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サピオセクシャル?

 最近、"自分はサピオ(知性愛者)だ!"と主張している人をよく見かける。が、その中には私と同じサピオだとは思えない人間も数多くいる。
例えば、職業や学歴、年齢や見た目などで恋愛対象かを区切る人間だ。明確な定義がない事が原因だと思うが、どこが知性愛者なのだろうか。

 学歴や職歴、外見の特徴などは、全て"知的"に分類されるものだ、と私は考える。
 例えば、白衣を着てメガネを装着していて、常に本を読んでいる人などは"知的"に見えるかもしれない。が、知性的とは言えない。

 それでは、なにが"知性"なのか。物事の道理を適切に捉え、理解し、考えることだと私は思う。例えば、職歴や学歴で恋愛対象を選別するのは、排他的な選民思想の一種で、道理にかなっているとは到底言えない。まさに、知性が伴わない判断だと思う。"知性愛者"という言葉自体が、一部の人間を排斥しかねない響きを孕んでいることは事実だ。だからといって、サピオである我々が、それぞれの人間の価値を決めるような行いをすることが肯定される訳でもなければ、その行為は非常に愚かしいことに変わりはない。

知性を愛するのであれば、知性的でない人間も愛するべきだ。

 二律背反するそれらを愛することこそが、真に知性的な人間だと私は考える。どんな人間も、それぞれの素晴らしい人生や体験がある。誰かを愛し、誰かに愛されている。
小学生の頃、雨でぐっしょりとした靴にガッカリして、敢えて水溜まりを踏んで歩いていたかもしれない。中学生の頃、素行の悪い人に憧れていたり、ノートに書き溜めた黒歴史がたくさんあるかもしれない。それぞれの人生には、我々の想像の及ばない、誰にも迫害されてはならない、誰にも非難されるべきでない、とてつもなく美しい出来事が沢山ある。それらを職歴や学歴で括ることは、誠に愚かである。

 これまでの人生をまとめた言葉は、人に誇れるようなものではない。それでも、私の人生は素晴らしい。

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