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短編小説・ようちゃんが泣いている

ママのことが、よくわからない。

土曜日の昼過ぎ、おなかがすいたの、とママに伝えると、ため息で返された。

「もうね、ママ、いやになっちゃった。」

ママにそんなこといわれるの、はなもいやだ。

でも、ママがどうしたら「いや」じゃなくなるのか、まだたった五年しか生きていないはなにはわからない。
おなかがすいたのがだめだったのか、わからないけど、もしわからないって口にだしていったらお母さんら大きな声でなにかを叫び出したあと、はなの頬を引っ叩いたり、はなのおなかとか背中のあたりを足で蹴り飛ばしたりするってことはわかる。
いつもそうだから。

無力な五歳児のはなにできることはママを必死になだめることだけだった。

「ママ、いやなんていわないで。
はなやっぱりおなかすいてないよ。」

「いやなものはいやなんだよ。知らないよ、もういやだ、全部いや。」

はなはママの腕にすがりついたが、ママははなをすげなく振り払ったのだった。

「もういやだ、でてくから。
ようもはなもママはもういらない。ふたりで生きてきなよ。」

そう言い捨てて、ママははなたち三人で暮らす、2DKの古いアパートの部屋から出ていった。

ふたりで生きていけって、五歳児と三歳児にできるわけがない。ママもそんなことはわかっている。わかったうえで、泣き喚くはなやようちゃんを置き去りにするのだった。

ママはそうやって自分の欠けた心の空白のぶぶんを、はなとりょうちゃんを悲しい気持ちにさせることで、いかないでって泣かせることで、補おうとしているのかもしれない。

「はーちゃん?」

ママが出ていくときのバタバタとした気配で、昼寝をしていたようちゃんが起きてきてしまった。
はなのことを呼んでいる。
どうしよう、泣いているはなと、いなくなったママに気づかれたら、ようちゃんが泣いてしまう。

「はーちゃん?ママ?」

ようちゃんは「言葉が遅い」らしい。
ことばに遅いも早いもないんじゃないかとはなは思うけど、たぶんお喋りが下手だって意味なんだろう。
はなが三歳だった頃は大人とふつうに話していたけど、ようちゃんははなを通さないと大人と上手にお喋りできないってママはいう。

逆だ。
大人はなぜかようちゃんのいいたいことがわからないのだ。はなにはわかるのに。

涙をこぶしでぐいっと拭ってからなんでもないかのように努めて、はなはいう。

「ようちゃん。
はーちゃんいるよ。ママはちょっとお出かけにいったの。」

そう伝えると、ようちゃんは眉を八の字にして唇を噛み締める。
ようちゃんの泣く前の顔だ。
いやだ、ようちゃんに泣かれたら、はなはもっと悲しい気持ちになる。

「だいじょうぶ、ママはすぐ帰るよ。
はなもいるよ、さみしくないよ。」

そういってからようちゃんをぎゅっと抱きしめてから、頭をよしよしと撫でてやる。
こういうとき、はなはようちゃんをうらやましく思う。嫌な気持ちになって泣きそうにしたら優しくしてもらえるなんて、はなの人生ではないことだからだ。
ママははなにこんなことしてくれたことない。
なんなら、泣きそうなママをだいじょうぶだよとぎゅっとするのははなの役割だった。

はなばっかりが、がんばっている。

そんなふうに思うはなは悪い子かもしれない。
悪い子だからママははなをいらないっていうのかな。いい子にしたら、ママははなが「いる」ようになるのかな。

がんばらなきゃ。
ママが帰ってくるまで、ようちゃんが泣かないでご機嫌にしていたら、ママははながいないとだめ!って思ってくれるかもしれないし。

はなに抱きしめられたまま、ようちゃんは黙って自分の爪を噛みながら、なんとか気持ちを落ち着けようとしている。

いっぱいお話ししたせいで、喉が渇いてしまった。踏み台を流し場に持っていき、背伸びをしながら蛇口をひねって「割れない、子供用」のコップに水をついだ。

こぼさないよう慎重に踏み台から降りて、はなはコップに口をつける。
そんなはなをみて、ようちゃんは牛乳が飲みたいって言いながら、こちらに手を伸ばした。


ようちゃんは牛乳が大好きだが、はなは牛乳が苦手だった。
お水やお茶と違って真っ白で不透明な液体はなんだか気持ち悪かったし、味もにおいもたくさんするし、それらが口に残るところも気持ち悪かった。
コップに入れるのも、牛乳パックはこどものはなには重たすぎて大変なのだ。

