虫のみる夢 6

第二章

   「私のことなんて説明するのは無理よ。だって私、私じゃないもの。でしょ?」
                   ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』より

   1
 
その日は、一日部屋に引きこもって仕事をしていた。
 ところが空が暗くなりはじめた頃、いよいよこれで最後という記事に差しかかって、唐突に書き方に行き詰まりを感じ、手が止まってしまった。感情があるなしに関わらず、こういうこともあるのだと、タスクは淡々と思った。
 とはいえ、座ってパソコンを前にしていたところで、書くべき文言が思い浮かばず、縦になっても横になってもどうにもならない。それについて特に焦ったり困ったりすることもないのだが、彼の感情がどれだけ冷静であろうと、そんなことには関係なく締め切りというのは厳然と存在する。明日の朝までに記事を仕上げなければ編集者が困るし、それによってタスクだってマイナスの評価を被ることになる。
 さて、どうしたものだろうか。
 行き詰まりの原因が感情的なものでないことは分かっている。問題は別にある。何か具体的な対策をとる必要があるのははっきりしていた。
 タスクは少し考えて、昔書いた記事や、手元にあった雑誌や小説をパラパラと捲ってみることにした。どこかにヒントになるような文章があるかもしれないと思ったからだ。だがその試みは、雑誌を数十冊積み上げるという結果だけを残してあっけなく終わった。ヒントというものは、そう簡単に転がっているものではないようだ。
 次に、ストレッチを試してみた。身体の凝りがとれて血の巡りが良くなれば、脳が活性化して良いアイデアが浮かぶかもしれない。腕を上げ、足を伸ばし、腰を回して、数分間あちこちを動かしてみる。
 結果から言えば、それも無駄だった。多少凝りがほぐれたところで、文章が書けるようになるということはないようだ。初めからそれほど期待はしていなかったので、すぐ次の方法を試す。
 音楽を聴いてみることにして、スマホを手にとった。感情的に迷うことがないので、こうなった時の頭の切り替えは早い。だが、いざ選ぼうとすると〝プレイリストが選べない〟という不都合な状態が依然として続いていることに気づいた。それならと、曲全体をシャッフルにして再生した。クラシック、ロック、ポップス、ジャズと、様々な楽曲が入り交じって再生される。
 部屋の真ん中に立って、リズムに合わせて肩を揺らしたり、右左へ体重を移動したり、首を傾げたりする。音楽から色々なものを想像する。厳然と構えた西洋貴族、激しく走り回るレーシングカー、軽やかにステップを踏む若者達、優雅に舞い踊るエトワール、爆発する映画のワンシーンを思い出す。サウンドトラックとして、自分の今の状況を劇的に変化させてくれないだろうか。
 結局〝音楽が流れている〟という以上の感覚は得られなかったので、素直に停止ボタンを押した。他にもいくつかのことを試してみた。例えばぐるぐると部屋の中を歩き回ってみたり、映画を見たり、ワーキングチェアに腰掛けて趣味のサイトを眺めてみたりだ。その結果は、ストレッチと大差なかった。
 結局どうにもならず、最後にはソファに座り込んだ。これだけやって何も浮かばないのなら、いっそ何もしないで待つという方法もあるのではないか。そうして時計を見つめながら、淡々と何もしない時間を過ごした。

  無音
 しんとして空気の匂いさえしない
  リズムがとれない
  踊り続ける必要があるのはわかっている
  けれどしんとして心臓の音さえ聞こえない
  回り続けないといけないのに
  歯車は空回りを続けている
  苦痛さえ感じないこのゴムのような心臓に
  いったい他の何が感じられるというのか
  
 真夜中近くまでぼんやりと過ごしたところで、何もしない時間が本当に無駄な時間に終わったことが証明された。放置されたパソコンは自動的にスリープモードに入っており、モニターは真っ暗だ。タスクのアイデアも同様に動くこともない。
 いよいよ困ったことになった。もっとも、困ったという感情そのものは今のタスクには備わっていない。締め切りに間に合わないと困ったことになると、客観的に考えることができるだけだ。
 何をやっても、どれも効果がない。
