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小説 晩夏の蜃気楼

夏の暑さはいよいよ猛威を振るい、都会から追い立てられるのに十分な理由ではあった。田舎に身寄りはなかったが、不本意にも民宿に連泊することになった。
巷では文豪宿なるものが流行っているらしく、本来であれば大正・明治時代の文豪の缶詰め具合を体験するといったものだそうだ。その流行に乗ろうとしたのかしなかったのか、こちらの宿ではサービスを減らす代わりに連泊費用を安くしてくれると言った大変実用的なプランだった。
「文豪宿なんてものより、こちらの方が先生に合っていますね、ね。」
緑、緑、緑。何もない道が過ぎゆく車窓を眺めていると、うだうだと講釈を垂れていた担当編集の笹田の声が耳に届いた。「先生に合っている」だとか、良く言えたものだ。編集と作家ごときの間柄で、一体何を知っているというのか。
こっそりふうとため息をつく。早くも家に帰りたい。多少散らかっていても安心できる自宅で、外敵のいない布団にくるまりたい。自分に合っている方法は、見ず知らずの人間に囲まれる外泊なんかではなく、自宅で締切ギリギリまで寝て過ごすことだ。
だが、仏の顔も三度まで。締切時間は大抵0時なのだが、毎度翌朝9時前に出せばいいと思っている。それをついに見破られた。どうせ9時から仕事をするなら、それまでに間に合えばよいのではなかろうか。
扇風機の生ぬるい風に揺られて眼前を遮る前髪に苛立ちながら、汗だくになって執筆をしていたところ「気分転換に冷たいものでも召し上がっては」と言われ、騙される形でここまで来てしまった。後部座席からミラー越しに睨まれているのを気付いているに違いない。先ほどから笹田がくどくどと弁明している。
笹田の車は古く、エアコンから出る風は臭いしうるさい。狭い車中は一層煩わしく、居心地の悪さに身を縮めた。

「それではよろしくお願いします。早めに終わらせて打ち上げに行きましょうね!」
なんて不吉な捨て台詞を残し、笹田は小さな車に身を押し込めながら元来た道を去っていった。誰が行くものか。
踵を返すと、初老の女性が荷物を持とうとしていたので慌てて止めた。なんてことのない量の荷だが、自分の母親より年上そうな方に荷物を持たせるわけにはいかない。
案内人はこの女性ひとりで、庭は完璧に手入れされているわけではなかった。拉致られた先のこの場所は、見たところ一般的な古民家と言ったところだった。
通された部屋は自室よりは広いが、人の家の匂いがして全く落ち着かない。心なしか線香の香りがするようだった。仏間の隣なのではなかろうかなどと訝しみながら荷物を広げる。


ふ、と顔を上げると、剥かれたリンゴがガラス皿に盛られ、座敷机に置かれていた。自分が集中していたので声をかけずに置いて行ったのだろう。南中にあった太陽もいつの間にか傾き、紅色に射していた。我ながら現金なものだ、早く帰りたいあまりこんなに筆が進むとは。自虐の笑みを浮かべながら腰を浮かせ、机上のリンゴに手を付ける。口をつけると、塩水のしょっぱさが舌先に触れる。最後まで綺麗に食べてもらおうという気遣いが窺い知れてまた口の端が上がった。
そんな折だった。

