査読制度の深い病理

 福井大の教授が自分の論文の査読者(ピアレビュー)に千葉大の教授を推薦し、自分で審査結果を書いて千葉大教授に送り、千葉大教授がそれをコピペして自分で審査したことにした、という不正があった。
この件について毎日新聞が詳しい論説記事を書いている。

毎日新聞は科学に関して非常に深い記事をしばしば書いており、この論説も非常に詳しく、正確で客観的な内容である。

毎日新聞の論調は、福井大・千葉大の教授らの不正はあり得ないし、言語道断であるというものである。私も基本的には僕も同意見だ。しかし、現場の人間としては、査読制度の闇はこの問題よりもはるかに深いと感じている。

具体的な体験を話すと、僕がある論文を投稿する際には通常、5名の研究者を査読者の候補として推薦する。どの人も僕の研究内容を良く理解してくれている人だが、同時に、当然ながら僕に対して批判的は選んでいない。というかむしろ、どちらかというと、というかかなり僕に好意的な人を選んでいる。と、ここまではいつもの話で何も問題はない。
さて、ある論文を投稿してから数日後、僕が推薦した研究者の1人(外国人)からメールが届いた。内容はこんな感じだ。

やあ、***、最近はなかなか会えないけど元気かい?
相変わらず良い研究をしているようだね。
さて、僕の所に下記のような査読の依頼が来たんだけど、とても良い論文だね。どうやって答えたらいいかな。文面を送ってくれるかい?
また学会で会おう!

原文はもちろん英語だし、結構昔の話なので細かいところは違うと思うが、だいたいこんな感じのカジュアルさであった。彼のメールに、査読文面案を返信すれば、今回の福井大の事件と同じ不正に手を染めることになる。

僕はさすがにまずいと思い、こう返事した。

やあ***、元気にしてる?
査読が行ったようだけど、しっかり読んで審査してもらえるとうれしい。文章を僕が書くのはまずいから、忙しいところ悪いけど、あなた自信で書いてくれるかな。厳しい指摘をしてくれて構わないよ。
またそのうちビールを飲もう!

査読者は秘密であることが鉄則だから、この文面を送った時点で研究不正にあたるかもしれない。正しいやり方は、エディターに告発して、別の査読者を選ぶよう伝えるべきかもしれない。しかし、一つだけ言えるのは、恐らく彼1人の問題では無く、彼の国ではこんなメールが当たり前のように飛び交っているのだろうと推測できることだ。
ここまででは無くても、査読した人が、論文の著者に対して、「あの例の論文審査したよ、めっちゃ良い評価しておいたよ」みたいなことを伝えているのは何度も目にしている。日本でも海外でもだ。

もう少しオフホワイトなところでは、査読者が、この論文を引用せよといって、不自然に論文を挙げてくることがある。ボロクソな評価をしているときにはそんな提案は無く、たいていベタボメしているときだ。

理由はわかるだろうか。研究者ならたいてい知っているはずだ。

その論文の著者こそ査読者であり、私はあなたの論文を査読してサポートしましたよ。この恩と友情を大切にしましょうね。ってことだ。こうすることで、匿名のはずの査読システムで、合法的に、著者に対して査読者を匂わせることができる。これで査読者は投稿者に恩を売ることができ、自分の論文を通しやすくしたり、いろいろ便宜を図ってもらえるのだ。
念のため、僕は投稿者で、知らない査読者が査読文としてやってくるということだ。日本人はまだ潔白な方でこういうやり方は少なく、外国の研究者に多い。

このような現状を踏まえると、今回の査読不正事件は、もちろん現在の科学社会を揺るがす問題だが、同時に、査読システムそのものに根本的な問題というか歪みがあることに目を背けてはいけないとも思う。

僕の考える査読制度の根本的な問題は次のようなものだ。
(1)査読を行う人は一切の報酬が無い完全に善意のボランティアで成り立っている。
(2)研究者の人生は、論文が掲載される雑誌の種類に決定的に依存している。雑誌への当落はこの査読制度によって決まる。
今は世界的に研究競争は激化していてイイ雑誌に沢山論文を通したかどうかで研究者の人生はガラリと変わる。この査読ボランティアが成り立たないくらいくらい過酷である。たとえ衝撃的な内容で、緻密に構成された素晴らしい論文であっても、聞いたことのない雑誌に掲載されれば評価は低くなる。少なくとも国際的には評価されない。一方、おかしな部分を含む論文でも、自分の論文がNatureに通れば一夜にしてスーパー研究者の仲間入りである。この運命の分かれ道となる、どの雑誌に通るか通らないかを決めているのが、過酷な競争に晒されている人たちのボランティアで成り立っている。
(3)研究はワールドワイドである。みんなが倫理的ではあり得ない。
また、まともに査読できない研究者が増えている。