 それでも締め切りがある以上、何もしないわけにもいかない。
 まだ試していないいくつかの可能性を検討した上で、こうなったら、いっそ外に出てみてはどうかと考えた。
 真夜中の散歩だ。
 以前は執筆に行き詰まった時、よく散歩をした。それが気分転換になって仕事がはかどった、という経験をなぞったものだが、今でもうまくいくのかどうか、やってみるしかなかった。
 部屋着に厚手のジャケットを着てスマホと鍵を持つと、散歩用のスニーカーを履いてドアを開けた。夜の冷たい空気を吸って、鼻がつんと痛む。寒さに驚いて染みだした熱い涙が目頭に溜まった。
 玄関の鍵を閉めると、そのままエレベーターホールを通り過ぎて、階段を使って裏口まで下りた。空気が、むき出しの頬や耳に染みるように冷たい。だが、その冷たさが意識をすっきりさせてくれた。家にいて何の変化もないよりはずっといいのではないかとタスクは考えた。
 そうして、特に目的地を設けず足が向くままぶらぶらと歩き始める。通りすがりに幾棟ものマンションを見上げると、まだ明かりがついている窓がチラホラとある。
 ある窓はカーテンを開け放して、ある窓は半ばカーテンを閉めて、ある窓はカーテンを閉めてその微かな隙間から、橙色だったり白色だったりする光を漏らしている。その明かりを見て、夜更かしをしているのは自分だけではないことを確認する。
 以前はそうやって時間を共有する人がいることに何かしらの感情の動きを感じていたような気もする。共感というのだろうか、多くの人が眠っている時間帯に起きている数少ない同士に向けて、嬉しさや親しさのような感情が僅かにあった。今は何も感じることはない。それでもいいだろう、と散歩を続ける。今は共感や親しさが欲しいわけではない、創造力を取り戻したいだけなのだ。
 タスクのアパートの周辺では深夜まで営業しているのはコンビニくらいで、後はずっと静かな住宅街が続いている。冷たい空気が頭を冷やし、仄暗い景色がタスクの神経を研ぎ澄ませる。すでに書いた原稿を暗唱しながら、思いついた文章を時折ボイスメモに残した。
 寒さのおかげか、気分転換ができたせいか、少しずつアイデアは溜まっていく。冷たい空気を肺に溜めては吐き出して、夜道を淡々と歩き続ける。単純なこの方法は、今日試した中では最も効果があったようだ。
そうやってしばらく夜道を一人で歩いていると、道端に女がポツリと立っているのを見つけた。女の真上に電灯があるおかげで、少し離れていてもはっきりと姿が見えた。
 二十歳くらいだろうか、華奢でどこか頼りない立ち姿だ。真っ白なワンピースを着て、薄い水色のカーディガンを羽織っている。とても寒そうな格好だ。実際に寒いのだろう。顔面には血色がなく、小刻みに震えているようにも見えた。
 誰かと待ち合わせなのか、それとも別の複雑な理由があるのか。何にせよ、真冬の屋外で見かける格好でないことだけははっきりしていた。
 真冬の夜中に薄着で立ち尽くす様子は、一般的に見てもとても不自然だった。とはいえ、わざわざ避けて通るほどのことはない。少し距離をとりながら早足に通り過ぎれば何も問題はない、とタスクは判断する。
「あの……」
 傍を通り過ぎようとした時、彼女が何か声を漏らしたのが耳に入った。
 タスクは無視して通り過ぎようとした。
「あの、すみません」
 もう一度、今度ははっきりと声をかけられ、さらに腕までとられて、いよいよ自分に声がかけられていることを認め、立ち止まらざるを得なくなった。
 ゆっくり振り返って彼女の顔を見ると、切れ長の目で見つめ返された。彼女は目を瞬き、戸惑っているようだった。言おうか言うまいか、そんな感じだ。思いつめたような目に睫毛が影を落として、彼女の印象をいっそう暗くしている。
「あの……わたし……」
 掠れた声で、彼女が呟く。黒々とした瞳が必死にタスクを見つめている。肩が、小刻みに震えていた。緊張しているのか、寒いのか。その両方かもしれない。
「泊めてもらえませんか?」
「え?」
「あなたのおうちに、泊めてもらえませんか?」
 思いがけない言葉だった。
 彼女のような女性が、人気のない道で、しかも通りすがりの初めて会った男性にいきなり泊めてくれとは、どう考えても奇妙だった。そのくらい、感情がなくても理解できる。きっと、理由があるのだろうと思った。少し考えてその理由を思いついた。
