虫のみる夢 7

  2

 眩しさで目が覚めた。
 部屋は明るく、カーテンが半分だけ開けられている。窓を見て、天井を見て、そして背中の痛みで、自分がようやくソファに寝ていることに気づいた。そうだった、ソファに寝たのだ。
 あれ、でもどうして……。
 寝起きのせいで、まだ頭がぼんやりとしていた。何度か瞬きをして、本棚に置いたアナログ時計を見る。十時半を少し過ぎた頃だ。思ったよりも長く眠ってしまったらしい。
「おはようございます」
 聞き慣れない淡い高いトーンの声に、首を捻るようにして顔を向けると、キッチンに肩をすくめるようにして彼女が立っていた。
「あ……おはよう……」
 タスクは反射的に答えながら、ごしごしと瞼を擦った。彼女が、幻のように思えたからだ。だが、再び目を開けても彼女はしっかりとそこに存在していた。ワンピースにカーディガンを着て、キッチンに立っている。
「ごめんなさい。台所、お借りしています」
「ああ……うん、いいよ」
 タスクは半ば寝ぼけたまま、ふらつきながらキッチンへ行った。カウンターには包丁が出ていて、薄いまな板にはすでに細かく刻まれたネギがのっていた。コンロには小さな鍋がかかり、豆腐が汁の中に浮いている。
「あ、味噌汁か」
「はい。これくらいしかできませんから」
 さっきから、米が炊けるいい匂いがしている。見ると炊飯器がセットされ、すでに保温になっていた。準備した覚えはないので、きっと彼女が早起きをして、用意をしてくれたのだろう。
「ありがとう」
 タスクは、素直に言った。
「冷蔵庫のもの、勝手に使ってしまいました」
「いいよ。気にしないで」
 冷蔵庫の中を勝手に使われようが、全く気にしなかった。そういえば、確かに昨夜、彼女は「料理もできます」と言っていた。だからといって、本当に料理をするとは思わなかった。
「お腹はすいてますか?」
「ああ、うん」
「じゃあ座っていてください。すぐにできますから」
 タスクは、彼女に言われるままにコーヒーテーブルの傍に腰を下ろし、寝癖のついた髪を撫でつけた。
 彼女はタスクが席に着いたのを確認してから、箸置きを置いて、その上に箸を並べた。そっと彼の前に差し出された彼女の指先は、細くて美しかった。
 それから飯茶碗に飯を盛り、味噌汁茶碗に味噌汁を注ぎ、器に納豆を出して醤油を添えてテーブルに置いてくれた。小松菜が油揚げと一緒に炒めてあり、ごま油のいい香りがした。卵焼きは程よく焦げ目がついて、食べやすいサイズに切り分けられている。
「どうぞ」
「ありがとう」
 箸を手に取り、ふと気になって尋ねた。
「君は食べないの?」
 彼女は少し困ったように微笑んだ。
「わたしは後でいただきます」
 そういえば、自宅にはきっちり一人分の食器しかそろえていない。一人の生活に慣れすぎていて、時には人のための余分な食器が必要になるということをこれまで少しも考えたことがなかった。
「ごめん、余分な茶碗とか食器とか全然なくて」
「いいんです。気にしないで、ゆっくり食べてください」
 それから、彼女はにっこりと笑って付け足す。
「それに、わたし、人が食べているのを見ているのが好きなんです」
 気を使っているのかどうか分からなかったが、彼女が言うのならきっとその通りなのだろう。
「そう。じゃあ、遠慮なく先にいただきます。洗った食器で良ければ、遠慮なく使ってよ。箸は、使い捨ての割り箸なら確か引き出しにあるから」
「はい。ありがとうございます」
 彼女は微笑んで、タスクが茶碗を手に取るのを見つめていた。
 外食以外で、誰かが作った料理を食べたのはいつぶりだろう。タスクはプライベートではあまり社交的な方ではなく、誰かの家に食べに行ったことも、自分の部屋に招いて食べたこともない。あるとしたら、幼い頃、実家でのことになる。そんなことを思い出しながら、味噌汁を飲んだ。
彼女の手際から予想はしていたのだが、手作りの朝食は、期待を遙かに上回って美味しかった。味噌汁の味噌の加減はとてもよく、出汁も程よく利いていた。とにかく味付けがちょうどいい。素直に美味しい。納豆も箱のまま出すのではなくて、ちゃんと器に盛られている。彼女は、素敵な朝食というものを、よく分かっているようだった。どうすれば、美味しく、心地良い食事になるのか。
 心地良い?

