見出し画像

普通とは

 なぜ、頭のいい人間が、"普通"の考え方をしなくてはいけないのだろう。なぜ、"普通"に属する人達は、頭のいい人の考え方を追求し、理解に努めないのだろう。
『難しいから。』確かに、難しいかもしれない。ただ、頭のいい人が、敢えて普段辿ることのない考え方を吟味し、咀嚼し、明確に教えるということは、果たして『簡単なこと』なのだろうか?

 私には、「普通」に苦しめられている友人がいる。その友人は、はっきりいって愚かで、無知で、読解力に乏しい。親切は時に傲慢であり、謙虚は時に怠慢だということを知らない。例えば、知人の失恋に余計に首を突っ込み、あまつさえ知識がないのに解決を試みるのだ。結局分からないのだが。そうして、次に会うときには心理学の本を片手に『次こそは解決するんだ』と、息巻くのである。まぁ、また次に会う時には"楽に痩せられるダイエット"という本を携えているのだが。

 私には、「普通」に苦しめられている友人がいる。その友人は、言語能力が低い。昔から本を読むのが苦手で、作文では決まって『わたしは、』から始まる。自分の気持ちを言語化することが出来ず、いつも『ウザい』『キショい』『ダルい』『好き』『嫌い』などの、面白みのない感情という名の単語の羅列を音読している。

さて、彼らは果たして「普通」ではないのだろうか?

 次に、私の話だ。端的にいって、私は賢い。他人の悩みを知的好奇心の動機にすることはないし、分からないことは素直に『分からない』と言う。本が大好きで、作者の気持ちや言葉の奥行きに思いを馳せるし、自分の感情も論理的に表現することが可能だ。ただ、私は「普通」ではないらしい。どんな題の作文でも、『わたしは、』から始めることはほとんどないのに。皆よりも知的探究心が溌剌としているだけなのに、だ。

一体、「普通」とはなんなのだろうか?どちらかに偏らない、つまり優れすぎず劣りすぎないことなのか?それにしては、少し理想に近いところに「普通」が存在している気がする。「普通」とはなにか。一人暮らしの部屋の廊下から足音がした時の、正体のわからない不気味さと、その正体を暴いてしまいたいという興味を「怖いもの見たさ」と表現するのならば、我々を苦しめている「普通」の真の姿を、怖いもの見たさで私は求めている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?