世界的に大学・大学院の教育システムが崩壊しつつある。マシなのはヨーロッパ・日本・韓国くらい。その他の地域にもまともな研究者はいるが、そうで無い人も大量にいる。
(4)研究分野が多様化していて、同じ分野の研究者でも審査が難しくなっている。革新的な内容を評価するのは大変で、少なくとも時間がかかる(良いこと)

この結果、査読とは、エディターに良く思ってもらい(エディターへの接待)、よくわかっていないナイーブで優しい査読者に運よく当たり、良いことを書いてもらう(査読者ガチャ)というゲームと化している。(もちろんこれは極論である)

これに対して、最近、査読システムの改善の動きがある。しかし僕に言わせればそんな小手先の改善では査読の闇は解決しない。
(A)査読結果を公開し、ショボい審査や偏った審査は公開処刑を食らうようにする
ゼロリターンの仕事にリスクを負わせようというのが根本的に間違っている。まともな研究者がますます査読から逃げるだけ。
(B)査読者の推薦制度をやめるべき
→正論である。でもやめる雑誌社は少ないだろう。推薦をやめれば査読により時間がかかるようになり、人気を落とすだろう。これは雑誌の損益に直結する。論文誌の利益率は30~40%もある。以前は僕もこの強欲な姿勢には批判的であったし、今も好かない。しかし重要なのは、論文雑誌は利益団体であるので、利益を減らすことはできないのだ。
(C)リジェクトされた論文の査読結果を次の論文に伝える。
→研究者が体裁だけ全く違う論文に仕上げて再投稿するムダがふえるだけ。個人的な肌感覚では、査読結果の善し悪しは、50%程度がガチャである。独創的で一分の隙も無い論文に対して「つまらない」の一言で落とされることもあれば、隙だらけで正直自信が無い論文が絶賛されてすんなり通ることもある。リジェクトされた論文の査読結果というのは要するに外れガチャなので、トランスファーされても投稿している方からしたら良いことは何も無い。論文が人生を左右するのだから、研究者は通すために最大限の努力をするのは当たり前である。トランスファーが義務化されたら、厳しい査読を受けたら、体裁だけ全く違う論文に仕上げて再投稿するだろう。

ちなみに、研究はグローバルなので、研究倫理もダイバーシティがある。国によっては上記の体裁だけ変えて同一雑誌に再投稿する研究者も多い。多くの雑誌では、同一の研究内容を同一雑誌に再投稿することを禁止しているにもかかわらずである。

まとめると、この査読不正の問題は研究社会を揺るがす大問題だが、その根本原因は、論文にまつわるシステムの欠陥にあると僕は考える。研究者はできるだけ多くの論文を良い雑誌に掲載されるかの競争をしていて、一方で雑誌はできるだけたくさん論文を読んで引用してもらう雑誌を集めようと競争している。ここには、論文審査プロセスをできるだけ甘くしたいという共犯関係がある。
つまり、今後もこのようなことが繰り返される可能性が非常に高い。実際、他の国でこういう不正の話を耳にするというのは上に書いたとおりである。

ちょっと追加:
査読システムは上記のとおりちょっと歪んでいて、倫理的にも問題があると感じるが、その割にあまり叩かれていない。一つだけ最後に指摘しておきたいのは、この査読システムによって恩恵を被っているのはヨーロッパの主要国やアメリカであり、日本・中国・インドが損している側の代表だ。今権威のある雑誌はほとんど英米、わずかに独仏オランダというあたりである。これらの雑誌は今や商業主義的になっており、50%近い利益率をたたき出すぼろ儲けの商売をしている。査読者は彼らのこのぼろ儲けをアシストしているわけだから、その利益の一部が査読者に回るのが自然である。その一方で査読者は論文審査に有限の責任を負うべきだ。査読者としての国際的な資格制度があっていいと思う。ただ、欧米のいつくかの国にとっては、査読システムを抜本的に改革すると国益を損なう。
個人的な感想としてはこういう、日中だけ損すれば世界がまわる、というような状況は、歪んでいてもなかなか改善されにくいように感じる被害妄想はある。

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