  どこからかコロコロと転がり出てきた丸いものへ手を伸ばす
  本当にコロコロと音がする
  少しカラカラといっているかもしれない
  それともコルコルかもしれない
  音は混ざり合って僕の心の穴にコロリと落ちたのかもしれない
  その感触は堅く凝り固まった胸の奥を軽くほぐしていくような気がしていた
  コロコロ
  カラカラ
  コルコル
  混ざり合ったリズムが心の穴に落ちていく

 タスクは、心地良いという感覚をもう一度じっくりと自分の中に探し求めた。棚卸しをするように、心の中の、頭の中の情報をあちこち取り出して、くまなく調べて、元通りに配置していく。そうすると、胸の奥にほんのりと温かいような、懐かしい感触が感じられた。
 それは、嬉しいとか、安らぐとか、楽しいとか、そういった感情を少しずつ内包した、緩やかな波のような感覚だ。微かな温かい揺らぎが、ほんの少しずつではあったが、確かに生まれていた。乾いていた大地にあふれ出した水が吸い込まれるように、少しずつ、少しずつ彼の胸の奥の方に沁み込んでいく。こんな感覚を抱いたのは、随分昔のことだったように感じる。
 小松菜を口に運び、ゆっくりと噛みしめる。じっくりと味わってから、タスクは言った。
「ありがとう、美味しいよ」
 榊タスクにまだ少しでも心があるというのなら、それは本当に、心からの言葉だった。
 彼女は、そんなタスクの言葉に微笑んだ。
 簡単な惣菜だったが、飯がすすんだ。卵焼きはほんのりと味のついただし巻きだった。珍しく飯をおかわりする。彼女はそんなタスクの食べっぷりを、嬉しそうにずっと見ていた。食後には緑茶まで用意されて、それも美味しかった。
 彼女はタスクが食べ終わった後、食器を丁寧に洗い、水滴を拭うと、再び飯や味噌汁をよそって、コーヒーテーブルで食べた。この部屋には、他に適当なテーブルがない。リビングテーブルはあるのだが、それは仕事用にしていて、パソコンと資料の束が鎮座している。タスクの仕事場で、仕事道具だ。
 女性が食事をしている姿をジロジロ見るのも失礼かと思い、彼女に断ってソファの方に移ると、テレビをつけてそれを眺めた。朝のニュース番組が、美術展の特集をしていた。
 それは、タスクが感情を確かめるために観に行った美術展についてだった。番組内で、幾枚かの絵画が紹介される。じっくりと時間をかけて観たたはずなのに、ほとんど展示の内容を覚えていなかった。
 ほんの数か月前の話だというのに。
 もし、とタスクは考えた。もしもう一度、今度は彼女と一緒に観に行ったのなら、何かが変わるだろうか。変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。そんなことが、タスクに分かるはずもない。その気持ちの中に、変わるかもしれないという期待がひっそりと残っていたことは、タスク本人さえ気づいていない。
「ごちそうさまでした」
