるか・・・

 バレーボールの初心者にとって、ゲーム(試合)に抱くある種の恐怖感や絶望感みたいな、独特な感覚というのがあると思います。そこからやってくる、極めて消極的なプレーや委縮し身体が硬直したぎこちなさというのは、ともすると外から見ていると、何とかならぬものかと思うこともあるのが正直なところです。

 しかしそんな彼らを外からみていて、「何とかならないものか?」という思いも、結局は選手目線ではない、上から目線であるということになると思います。思い返せば、自分自身が例えば、スキーをやりたての頃の、斜面の上での怖さとか、野球をしている時の、バッターボックスで速球を待つ怖さ、フライを捕る際の不安、卓球やテニスのサーブを待つ不安・・・。もちろんバレーボールにも、上級者や指導者が忘れかかっている、初心者しか味わえない、感覚があるのだろうと思います。

 本当は、自分がやってみたいプレーのイメージはあっても、なかなかその通りにうまくできずもがきながらも、今日も目の前でチャレンジしている彼らい向かって、「やる気」とか「意欲」、「根性」や「努力」、「考えろ」や「頑張れ」などの一喝やカンフル剤的な指導だけで済まそうとするのは、大変乱暴で、もっと言えば将来性のことを考えると危険なことなのかもしれません。(過去の自分はそれでたくさんの過ちを犯してきました。)
 バレーボール初心者のゲームに見られる、独特な委縮や混乱、消極性・・・これは、むしろメンタルやマインドの問題よりも、「知恵の不足」からくる、行き詰まりのような気がします。要するに「手詰まり」や「崖っぷち」の状態なんだと思います。これを「指導」という名のもとで指摘や叱責するのではなく、よく観察し理解してあげることが不足しているのではないでしょうか?
 この場合の、「知恵」というのは、対処法や解決策を選択肢としてもてるかどうか・・・ということになると思います。

 私が思っているのは、ただ単にスキル不足(俗にいう下手)な状態であっても、ゲームや試合に前向きに最善を尽くさせるということが、いかに難しいかということです。
 例えば、バレー初心者にとって、特に難しいことが多いレセプションなどでは、スキルが十分ではなく練習でも返球確率が悪い状態で試合にのぞんだとき、おそらくとことんレセプションで失点を重ねると思います。そうなると、やはり本人は気まずくなり滅入ることが多いです。自分で何とかしたくても、その場でスキルが向上することはまずないです。そうなっていくうちに、委縮や恐怖が生まれてきて、身体が硬直し、ますます調子を落とすのだと思います。
 ですから、ある程度「スキルのバックボーン」というものが、メンタルに反映されるのだと思います。気を付けたいのは、スキルか?メンタルか?といった二元論や二者択一論ではなく、スキルが一段レベルアップすれば、メンタルもそれに伴って向上し、そこから生まれてくるプレーや感覚が、さらに個人のスキルアップを確かなものにする・・・そういったスパイラル過程を認識しておくことが大事だと思います。
 したがって、選手のプレー特に、エラーやミスを眼にしたときに、どのような言葉がけや働きかけをすべきか?というのは、そのスパイラル過程の見極めが生命線になるんだろうと思います。

 初心者は、あたり前ですが、想定通りになどいくはずがありません。初心者にとって、バレーボールは、とにかくボールの自分の身体も言うことを聞いてくれません。狙った通りにプレーすることもあり得ません。選手本人ですら意図もしないことがあちこちに起こります。修正などという作業もしにくいです。
 そういった初心者を率いるとき、次々と起こってくるハプニングやパニック・・・それらにどう指導者が働きかけるか、そしてそれをどのように教材化、教訓化するか。そのためには、やはり「プレーヤーズ・ファースト」、「アスリート・センタード」の立場に立ってよく「観察」し、指導者はいろんな仕掛けを提供してやる的な感覚ってとても大事だと思います。
 そうした時に、選手は自分の足りない部分や弱さを、冷静に分析し受け止めることができると思います。そしてそれが失望やあきらめにならず、次への課題やテーマにつなげることができるのだと思います。指導者も、結果に悲観的否定的にならず、すぐさま次への策を期待感をもって考えることができるのではないかと思います。