さっきまで泣きそうなようちゃんも大好きな牛乳を飲んだら、ようちゃんはげんきになるかも。
そうしたら、ママが帰ってきたときに、ようちゃんのお世話をしてくれてありがとうっていってくれるかも。

名案だと考えたはなは、ようちゃんに

「牛乳とるからね、待ってね。」

と伝えると、ようちゃんは「牛乳!はやくちょうだい!」とげんきよく返すのだった。

踏み台を冷蔵庫の前に持っていったはなは、冷蔵庫の牛乳を見つけ出す。
重たかったけど、冷蔵庫の扉の内側についているポケットから一生懸命引っこ抜いた。

幸い牛乳の封は空いておらず、手がすべって落としかけたが、中身が出てくることはなかった。

あと一息だ。
床に座り込んで、牛乳のパックを開けようとするも、なかなか開かない。
かたいし、手がすべる。どうしよう開かない。

そんなはなをみてようちゃんはまだかと言わんばかりに「うー。」と不満げな声を出す。
待ってよ、はなも、がんばってるんだよ。

どうしたら開くのだろうか。一生懸命に頭をひねっていたら、いぜん、お教室で牛乳パックで工作した記憶を思い出した。
はなたちこどもは危ないからってハサミを使わせてはもらえなかったが、先生たちは牛乳パックをハサミで切っていた。
ハサミだ。ハサミなら牛乳パックを開けられるはず。

おうちの文房具が入っている引き出しからハサミを見つけ出したはなは自分ってすごいなあと思った。

ハサミはあぶないもの、そう言い聞かせながらはなはゆっくり、牛乳パックの頭にハサミをいれる。
意外と力が必要だったが、斜めに切りとることに成功した。そこを指で開いたら、パックを満たす牛乳が確認できたのだった。

あとちょっとだ。
流しの横の水切りカゴからようちゃんのアンパンマンのマグカップを取り出す。
ふたたび床に座り込み、牛乳パックを持ち、マグカップに注ごうとしたところで手が滑ってしまった。

ドタッて音がして、倒れたパックからは牛乳がドバドバと溢れていく。
急な出来事になすすべもなく、はなは床にぺたりと座り込んだままでいるしかなかった。

ようちゃんの泣き声がはなを責めるように背中から聞こえてきた。泣きたいのははなのほうだ。

お姉ちゃんなのに、上手くできなかった。
うしろでようちゃんはサイレンのような泣き声をあげている。
せきがきれるように、はなも声をあげて泣いた。うえってなって、息がうまくできなくて、苦しい。

溢れた牛乳のにおいも気持ち悪い。
拭かなきゃ、と流しにかかっていた台布巾で牛乳を拭おうとするも、すでに水に濡れていた布巾は牛乳を吸うことなく、牛乳をただ床に塗り広げられていくだけだった。

どうしたらいいかわかんない。
もういやだ、ようちゃんもうるさい。
はな、悪い子だ。

どんどん涙と鼻水が口の中に入ってくる。
しょっぱくて、くるしくて、溺れそう。
もっと小さいとき、ママの「彼氏」って人に冷たい水がはられたお風呂に沈められたときの記憶が蘇った。
お味噌汁にはいってたわかめをのこしたから、怒られたんだ。
あのときもくるしかった。

はなが悪い子だから、こんなくるしいことばっかりなのかな。
ごめんなさい、ようちゃん、ママ。
わかめも食べられない、牛乳もようちゃんに渡してあげられない、こんなはなで、ごめんなさい。

ママが出ていったのは、はなのせいだ。
パパがはなたちをいらなくなったのもはなのせいなんだ。

もう二度と、はなは牛乳なんて見たくないし、飲まない。

そう誓ったはなは小学校の給食で毎日毎日牛乳を飲まされ、悲しい気持ちを反芻するはめになるなんて思いもよらなかったのだった。

なんなら牛乳が飲めないことで、給食の時間が嫌いになりそうなくらい牛乳にまつわるトラウマは増えていく。

はなは、大人になったいまも、牛乳が飲めない。

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