 ちょうどニュース番組が終わる頃に彼女の声が聞こえて、タスクは彼女が食べ終わったことを知った。彼女は、茶碗を重ねることなくキッチンへ下げて、さっきと同じように丁寧に茶碗を洗った。
 不思議な光景だった。見慣れないはずなのに、そこに彼女がそうして立っていることがとても自然なことのように思えたからだ。彼女とずっとそうしていたように感じる。ひとつの部屋で一晩寝起きして、彼女の手料理を一度食べただけなのに、何故自分がそんな風に考えたのか、タスクにも分からなかった
「そうだ、近くにコンビニがあるから、その……何か必要なものがあったら、買ってきたらどうかな」
 タスクが言うと、彼女は少し困ったように彼を見つめた。
「あ、お金は僕が出すから、遠慮しないで」
「すみません……」
 彼女は、消え入りそうな声でそう呟いた。
「ほんとに、気にしないで。美味しい朝食のお礼だと思って」
 着るものはとりあえずタスクのもので代用できるとしても、下着や化粧水など、女性だったら必要なものや欲しいものがあるだろう。タスクには姉が一人いるので、そういうことには多少気が付くことができた。
「場所は分かるかな。昨日、通りかかったんだけど」
「あ、はい……」
 彼女はそっと頷く。
 一緒に行こうとは言わなかった。彼女が気兼ねなく買い物できるように、一人で買いに行った方がいい。クローゼットから黒いダウンジャケットを出すと、彼女に渡した。細身のものなので、彼女が着てもそれほど違和感がないと思ったからだ。そして、財布の中にあった五千円札を渡した。
「これで大丈夫かな」
 彼女は、申し訳無さそうに両手でそれを受け取った。
「すみません……」
「本当に、いいから。それより気をつけてね」
 彼女を玄関まで送った。
 彼女は一度振り返って、それからエレベーターホールの方へ歩いていった。
 黒いダウンジャケットがエレベーターに吸い込まれるのを確認して、ドアを閉めた。鍵は閉めないでおいた。
 ソファに座ると、テレビがつけっぱなしになっているのに気づいた。彼女がいなくなると、部屋はまたタスク一人の世界に戻った。彼女の存在はもうどこにも残っていなかった。夢でもみていたのかもしれない、とタスクは考えた。
 彼女の作ってくれた朝食を食べて、忘れていた心地良さを少しだけ思い出した。それは、もし夢だとしても、とても良い夢だった。洗ったばかりの一人分の食器は、まだ僅かに水滴が残って光を反射していた。
 彼女は、戻ってくるだろうか。ふいに現れたように、ふいにいなくなってしまうのではないだろうか。幻のように。そんなこともあるさ、とタスクは考えた。
 それから仕事をしながら夕方まで待ってみたのだが、彼女は戻ってこなかった。まあいい。そんなものだ。気にすることなく、仕事を続けた。それでも念のため、玄関の鍵は開けたままにしておいた。
 仕事を終えて、シャワーを浴びてパジャマがわりのスウェットの上下を着るとベッドに横になった。寝不足で、体のあちこちが痛み、疲れていた。だからそのまますぐに眠りに落ちた。


