見出し画像

黒い羽根

 黒い羽根が落ちていた。艶々としていて濡れているようにも見える。足早に皆が通りすぎている合間にも踏まれそうだが、手を伸ばした時は奇跡的に綺麗なままだった。指の先で羽根を拾った。烏の羽根のようだった。
 羽根を片手に空を見上げてみるが鳥はいない。もちろん烏もいない。いつ落ちたのだろうか。羽根をポケットに入れると、再び歩き出した。

 駅の階段を上がると、乾燥した風が吹き込んでくる。鼻先が一気に冷えて、くしゃみが出た。喉元のマフラーをかき合わせて、急ぎ足に階段を駆け上がる。
 風が収まり、澄み切った空が広がった。枯れた葉っぱが足元をカサコソと通り過ぎて行った。駅前のからあげ屋を通り過ぎ、機械音の鳥の鳴き声にせかされるように横断歩道を渡る。
「もうすぐ雪でも振りそうだな…」
 ぽつりと呟いた。ふと目をやると、横断歩道の向こうで小さく手を振っている女がいた。僕以外の誰かに対してだろう。僕は気にせず横断歩道を渡り切る。
「ちょっと」
 女の声がする。僕は通りすぎようとして、腕をとられた。
「あなた」
「え?」
 僕はキョトンとして、女の顔を見返した。少し流行遅れのメイクに、伸ばしっぱなしに見える髪。服装はかろうじて清潔さを保っているといういう程度で、気にかけている様子は伺えなかった。歳は三十後半から四十代前半だろうか。もう少し身嗜みをきちんとしていれば、美人の部類かもしれない。
 彼女は赤い唇を開いて、ぽつりと呟いた。
「あなたよ」
「なんですか」
「あなた、黒いわ」
「え?」
「黒い影が見えるわ。気をつけて」
 女は静かにそう言って、そっと手を離した。
 おかしなことを言うと思ったが、女は正気を失った風にも見えない。
「黒い影ですか?」
 僕は思わず問い返した。しかし女は何も言わず僕をじいと見つめ、やがて急に踵を返して僕が向かおうとした方向とは逆の方向に歩き出した。あまりに急なことに、僕は呆然として女に掴まれた腕をごしごしとさすった。周りの人々は何も見なかったように通り過ぎて行く。
「なんなんだ…」
 ふと寒さが蘇ってきて、僕は身を震わせた。ポケットに手をいれると、指先をチクリと刺すものがあった。取り出してみると、さっき拾った烏の羽根だ。先端が割れて鋭く尖り、僕の指を刺していた。指先を確認してみると、赤い色がぷっくりと膨れ上がっている。
 僕は指を口に加えて、口に広がる血の味に顔をしかめた。
(黒い影…)
 なんだか烏の羽根が不吉なもののように思えて、道路に捨てた。轟音をたてて通り過ぎていくトラックの風を受けて、羽根はふわりと飛んで見えなくなった。
 僕は再び歩き始めて、女のことは忘れてしまった。

 僕は赤ん坊のように丸くなって眠っていて、泥のように黒いものが覆いかぶさってくるのを感じた。泥は人の腕になり、指になって僕の肌にまとわりつく。息苦しくて、必死に息をした。まるで水中に落とされたかのように酸素は欠乏していて、肺から搾り取られていく。
 ハッと目が覚めて、僕は寝室のひやりとした空気を感じた。息ができる。それだけのことが驚きだった。何度か瞬きをして、額に腕を乗せる。あの泥のような重苦しさはなくなっていた。
 女の言葉が蘇る。今考えるととてつもなく不気味なことだったのではないだろうか。言われた時は何がなんだかわからなくて、よく理解していなかった。
 僕は薄ら寒いものを感じて、部屋の電気をつけた。テレビにぼんやりと僕の顔が反射している。布団から立ち上がると、冷蔵庫に入れておいた麦茶をコップについで、一気に飲み干した。
 それからはまた眠る気にもならず、明るい部屋で朝になるのをじっと待った。
 朝になるとシャワーを浴びて歯を念入りに磨き、顔をもう一度洗った。ねっとりとした気分の悪さが取れない。
 特別おしゃれでも流行遅れでもないパーカーを着て、ジーンズを履くと、ダウンジャケットを羽織る。バイトの出勤時間になったので、部屋の鍵をかけて出かけた。
 大学では美術を専攻していたが、今日は何の講義もない。貴重な時間でわずかなお金を稼ぐ。大学での経験はとても充実していて興味深いが、時々何かに置いて行かれたような気分になることがあった。それが何かはわからない。
 バイト先のカフェまでぶらぶらと歩く。それくらいの時間をみて部屋を出ていたので、ゆっくりと景色を眺めて歩いていける。
「カァー、カァー」
 烏の声に顔をあげると、すぐそばにあるビルのアンテナに烏が止まっていた。興味深げに首を左右に振りながら、時折くちばしを開いて独特の鳴き声を上げる。
(そういえば…)
 人差し指の腹にできた痂に触れて、烏の羽根のことと、女のことを思い出した。
 そして自分の影に目を落とす。僕の体のラインに沿って、何かもやもやしたものが纏わりついていた。道路の模様かとも思ったが、まるで蜃気楼のように影が揺れているのだ。しかもわずかに大きい。
 少し歩いて建物の影に入ると、僕の影はより濃くなった。片足を上げてみると、影も片足を上げる。しかし、やはり少し大きい。
 それから僕は自分の影の観察をはじめた。