「僕、女の人をお金で買うとか、そういうことには興味ありませんから。他を当たってください」
「違います」彼女は首を振った。「違うんです。そうじゃないんです」
「違うんですか?」
 彼女は長い髪をサラリと振り、何度も頷きながら、真摯な瞳でタスクを見つめ続ける。
「違います。本当に、ただ泊まらせて欲しいだけなんです」それから「料理もできます。だから泊まらせてください」と彼女は続けた。
 感情のない榊タスクには同情心どころか、下心さえわかない。だから、あくまでも論理的に考えた。彼女の言葉を鵜呑みにして部屋に連れて行ったら、もしかして、間もなく強面の男が乗り込んでくるのではないだろうか。それから二、三発殴られて、有り金を巻き上げられる。あるいは、翌朝目が覚めたら、銀行の通帳やクレジットカードなど一式がなくなっているのではないか。
 そういう可能性について、しばらくの間検討する。そしてひと通り考えてから、その奇妙な申し出を受け入れることにした。
 その理由はこうだ。もし何らかの狙いがあるとしても、彼女の状況はあまりにも特殊すぎた。本当に何かよからぬことを企んでいるのなら、せめてもう少し自然な様子を装うのが道理ではないだろうか。
 それに、こんな人気のない夜道で待ち構えていたとしても、通りかかるのはせいぜいタスクぐらいだ。今の彼女の状況は、どう見ても得られるものよりも苦労の方が多い。気温とそれに対する薄着だけを考えても、過酷と言ってもいいぐらいだ。もしそうなら、彼女が言う「ただ泊まらせて欲しいだけ」と言う要求をそのまま信じてもいいのではないだろうか。
 それに万一何らかのトラブルになっても、それだけのことだ。馬鹿を見るのはタスク一人だし、少々痛い目を見たところで、タスクがそのことで気に病むということもない。落ち込むこともないのだから、次の日には淡々と毎日の仕事をこなしているだろう。彼女を部屋に泊めることくらい、なんということはない。
 とはいえ、タスクの部屋には余分なベッドも布団もない。だからタスクはソファ、彼女はベッドに眠ることになるだろう。まあそれでもいいか。泊めて欲しいというのなら、そうすればいい。彼女の素性についても事情についても、特に問題も興味もわかなかった。
「いいよ」
 タスクがそう答えると、彼女の顔が不安から驚きに変わり、それから花が開くようにパッと明るくなった。
「ありがとうございます」
 彼女は丁寧に頭を下げて、頭を上げた時に乱れた髪をそっと整えた。左側の髪を耳にかけるようにすると、形の良い耳が見えた。暗闇と黒髪の合間に、青白い耳がひっそりと浮かびあがる。
 ここでずっと誰かを待っていたのだとしたら、その耳は氷より冷たくなっていそうだ。彼女は無防備な以上に、とても寒そうに見えた。タスクはジャケットを脱いで、彼女に着せた。
「ありがとうございます」
 彼女はまた丁寧に礼を言って、両手でジャケットの前を合わせ、ほっとしたように溜息をついた。
 タスクは部屋着だけになってしまったが、彼女の方がずっと寒いだろうと思ってこらえた。なにせ、彼女はワンピースとカーディガンだけで真冬の夜に立ち尽くしていたのだ。
 ついでに途中で自動販売機を見つけたので、スマホの電子マネーでコーンスープを買った。それを彼女に渡すと、彼女は本当に嬉しそうにそれを両手で受け取った。コーンスープ缶ひとつでこんなに喜ばれたのは初めてだった。彼女は、それを大切そうに少しずつ飲みながら、タスクについてきた。
 冷たい真夜中に出会った彼女と共に歩きながらも、タスクは不安や迷いさえ覚えなかった。泊めると決めたのだから、それに従おう。何か起きたら、それまでだ。どうにかなる。無感動というよりどこか達観したような気持ちになる。
 しばらく歩いてようやくアパートに到着すると、エレベーターで一気に上がり、鍵を取り出してドアを開けた。彼女と出会ってここまでくるのに、あっという間だったようなひどく時間がかかったような、ふわふわとしたつかみ所のない感覚がした。
 カチャリと鍵が開いた時に電灯に照らされた彼女をチラリと見ると、彼女が緊張しているのが分かった。
 ドアを開けて、支える。
「どうぞ」
「お邪魔します」
 部屋の電気をつけて招き入れると、彼女は軽く一礼して、ゆっくりとした動きで靴を脱いだ。白くてヒールの低いパンプスだった。少しだけ汚れている。