 人間誰だって、何事もやりはじめは上手くいかないもの。そのもどかしさや苛立ち、そういったものに指導者自身が理解をし、受け止めてコーチングしていくことこそが、「初心忘るべからず」なんだろうと思います。
 バレーボール初心者が試合で見せる、委縮や不安・・・それをその場で吹き飛ばすことを要求するよりも、まずは自分自身が認識し自覚を促すこと。そしてそこから、今できそうな行動を決断させること、メンタルの問題だとか、スキルの問題だとか、そんな高尚な論点より前に考えておかねばならないことなのかもしれません。

「褒めて伸ばす」を考える

 世の中で言われている「褒めて伸ばす」とか「褒めれば伸びる」という考え方を、否定はしません。しかし、ともすると「褒めればよい」と勘違いをしている人が増えているような気がします。「褒めれば伸びる」というのは、ひとつの結果であって、それがすべてに当てはまるものではありません。一方で、「褒められないと伸びない」子どもが増えていくように感じます。「褒める」というのは、「叱ってはいけない」と同義ではありません。また、コーチングが「褒めるか?叱るか?」の二つにひとつしかないか?これも違うと思います。褒めるも叱るも、ひとつのリアクションでしかないし、アプローチの手法のひとつでしかないです。だから余計「褒めれば伸びる」だけに焦点がいくのは、少々疑問が残ります。さらには、「褒めて伸ばす」だけをやっていくと、効果は一時的なものであり、その後あまり効果を発揮できなくなることも事実です。

 まずは、「褒める」というものが、対象にとってどのよう場合に効果を与えるのか?を考えなければなりません。とにかく「褒められないと伸びない」になるのだけは避けなければなりません。
 
 褒めて伸ばすには、「前提」が必要なのだと思います。

前提として、
自分自信に課題意識があり、無駄に自己評価が高くなく、向上心があるということ。
現実の自分、うまくいっていない部分や他と比較して足りない事実を受け入れる状態にあること。

これらの点において、自分自身と向き合うことができているか、
感情に左右されることなく、自分を客観視することができるかどうかは重要だと思います。
これらがないまま、「ただ褒める」となると、「間違った自信」や「過信」を生み出すと思います。

 自己肯定感、自己効力感、自己有能感・・・

 次に、褒めて伸ばすには、「次への一歩」が生まれるかが必要です。

褒められて「うれしい」、「安心する」だけでは、伸びません。
褒められることによって、「次もこうしてみよう」、「次はこんなことをやろう」と思えるかどうか。
だから、ただ感情面で褒めるのではなく、「何が良いのか」を伝えなければ意味がありません。
また、結果だけを褒めてもしょうがありません。
なぜなら、その結果は、どのような努力や良い部分が働いているかを伝えていないからです。
伝えていないと、その良い結果を再現することができません。
これも「次への一歩」がない場合だと考えられます。

結果は、次の行動の材料。いい悪いではなく、どんな材料になるかの情報やジャッジなのだと思います。
褒めるというより、「認める」「励ます」「勇気づける」の方がいいような気がします。
いい結果に対しても励まし、勇気づける。
失敗に対しても励まし、勇気づける。
共通しているのは、「次を考える」ということ。「次への行動」を引き出すこと。
ですから、これらは褒めても叱ってもできることだと思います。

叱ることよりも褒めることが脚光を浴びてきた背景には、
叱り方が間違っていることが多かったからだと思います。
感情に任せて叱る、何が足りないかのフィードバックがないままに叱る、選手の意図や試行錯誤を理解せずに結果だけを叱る。
でも、これは、「ただ褒める」時の問題点と同じだと思います。

「やる」自体を褒める。トライやチャレンジを褒める。「試行錯誤」を認める、行動の一歩を褒める。
一方で、あきらめや消極性、短絡的な思考欠如や、チームワークを乱す。こういったプレーは叱らねばなりません。

とにもかくにも、「自分と向き合う」という機会や、向き合える能力を育てることが大事だと思います。
「褒める」を特効薬と感じている人が多いように思います。
褒めればいいのではなく、どのように褒めれば伸びるか、どこを褒めれば伸びるのか、いつ褒めれば伸びるのか・・・を常に考えておくことが大事だと感じています。そして「叱る」も同様だと思います。
「褒める」と「甘やかす」とは違うと思います。「褒める」は乱発しても効果は薄まります。何をもって褒めるか、その基準は初心者のその後の伸びしろに大きな影響を与えるものとなります。


(2016年)