 部屋の中ではいつもの自分の影だった。蛍光灯に照らされて、輪郭もはっきりとしている。鏡を見ても、いつもの自分の顔があるだけだった。試しに少ししか生えない髭を剃刀で剃ってみるが、やはりいつもどおりだ。自分の顔を見つめ続けて、だんだん自分の顔がどうだった思い出せなくなりそうで鏡の前から退いた。
 夜、眠気を感じて布団に入ってから眠りにつくのは早かった。しかしやはり泥のようなものが纏わりついて、離してくれない。やがて息が苦しくなって、空気を吸おうとするができない。それどころか、指ひとつ動かせない。目だけがわずかに動き、布団の周りを見ると黒く細長いものが無数にいた。それは僕が横になった布団をぐるりと取り込み、くねくねと動いている。その動きは虫のようにも動物のようにも見える。
 僕は震えて目をこじ開けるように見開いた。何かに解き放たれたかのように手足が動き、布団を跳ね飛ばした。あわてて電気をつけると、そこには何もいなかった。
 蛍光灯にさらされて落ちる影を見ても、何もない。
(なんだったんだ…)
 冷や汗で体が冷え、気分が悪かった。シャワーを浴びたかったが、浴室に一人になるのは厭な感じがして肌着を着替えるだけにした。
 やはり朝まで眠れず、朝を迎えるとようやくシャワーを浴びて冷えた体を温めた。それから歯を丁寧に磨き、身支度を整えた。今日は大学で講義があるのでリュックに画材と教科書を入れ、課題作品の入ったポートフォリオを持つと、早めに部屋を出た。スニーカーに踵をねじ込みながら鍵をかけて、失くさないようにいつものポケットに入れる。
 最寄りの駅まで歩道を歩きながら、自分の影に目を落とした。朝日を受けて、鋭い影のラインができている。しかしやはり、もやもやとしている。そして大きい。濃いような気もする。
 すれ違う人々は僕の影になど興味は示さず、忙しそうにどこかに向かっている。ふと思い立って、スマートフォンで影を撮影してみることにした。写真にはどう映るだろうか。少し怖かったが、好奇心の方が勝った。
 通行人の邪魔にならないように空いたコインパーキングに入ると、スマートフォンを取り出して影を撮影した。
 日陰でじっくりその画像を見ると、普通の影だ。どうやら僕の影の変化は機械には残らないらしい。それでは僕の幻覚か見間違いだろうか。
 この二日ろくに寝ていない。確かに寝不足が原因かもしれない。それとも脳のどこかで何かがいたずらしているのかもしれない。現実的になろうとするたびに、あの女の顔と冷ややかな夜中のワンルームを思い出す。
 僕の影は何者になってしまったのだろうか。