「お茶でも淹れるよ。すぐに部屋を暖めるから、ソファに座って待ってて」
 タスクは、エアコンのスイッチをいれながら言った。外の気温に比べれば、暖気が残った部屋はまだ暖かかった。
「必要なかったら、ジャケットはそこにかけておいて」
 窓際に吊したハンガーを示すと、彼女は頷いて、丁寧にジャケットをかけた。それから自分のワンピースの裾とカーディガンの袖口を整えると、ソファにほとんど恐る恐ると言っていいほど、そっと座った。それは、とても見慣れない風景だった。
 今までタスク一人しかいなかった空間に、知らない女がいる。
 その時になって、タスクは初めて彼女が虫の姿ではなく、普通の人間の姿をしているということに気が付いた。彼女と出会った状況のあまりの不自然さに、そんなことさえすっかり忘れていた。
 夜の道端に立っているというだけなら、いっそ彼女が虫だった方がもっと自然に受け止められたかもしれない。もっとも、その虫を部屋に連れて帰ったかといえば、それはまた別の問題ではある。
 だが、彼女が人間に見えるということが一体どういうことなのか、今のところタスクには見当もつかなかった。人間が虫に見えるという幻覚がいつの間にかタスクの中で終了したのか、それとも相変わらず幻覚は続いていて、彼女だけが特別なのだろうか。
 いずれにしても、タスクはそれ以上の関心を持つことはなかった。分からないことをいつまでも考えていても仕方がない。それに結局のところ、人であろうが、虫であろうが、彼女は今夜一晩泊まって、きっと明日には出て行くのだから。
 湯を沸かしている間に、紅茶パックを二つ取り出しておいた。それから、そのうち使うつもりで買っておいた新品のマグカップを取り出して、それを軽く洗い、使っていたマグカップと並べて、それぞれに紅茶のパックを入れた。湯が沸いたら、カップに注ぐ。紅茶がしみ出すのをしばらく待つ。
 彼女は何も言わなかった。だから、タスクも何も言わなかった。しばらくして、お湯は良い香りの鮮やかな赤茶色の液体になった。
「熱いから気をつけて」
 タスクはそれだけ言って、彼女にカップを渡した。
「ありがとうございます」
 彼女はカーディガンの袖を伸ばして手を包むと、コーンスープの缶を受け取った時と同じように、また両手で丁寧に受け取った。
 そのうち部屋もだんだんと暖かくなってきた。
 タスクは床に直接座って紅茶を飲んだ。これまで一人しかいなかった空間に、今は二人の人間がいる。それはタスクにとって初めての経験だった。二人の間に、特に会話はない。だからといって気まずい感じもしない。
 もっとも、気まずさを感じないのはタスクだけなのかもしれないが。彼女が一体何を考えているのかなんて、タスクには知りようがない。
 彼女はそっと紅茶をすすっているようだった。微かにほっとしたようなため息が聞こえる。今のところ、危険はないようだった。
「そういえば、お腹すいた? 軽く夜食でも作ろうか」
 タスクはそれほど空腹を感じていなかったが、もしかすると彼女はすいているかもしれない。そう思って念のため聞いてみた。
 彼女はじっと手の中のカップを見つめたまま、微かに髪を揺らして頭を振った。
いらないということかな。
 タスクも、黙々と紅茶を飲んだ。
 彼女はたまに顔を上げたが、タスクと目が合うとすぐに下げてしまった。何か話したいことでもあるのだろうか。促した方がいいのだろうかと考えた。だが、彼女が話したくないのだったら、話したくなるのを待った方がいい。それにタスクだって、彼女がすすんで話せるように仕向けられるほど器用な人間ではない。
 それでも、彼女の身体が冷えていたことを思い出して、声をかけた。
「そうだ、お風呂。良かったら入って。身体冷えたでしょ。着替えは僕ので良ければあるから」
 洗いたてのスウェットの上下を取り出すと、タオルと共に彼女に渡した。彼女は、軽く頭を下げてそれらを受け取ると、そろそろと足音を忍ばせるようにしてバスルームへ向かった。
 彼女がシャワーを流している間、タスクはなんとなくテレビをつけた。彼女に対して特別な感情を抱くことはなかったのだが、そうしておくのが自然なことのように感じたからだ。
 テレビを見たことで、タスクは先ほどの疑問の答えをひとつ得ることができた。そこにはおなじみのバラエティ番組の音と共に、虫達がぎゃあぎゃあと騒いでいた。