その生き物のことを、タスク達は〝ふわふわ〟と呼んでいた。
 ふわふわの柔らかい毛に包まれた小さな生き物。その生き物は、クラス中の生徒の愛情を受けて、自由気ままに育っていた。
 普段は乱暴な男子でさえ、ふわふわに触る時だけはぎゅっと唇を結んで、まるで壊れ物に触れるかのように恐る恐る手を差し出した。
 ふわふわの正体は、一匹のジャンガリアン・ハムスターだ。橙色に近い明るい茶と白のツートンカラーで、ピンク色の小さな鼻と手足をしている。
 主に世話をしているのは、クラスの生き物係の女子だった。ピンク色が好きで、フワフワ、キラキラしたものが大好きな女子だ。その女子は、早朝に登校してきたら真っ直ぐにふわふわのところへ行き、汚れた寝床を交換して、丁寧に掃除をして、水入れと餌入れを洗い、綺麗な水と新鮮な餌を与えた。時々ふわふわの背中を撫でて、とても嬉しそうに笑っていた。ふわふわの世話は、クラス中の皆が認める、ある種の特権だった。
 ふわふわは、間違いなくクラスのアイドルだった。
 ホームルームの前にはみんなが代わる代わるケージを覗き込んで、休み時間の度にケージの周りに集まり、キャアキャアとはしゃいでいた。
 ふわふわのどんな姿でも愛おしかった。
 トウモロコシの粒を一粒ずつ必死に頬袋に詰め込む姿。車輪で無心に走る姿。毛繕いをする姿。丸まって眠っている無防備な姿。一生懸命に水を飲む姿。ポロリと溢れた小さな糞でさえ、可愛いものに見えた。
 そのふわふわが、ある日死んだ。原因は分からない。突然のことだった。生き物係の女子が登校して様子を見ると、すでに冷たく硬くなっていたらしい。
 女子達を中心に瞬く間に泣きべその輪が広がって、そのうちクラス全体が泣き声に包まれた。女子達は、その後の授業中もずっとすすり泣きを漏らしていた。
 昼休みになると、担任の先生の提案でクラス全員でふわふわの墓を作り、手を合わせた。
 ふわふわがいなくなってから、クラスから笑い声が消えた。冗談ではなく、普段なら悪ふざけをするお調子者は無口になり、いつも給食をおかわりする大柄な生徒はその日から給食を残すようになった。
 しばらくそんな調子が続いて、間もなく新しいジャンガリアン・ハムスターが現れた。
 先生の手によってペットショップから連れてこられたハムスターは、ふわふわより幼くて、小さくて、白い毛並みの面積が多かった。性格もずっと臆病で、生き物係の女子が手を伸ばすと、ケージの隅に丸まって顔を出そうとしなかった。
 それでも、クラスメイトの雰囲気は瞬く間に明るくなった。みんなでケージを覗き込み、笑顔で新しいハムスターを眺めていた。
「新しいふわふわが来たよ」
「ほんとだ、やっぱりふわふわだね」
「小さいね」
「白いね」
「おうちから出てこないよ」
「餌あげたい。え、もうあげたの? じゃあ今度あげさせて」
「毛玉みたいでカワイイ~」
 女子達は、カワイイ、カワイイと繰り返す。
 ふわふわのいたケージは、新しいハムスターの居場所になった。その新しいハムスターも、間もなくみんなからふわふわと呼ばれるようになった。
 クラスメイトは、相変わらずそのケージの周りに集い、キャアキャアとはしゃいだ。
 タスクだけが、そんなクラスメイトの態度に、戸惑いを感じていた。
 ふわふわが死んだ時は、皆あれほど悲しんでいたのに、今はもう新しいふわふわに夢中になっている。皆は笑顔で、歓声を上げて、新しい小さな生き物を受け入れている。
 教室には、笑い声が戻った。無口だったお調子者は性懲りもなく悪ふざけをするようになり、給食を残していた大柄な生徒はおかわりをするようになった。生き物係の女子でさえ、何事もなかったかのように新しいふわふわの世話をしている。
 先生は、そんなクラスの様子を見て満足そうだった。
 タスクは、それらの反応に言いようのない違和感を覚えた。死んでしまったふわふわのことを思う度に胸が痛んだ。新しいハムスターを見るのにも抵抗があった。
 
  茶と白の毛並みの、丸いふわふわ
  お前は、確かにこのクラスにいたんだよな?
  ふわふわはひとつだけだ
  ふたつはいない
  僕が覚えているふわふわは本物のふわふわなんだよな?
  きっとそうだよな  

 タスクは、心の中で何度もふわふわに語りかけた。そうでもしないと、タスクの中のふわふわが、どこかに消えていってしまうようで怖かったのだ。
 結局、新しいハムスターのケージにタスクが近づくことはなかった。
そのうち、クラスメイトが何だか自分とは違うところにいるような気がして、タスクは孤立するようになった。正確には、自分からクラスメイトに距離を置くようになった。皆が何を考えているのか分からなくなったからだ。
 みんな、ふわふわのことを忘れてしまったのだろうか。
何かが根本的にずれている、そんな感覚だけがあった。だが、皆がずれているのか、それとも自分がずれているのか、その頃はそんなこともまだ分からなかった。
 正直なところ、今だってまだ分からない。
 タスクの中のふわふわは、今でも一匹だけだった。
 タスクの中の幼い心は、今でもずっと迷い続けていた。

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