「ブレンドコーヒーひとつ」
 ホールの女の子に声をかけられて、僕は我に返った。僕はバイト先のカフェのキッチンにいた。お湯が沸く音を聞きながら、ぼんやりしてしまったようだ。
 清水と彫られたネームプレートを胸につけた彼女は、怪訝そうに僕を見つめていた。
「ブレンドコーヒーひとつ、お願いします」
 彼女がもう一度言う。僕は頷いてコーヒーを淹れる手順に入った。彼女は少し怪訝そうにしながら、新しい来客に水を出すべくミネラルウォーターの入ったボトルを持っていった。
 コーヒーを窓口から出すと清水がコーヒーをトレイにとり、入れ替わりにサンドイッチのオーダーを通した。
 僕は袋からふんわりした薄切りのパンを取り出してマヨネーズとマスタードを塗ると、パリパリのレタスをしき、薄くスライスしたきゅうりを並べる。同じく薄くスライスしたハムをもう一枚のパンで挟んで、両手を広げてそっと全体をおさえてしばらく待った。全体が落ち着いたら耳を切り落として、一口サイズに切りそろえてプレートに並べる。彩りのパセリとプチトマトを添えて、カウンターへおいてベルを鳴らした。すると清水がすっとやってきて、プレートを華麗にトレイにのせて運んでいく。僕はそれを見送る。
 ひと通り作業を終えると、暇を見て下げられてきたカップやソーサーを洗う。こういう作業は嫌いじゃない。整理整頓された作業を繰り返すことで、頭のなかがすっきりとしてくる。気持ちも落ち着く。
 パン切り包丁の水気をタオルで拭いて、決まった位置に置いた。そうしてひとつ息をついて、足元を見た。
 僕がバイトをしている間、僕の影は何をしているのだろうか。今日キッチンに立った時に足元を見たが、清潔な光を落とす蛍光灯の下ではただの影だ。足元にぽとりと落ちた薄黒いスポットだ。
「今日はなんかぼーっとしてたね」
 バイトを終えて、清水が声をかけてきた。僕はエプロンをハンガーにかけると、少し笑った。
「ちょっと気になることがあって」
「好きな人でもできた?」
「そうじゃないよ。変な人にあってね」
「変な人?」
「うん。黒い影が見えるとかって言われて」
「ええ? 影は黒いんじゃないの?」
「そうなんだけど…、まあ、そうだね」
 僕は苦笑して、清水に同意した。太陽の下で見ると影にもやがかかっていること、夜にうなされて奇妙なものを見ることは言わなかった。僕自身それらを確かなこととして信じきることはできなかったし、まだはっきりと感じることはできなかったからだ。
 清水は童顔を怪訝そうにして、僕が黙っているとにこりと笑った。
「あんまり悩んでると眉間に皺ができちゃうよ」
「そうだね。気をつけるよ」
 僕は苦笑して、自分の眉間を指で揉んだ。
 清水はジャケットを羽織ると、短いスカートを翻して「じゃあお先」と言ってカフェの裏口から出て行った。ふんわりと甘い香りが残る。
 窓から外を覗くと、満月だった。月の下で僕の影はどう動くのだろうか。僕はロッカーを閉めると、店長に挨拶をしてカフェを出た。
 帰路につくサラリーマンに混ざって、影へ目を落とす。月光は思った以上に明るく、外灯もあり様々な影があった。僕の影はやはり周りの影より濃くいつもより大きく見えた。ざわざわと音が聞こえてきそうなくらい揺らいでいる。満月は影を強くするのだろうか。
 僕は今夜も眠れないことを覚悟した。

 デッサン用の石膏像を見つめて、じっと影を観察する。鉛筆を寝かせて、濃い影をつけていく。デッサンの授業は好きだった。皆が鉛筆で紙を擦る音だけが響いて、精神が研ぎ澄まされる。コーヒーを淹れるのとはまた違った感覚だった。
「影が濃いね」
 突然言われて、僕はドキリとした。落としそうになった鉛筆を受け止めて、顔をあげるとデッサンの講師が僕の右側に立っていた。セーターを着た講師は目を細めて僕のデッサンを眺めて、少し首をかしげる。
「もう少し慎重に影を追ってみて。全体の雰囲気はすごくいいよ」
「はい、ありがとうございます…」
 影が濃いね。講師の言葉が頭のなかで繰り返される。そうだろうか。僕は目を細めて自分が描いたデッサンを観察した。ファルネーゼのヘラクレス像だが、ひと束ずつ立派な髭を描くのが難しい。首をかしげているポーズで窓から入る自然光では僕の位置からは掘り深い顔の半分が影になっている。この影が濃いというのか。
 僕は手に持ったデッサン用の鉛筆を見つめた。柔らかく濃い色を出す鉛筆だ。周りの生徒のデッサンを眺めると、まだ慎重にポーズを決めている者、影から彫刻を作り上げるように形を掘り出す者など描き方は様々だ。僕が描くヘラクレスだけが影が濃いとは思えなかった。練消しゴムを練って、影を薄くしていく。僕の影も薄くなるだろうか。

