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悪夢01号

「夫ではない」何かから逃れたい。
 必死に声を出そうとするけれど、何度やっても音にならない。
 左腕は自由になったけれど、のしかかる「男」の重みは増してくる。
 けれど、夫にしては「軽い」。
 だから、絶対に「男」は夫ではない。
 おーい!
 必死の声だった。
 名前を呼ぶほどの余裕はなかった。
 ただ、おーい、おーい、と必死に叫ぶだけ。
 気づいてほしい、ただそれだけのために。
 苦しい。
 知らない男にのしかかられているという不快感からではない。
 「何者かわからない不気味な何か」があるという気持ち悪さがあふれてくる。
「おーい!」
 ようやく声が出た。
 何度も呼ぶ。
 名前をようやく呼べた。
「どーした?」
 彼がドアを開けてのんびりとやってきた。
 おかげで呪縛は解けて、目が覚めて、びっしょりとかいた汗がひんやりとした。
「ぎゅーっとして!」
 叫んだ。
 これがまともな第一声。
 必死だった。
 声を振り絞った。
 一番効果的。
 「厭なもの」を払うには、彼に包まれるのが手っとり早かった。
 これで「厭なもの」は一瞬で退散する。
 後腐れなく、彼に抵抗することもせず、圧倒的な風で吹き飛ばされる枯れ葉一枚のように消えてなくなる。
 夫は大きく手を広げて、どーんと私にのしかかった。
 さっきの「厭なもの」とは比べものにならない重さ、体温、感触、匂い。
 何もかもが彼だ。
 本物だ。
 リアルだ。
 息苦しいのでさえ心地がよい。
 汗がひいてゆく。
 ぜいぜいと息をして、恐怖の欠片を飲み込む。
 彼の存在感に安心するけれど、息が切れる。
 ハアハアと口で息をして、手足や頭が痺れてくる。
 過呼吸だ。
「ゆっくり息するんだよ」
 男子校で演劇部に所属していた彼が言う。
「複式呼吸するの。息を限界まで吐ききって、そうすると空気が自然に入ってくるから」
 私の全身を圧迫しながら、彼が言う。
 すうー、はあー。すうー、はあー。
「できないよう」
 ぜいぜいと息をしながら、訴える。
 彼はのんびりと同じことを繰り返す。
「すうー、はあー」
 どれくらい経っただろうか、忙しい彼の手を煩わせていい時間内であることは確かだったけれど、まともに呼吸ができるようになるまでずいぶんかかったような気がした。
 私の上に圧倒的な存在感でのしかかっている彼はぐったりと脱力していて、それが心地良かった。
 いつもの彼だ。
 本物の彼だ。
 これは現実だ。
 私は叫んだ。
「くっそー、絶対小説のネタにしてやる! ちくしょうぅ」
 言葉は悪いが、はっきりと叫んだ。
 彼は苦笑していた。
 あの時と同じ「奴」だ。
 病院で「ずっとここにいろ」といった蜘蛛のような爺と、同種のものだ。
 不吉で、陰気で、息苦しくて、重い、覚醒と眠りの狭間にしか存在しない「もの」。
 それは薄い眠りの時にたびたび現れる。
 眼鏡をかけた陰気なチーズ売りの男だったり、ひたすらライムを切り分けるメキシコ料理店のキッチンにいる日本人の女性料理人だったり、焼失した銭湯の跡地に作られた閑散とした駐車場の警備員だったり。
 姿を変え、形を変え、不吉なそれらは「隙間」を使ってちょっかいを出してくる。
 隙さえあれば「そっち側」に引っ張っていくように。
 奴らからすれば「こっち側」か。
 どちらにせよ、いくつもりはない。
 絶対にない。
 断じてない。
 世界が破滅しようと、終わろうと、私は生物として死んで、土になる。
 「そっち側」にはいかない。
 そのために、彼が必要だ。
 それを改めて、ありがたく感じた。
 この文章を書いていて、少々自分が奇矯に思えてきた。
 少々、というより、かなり省いた危うい部分が多分にあるので、私は控えめに言ってかなりイカレているだろう。
 その私をぜひにと望んで何度もプロポーズをして、妻にして、私のイカレた言動を面白がって風のように受け流す夫はまるで柳だ。
 強い風に当てられてもびくともしない。
 流れのあるままに身をまかせて、そのくせ幹はしっかりと残っている。
 それが柳の恐ろしいところだ。
 決して折れない。
 どんなに強い力を加えても。
 私は強風なのか? 
 葉を散らせ、枝を折る強風なのか。
 そうだろう。
 混乱を極めた台風だ。
 ぐるぐると停滞していたあの台風だ。
 それでも、彼は受け流す。
 見事に、美しく、そして機知に富んだ言動で。
 彼にニコリと笑われると、熱く荒れた心が安らぐ。
 彼にすべてを任せて大丈夫だと思える。
 そうなるまで当然長い長い時間が必要だったのだけれど、ようやく最近素直にそう思えるようになった。
 薄い悪夢との戦いはまだ続くだろう。
 濃い薬を飲まなければそれは避けられない。
 必要なのは、睡眠時間と、彼とともに横になれる広く堅いベッドだ。
 そのためにまた私は悪夢をみる。
 何者にのしかかられようと、それを糧に生きる。
 その気味の悪い生き方を、受け入れるほどではなくても、認めることはできるようになった。
 できれば悪夢はみたくないのだけれど。
 少しずつでも私の精神状態は良くなっていくのだろうか。
 薬を飲まずとも、悪夢をみなくてすむ夜がくるだろうか。
 
 ――了――

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