 彼女一人だけが人間に見えて、他の人間は虫のままだ。幻覚は終わっていない。
 彼女だけが、何故人間の姿をしてタスクの前に現れたのか。彼女は、何歳だろう? 夜道で見た時は、二十歳くらいにみえた。明るいところで改めて見ると、整った顔はそれよりやや上にも見えるが、反対に立ち振る舞いはもっと幼いようにも感じた。
 そもそも、彼女はどうしてあんなところにいたのだろう。薄着だった理由は何だろう。彼女についてタスクが分かることは何ひとつなかった。
「お風呂、いただきました」
 しばらくして、彼女がバスルームから出てきた。頬が桃色に染まっていた。濡れた髪からポタリとしずくが垂れて、タスクの貸したスウェットに小さな染みを作っていた。スウェットはサイズが大きかったようで、裾が余っている。
「ああ、うん」
 ぼんやりと返事をして、タスクは彼女の濡れた髪を見つめた。黒髪は、まるでそこにいるのが当然という風に自然に垂れ下がっている。一度も染めたことがないように真っ黒で、よく擦られた墨のように滑らかな艶がある。
 近頃のタスクにしては珍しく、吸い込まれるように目が離せなかった。少し困ったようにタスクを見返す彼女の目線に気が付いて、慌てて目をそらした。
「僕もシャワー浴びるよ」
 そう伝えて、そそくさと着替えとバスタオルを持ってバスルームへ行く。一気に服を脱いでシャワーを浴びた。冷えた身体に、熱いシャワーが降り注ぐ。髪を洗いながら、タスクは考える。
 タスクがいない間、彼女は何をしているだろう? 
 何を考えていて、何を望んでいるのだろう。
 どうしてそんなことばかり考えているのかと思う。自分は、彼女のことをそんなに気にかけているのだろうか。自分以外のことをこんなに気にすることなど、ここしばらくなかったのに。
 いや、ひょっとしたら初めてかもしれない。今にもバラバラになりそうなその感覚が、タスクの心の奥に僅かな揺らぎを生み出していた。
 バスルームから出ると、彼女は相変わらずソファの上にちょこんと座っていた。テレビもつけず、重ねてある雑誌を捲るでもなく、ただそこにいた。シャワーから出て改めて見てみると、思ったほど違和感のない風景だった。タスクの部屋着を着て、まだ濡れた髪を垂らしてじっとしている。
「終わったよ」
 何を言っていいか分からず、タスクはそれだけを言った。
「はい」
 彼女も、それだけ言って頷く。
「眠たくなったら、いつでも寝ていいから。ベッドを空けるから、好きに使って」
 彼女は「ソファでいいです」と言っていたが、タスクはもうベッドを彼女に譲ると決めていた。彼女もそれ以上食い下がることはなく、タスクに案内されるまま、ベッドにそっと身体を横たえた。
「僕はまだ仕事があるから起きているけど、気にしないで」
「はい、おやすみなさい……」
 彼女はそう言って、布団を鼻のあたりまで引き上げ、無防備に目を閉じた。
 タスクはそれを見届けてから電気を消すと、そっとデスクライトを点け、仕事の続きを始めた。夜道を歩いたのがいい刺激になったのか、文章は嘘みたいにすらすらと書けた。それでも書き上げて丁寧に校正している間に、深夜というより早朝といった方がいい時間になっていた。
 書き上げた記事のファイルをもう一度だけ読み直して、そのまま添付して担当者にメールで送った。夜中に書いた文章は情熱的になるという話があるが、感情のないタスクにはそんなことは関係がなかった。
 メールを無事に送信できたことを確認して、大きく一度背伸びをしてから、パソコンをスリープ状態にした。それからそっとデスクライトを消し、ソファに移った。
 冬の夜は思ったよりずっと長い。もう明け方に近いとはいえ、外はまだ暗かった。これなら少しくらい眠れるだろう。ソファに横になってみると端から少し足がはみ出たが、膝を折り曲げて寝心地を整えた。余分な毛布が一枚しかなく寒かったので、暖房はつけっぱなしにしておいた。疲れていたのか、まどろみはすぐにやってきた。
 遠くなる意識の中で、タスクはまた彼女のことを考えていた。どうして、彼女だけが虫ではないのだろう? 彼女が現れたことに、何か意味があるのだろうか?
 そのうち、タスクの意識は暗い眠りの底へゆっくりと沈んでいった。


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