 女の声がする。僕はコーヒーの香りを感じながら、頭の奥で声を聞いた。大学から直帰してワンルームに戻ると、僕は迷いなくコーヒーを淹れた。そのうちサイフォンを買いたいと思うが、今はまだ紙のコーヒーフィルターを使っている。空腹を感じたので、パスタを茹でた。茹で上がるまでの間にオリーブオイルで唐辛子とニンニクを炒め、茹で上がったパスタをさっと絡めた。テレビをつけると、ニュース番組が放送されていた。それを流し見しながら、パスタを口に運ぶ。少し物足りなかったので、トマトをサッと切って塩コショウを振って食べた。
 食器を洗うと洗剤が飛んで袖口が濡れた。ついでに遅くなる前にシャワーを浴びようと鏡の前に立って、改めて自分の顔を見た。少し痩せたようだ。目の下の隈もひどい。満足に眠れていないのだから、しかたがないだろう。急にシャワーを浴びたい気持ちが失せて、濡れたシャツを着替えるだけにした。
 布団に横になって、明るい天井を見上げる。外は暗いが、僕の部屋は明るい。そうしていないと、影に飲み込まれそうに感じるからだ。目をつぶると、泥のような感触がよみがえる。だから明るい天井を見上げ続けた。
 やがて寝不足の鈍い頭痛と目眩に襲われ、うつらうつらとして目をつぶった。何故か清水の顔が目に浮かぶ。彼女は笑っている。僕は落ち着いて、深呼吸をする。
 失くしてしまった烏の羽根。あれは何かのきっかけだったのだろう。羽根を拾ってからきっと僕は黒い影に取り憑かれてしまったのだ。
 僕は影になった。