「りんご」
ぽそりと落ちる、感情の薄い声が耳に届いた。怪訝に思い顔を上げると、押し入れからこちらを覗く2つの光と目があった。
一瞬猫か何かのように思えたそれは、手のひら、頭、脚の順にそろりと這い出てきた。浴衣からすらりと伸びる体躯は成長期を思わせる。中学生ほどの子供であった。
肩上で切り揃えられた、少年にしては些か長めの髪を揺らして立ち上がる。気まずそうに腕を後ろに組み、ちらりとこちらを見やる。
「お客さんですよね。ごめんなさい」
この家の子供だろうか。少し着崩れた浴衣を見るに、おおかた空室で昼寝をしていたのだろう。勝手に納得しつつもしげしげと頭のてっぺんから足のつま先まで見てしまう。人を観察するのは最早職業病と言っていい。
「あの」
おずおずと声が上がる。
「怒ってますか?すみません」
「いや、そうではなく」
慌てて訂正する。自分もじろじろと見てしまったため気まずさにたじろいだ。
りんご。最初に聞こえた声を思い出す。
「……りんご、食べる?」
「食べていいんですか」
遠慮がちな物言いをしつつも、目はしっかり手元のりんごに向いていた。正直な反応が心地よく、すっと皿を差し出した。少年はいただきます、と言ったあとしゃくしゃくと小気味良い音を立てながらりんごを頬張る。それを見て、自分もひとつ口に放り込む。
少年は口の中の物を飲み込むと、すぐ次のりんごへ手を伸ばした。そしてまた飲み込み、もうひとつ。
しゃくしゃく、しゃくしゃく。座敷机を挟んで咀嚼音だけが響いた。何故かその様子に気を取られ、ぼんやり眺めている間に皿が空になっていた。
「ごちそうさまです!」
ぺこり、勢い良く頭を下げたかと思うと、にわかに立ち上がり縁側の方へ駆け出す。あっという間のことだったので、残されたのは空になった皿と頭に残る咀嚼音のみであった。
「な、なんだったんだ?」
呆気に取られて何の事情も聞き出せなかった。ややあって机に向き直り、再び筆を執った。目的は早く原稿を終わらせ、一刻も早く帰ること。不躾な子供の謎を追うことではないのだ。

数日客室に閉じ籠り、原稿はみるみるうちに進んで行った。その間もりんごが差し入れられ、そのたびにどこからともなく少年が現れてはご相伴に預かる。最早猫だと思うようにしていた。
しゃくしゃく、しゃくしゃく。
部屋に響くのは少年がりんごを齧る音のみで、2人が交わす言葉はほとんどなかった。だが、それでよかった。不思議なもので、その音を聞きながら原稿を進める時間が楽しみになっていった。


ついに、原稿が完成した。その日もりんごは差し入れられ、少年がやってくるのを待った。
「今日で帰るよ」
一応声をかけてみるものの、少年の興味はりんごにしか向かないようだった。咀嚼音を聞きながら、今日は帰り支度を進める。しゃがみ込んでぱたん、と荷を閉じた時だった。
「本当に帰っちゃうの?」
耳元で少年が囁いた、ように思えた。
「ああ、こんな所早く出たい」
そう答えるや否や、背筋が寒くなった気がした。異質な圧迫感が背後からするのだ。ギョッとしてそちらに顔を向ける。少年の真一文字に結んだ口が目に入る。いつもは見下ろしていた少年の顔が上にあることに気づいた。立ち膝をしているからだ。自分の肩に手を乗せてくる。妙に妖艶で、気持ちが悪い。口だけがゆっくりと動く。
「君だけいくなんてずるいよ」
何故か、顔がこれ以上動かない。上を見上げて少年の表情を確認しようにも、わなわなと震える口元しか見えない。刹那、ガタンと縁側の扉が揺れる。
パッとそちらに顔をやり、少年から目を背けた。
「ああ、もう秋が来るんだ」
ぽつりと脈略のない言葉が聞こえる。確かに、夜がだんだんと冷え込むようになっていた。それがどうした。
「また会えるといいけどね」
肩に触れた手がぱっと離れる。振り向くと、そこにはもう誰もいなかった。


原稿を笹田に渡し、また狭い車に詰め込まれて慣れ親しんだ都会へ帰る。少年は、帰るまでの一度も姿を現すことはなかった。
自宅の夜はじっとりと暑く、宿で過ごした段々と冷えていく夜が嘘のようだった。あるいは時を戻したかのように、元の暑い夏だ。部屋には咀嚼音ではなく、蝉時雨が響いていた。


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