 僕はワンルームを出ると、歩いてカフェの前までいった。部屋着のままでジャケットも靴も身につけてはいなかったが、寒くはない。なぜかジャケットも靴も忘れていた。起きて、そのまま部屋を出てきたといった格好だった。
 カフェの店前にはいつもの手書きのメニューボードがおいてあり、清水の字で今日のおすすめコーヒーが書かれていた。カフェに入ろうか逡巡して、やめておいた。こんな格好で店内に入れるわけがない。
 僕は振り返る。僕が裸足だというのに、誰も目もくれず通り過ぎて行く。僕は電車に乗ってみた。いつもICカードを使う改札のゲートは反応せず、行く手を阻まれること無く抜けることができた。電車がきて、停車する。目の前に立つ女性の髪がふわりと揺れるが、僕はその風を感じない。電車のドアが開き、人々が次々に乗り込んでいく。僕は最後に乗り込み、ドアは僕の目の前で閉じた。
 僕に背中を向けた男性の肘が、僕の腕に触れた。まるで氷に触れたかのような冷たい痛みを感じて、僕は腕を引いた。腕が透明になっている。しかしすぐにそれは姿を現し、元に戻った。試しに男の背中に触れると、やはり冷たさを感じて指先が透明になった。チリチリと指先が痛む。満員電車に乗るのは危険かもしれない。僕は感じて、次の駅で誰にも触れないよう気をつけながら電車から降りた。
 裸足でホームへ降り立つと、人混みの少ない出口へ向かった。ゆっくりと階段を上がる。吹き込む風でコートを揺らすサラリーマンをかわすと、出口から外へ出た。太陽が僕を照らす。足元を見ると、僕の影はなかった。
 背中に突き刺すような痛みを感じて、僕は地面に両手をついて崩れ落ちた。目の前が一瞬真っ白に光る。顔をあげると、僕を通り抜けるように、まだ幼い女の子が走っていった。その背中を追いかけるように僕の一部は光のように散って、吸い込まれた。僕はあわてて立ち上がると、壁際に駆け寄った。痛みは一瞬。余韻はないが、生まれて感じたこともない激しい痛みだった。鼻がツンとしたが、涙は出なかった。
 人を避けながら大通りを抜けると、大きなデパートの入り口に立った。出入りする人混みをかわして、中に入る。中はとても明るく綺羅びやかだ。海外資本のコスメブランドショップがずらりと並んでいる。僕はデパートは嫌いではないが、このフロアはとても居心地が悪く感じる。もちろん僕とは縁のないツールが並べられているということもあるが、独特の強い香りやキラキラ輝く内装、病院のように清潔を極めたような服装が苦手なのだ。店員の濃いメイクも好みではない。
 すぐにエスカレーターに乗って、次のフロアへいく。男性用洋服ブランドの階でおりた。いつもなら声をかけてくるショップ店員が気になってじっくり見ることはできないが、今日はゆっくり時間を描けて眺めることができる。眉と髭を整え、頭から爪先まできっちりと着こなした店員には今の僕の姿は見えない。
 レールに規則正しく並べられたスーツのジャケットを観察する。肩のラインから腕にかけての縫製が素晴らしい。生地もいいものが使ってある。大学の入学式に着たスーツは量販店の安物だった。高級なスーツをいつかは着こなしてみたいとほのかな憧れがあった。それにはまだまだ僕の中身が未熟に感じた。しかし美しいものを眺めているのは楽しい。次にベルトを眺める。艶やかな皮と上品なカーブのバックルが素晴らしい。次のショップでは、つま先がシャープなイタリア製の靴を見た。滑らかな皮の香りが漂ってくるような逸品だ。
 ひと通りじっくりと見て回ると、まるで美術館にいるような静かな高揚感を覚えた。すべてが規則正しく並べられ、最も美しい角度で飾られている。美術館と違うのは、すべてのアイテムがその生まれにふさわしい人物に手に取られる瞬間を待っていることだ。
 残念なのは、手で触れても動かせないところだった。しかし感触はある。人に触れた時のような激しい痛みはなく、ただすべすべしているかざらざらしているか、その絶妙で繊細な手触りが伝わってくる。
 僕は満足して、階段を使って地上階のコスメフロアへ降りた。メンズスーツの観察は満足した。次はどこへいって何をしようか。僕は考えた。しかしなんでもできると思うとかえって何も思いつかない。これが中学生の男子なら、女子の更衣室に忍び込みたいとでも考えるのだろうか。
 デパートの広い壁際にそって道路を歩くと、人をかわして長い横断歩道を抜けた。家族連れや海外からの観光客であふれる広い公園に出ると、大きく息を吸う。しかしいつも感じる湿った土や乾いた冷たい空気の香りは感じない。僕の肺は空っぽのままだ。
 僕は誰もいないベンチに腰を下ろし、噴水を眺めた。そこには濁った水がたまっており、噴水が上がるたびに小さな子供が歓声をあげていた。ベンチに座ったまま、それをぼうと眺める。空腹は感じない。それが無性に虚しくなった。パリパリのきゅうりのサラダも、よく熟したトマトを煮詰めたソースをかけたパスタも、カリッと焼いたベーコンをのせたトーストも食べたいと思わない。
 やがて日が暮れて、僕は気づいた。眠気がこない。影になってしまえば当然か。妙に納得してしまった。しかし食欲も睡眠欲もなく、何を楽しみに生きればいいのだろうか。美しいものを眺めることは楽しい。しかしいつかその楽しい気持ちさえも砂で出来たパンを食べるようにザラザラとして味気ないものになってしまうのではないだろうか。漠然とした不安を感じる。僕はこのまま誰にも気付かれず、何の楽しみもなく、ただの影になってしまうのだろうか。
 月光が公園の木々を照らす。公園の目立つ位置にある時計を見ると、もうすぐ二時になろうとしていた。公園にはホームレスらしい人影がちらほらあるだけで、観光客の数も減った。昼間の賑わいが嘘のように静まり返っている。
 僕はぽつんと残された。ただ月に照らされている。無性に寂しくなって、清水の顔を思い出した。一緒にコーヒーをのみにいったこともあった。映画くらい一緒に見たかった。もう一度清水に会いたい。僕はそう思って腰をあげようとして、動けないことに気づいた。僕の体はベンチに張り付いてしまって、腕一つ動かせない。
 仕方がない、僕は影なのだ。そう思って、僕は少し驚いた。僕の感情は少ししか動かない。僕は影になろうとしている。誰の影だろうか? 僕の影か。それとも別の誰かか、誰でもない何かか。
 やがて空がうっすらと明るくなりはじめ、同時に僕の体も透き通ってきた。朝帰りの若者たちが眠そうに、そして疲れた風に公園を横切っていく。僕の体は朝日に照らされるのだろうか。影はまたできるのだろうか。そう考えながら、だんだん何かに興味を持つということがなくなってきたことに気づいた、誰にも見られず、誰を見ることもなく、何も感じない、考えない存在。空気のような存在。しかし空気は必要とされている。僕は必要とされるだろうか。答えはすぐにわかった。誰にも必要とされない。
 僕は最後に太陽を見た。僕を焼きつくす太陽。そして目の前が真っ黒になる。
「カァー」
 轟くような烏の鳴き声がした。
 影だ。新しい黒い影だ。僕は安心して目を閉じた。

 ――了――

 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 


 


 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?